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『ビヒモス』怪物がヨーロッパを…… バラエティ番組の衰滅。

2018-04-05 11:51:22 | 日記
A.ビヒモス、リヴァイアサン、ゴジラ・・
 「ビヒモスBehemoth」は、旧約聖書に登場する生き物で人びとを暴力的に脅かす怪物。トマス・ホッブズ(1588-1679)の政治哲学書『リヴァイアサン』(1651)は旧約聖書(ヨブ記)にある海の怪物の名からとられているが、ホッブズ晩年の書物(1668)の名が『ビヒモス』である。ポーランドのブラック・デスメタバンドの名前にもあるらしい。しかし、ヒトラーのナチスドイツを分析した書物『ビヒモス ナチズムの構造と実際』でこの言葉は有名になった。これを書いたのは、フランツ・レオポルド・ノイマン(Franz Leopold Neumann 1900年5月-1954年9月)である。ノイマンはワイマール共和国で、左派の法律家として活躍していたがヒトラーが政権につくとユダヤ人でもあり真っ先に追放され、イギリスに亡命し、やがてアメリカに移ってナチス批判の活動をするなかで『ビヒモス』を書いた。

「ノイマンの生涯の事歴は、手短に語れる。イデオロギー的思想家および理論家としてのかれの成長とそれとの関連は、はっきりしている。1900年、ユダヤ人を両親としてカトヴィッツ(いまのカトウィーツェ)に生れたノイマンは、ドイツ人とポーランド人との間で争われた境界地域で成人したが、そこは、かれの生涯の間に三度一方の手から他方の手へと移されることになった。ノイマンの家族にとっては、大ていの東ドイツのユダヤ人にとってと同様、ドイツ帝国の方がはっきりいって好ましかった。だが、かれらはまた、この国の西部やベルリンにいるずっと強く同化していた同宗教者たちよりも、はるかにユダヤ人であった。ノイマンは決して厳格な信者ではなかったが、同時に決してユダヤ人の出であることを否定しなかった。かれが、ドイツ人であるとともにユダヤ人であることに何の疑問も抱かず、また矛盾も感じなかったという事実は、かれがアメリカの生活に適応しアメリカ市民権を獲るに当っての自信を説明してくれよう。まわりの外的事情がどんなに変わろうと、かれはつねに自らがなにものであるかを正確に知っていたのである。
 青年になって、ノイマンは第一次世界大戦の末期に軍務につき、1918年の休戦のすぐあとにおこった兵士評議会で最初のイデオロギー教育を受けた。そのあと、フランクフルトで労働法を学び、1927年ベルリンに住んで労働弁護士となった。首都での生活はたしかにかれの趣味に合った。その後の生活では、かれはベルリン風のごつごつした調子でドイツ語と英語の両方をしゃべった。その調子は、かれが次第に耳が遠くなると金属的といってもいい響きになった。
 ドイツのデモクラシーが存続していたら、ノイマンが有力な政治的影響力のある地位についていたことは確かである。ワイマール共和国末期の数年間、かれは、高等(ホッホシューレ)政治(・フュア)学院(・ポリテイク)で教鞭をとると同時に、社会民主党幹部の法律顧問もしていた。後者の活動では、かれは公式機関の指導の型にはまったやり方を軽視して、うるさい虻として振舞った。そこで、ナチスが政権をとったとき、ドイツの市民権を奪われて国外に追放された最初のもののひとりにノイマンがなったのは、当然の成行きであった。
 亡命の途次、かれが最初に足をとどめたのはロンドンであった。ここで、かれ特有の実際的精神から、ドイツ法の知識が外国ではかれにとってなんの役にも立たぬことを知って、ハロルド・ラスキについて政治学の学位をとって学者に転身した。しかし、やがて同じ実際的な見地から、英国には長く住めないだろうと察した。20年後に回想しているように、かれは、はじめ「ドイツの近くにいてドイツとの接触を失わないようにするため」にそこに行ったのだった。しかし、「まさにイギリスで」かれは「〔ナチ〕体制を内部から突き崩すという期待を捨てなければならないことをはっきり知るにいたった。……その……体制は、弱まるどころかますます強力になるだろう。そして、これはヨーロッパの主要国の支持によってなのである。だから、はっきりした断絶――心理的、社会的、経済的な――がなされねばならず、新しい生活がはじまらねばならなかった」。しかし、窮屈で同質的な社会であるイギリスは、「その新しい生活をなすべき国ではなかった。……ひとは決してイギリス人にはなりきれない。……アメリカが、人間として、知識人として、勢威学者としての三重の転換を遂げるのにうまくやれそうな唯一の国と思われた」。 
 ノイマンは、1936年――ニューディールの絶頂期――にアメリカ合衆国に着いた。そして、イギリスの政治の臆病さを見たあとでは、かれのいわゆる「ルーズヴェルトの実験」は、トマス・マンやその他多くの亡命同胞たちが得たと同じ好ましい印象をかれに与えたことを、率直に認めた。しかし、アメリカの政治生活に関心を持つとかそれに入ってゆくとかは、かれの主たる関心にとっては周縁的なことであった。主たる関心事は、弁護士としての才能とロンドンで得た新しい知的技能によってナチズムを攻撃することであった。フランクフルトからコロンビア大学に移ってきていたアドルノとホルクハイマーの左翼的な「社会研究所」Institut für Sozialforschungに腰をおちつけて、かれは、今では主としてそれによって彼が記憶されている『ビヒモス』という表題をもつヒトラーの政治体制の膨大な研究にとりかかった。アメリカが大戦に参戦したあとでは、かれはワシントンに移って、戦略情報局のドイツ問題専門家として、さらにのちには国務省のドイツ問題専門家として勤務した。戦争の末期には、かれの分析は、ナチ体制の最も権威ある分析としてひろく認められた。さらに軍事的意味でも、戦争はかれが予想したコースを辿った。それは、ナチズムは、ソヴィエトと英米の軍隊の巨大な力によって壊滅させられるというのであった。
 しかし、1945年以降、ファシズム以後の世界に対するノイマンの希望はすべてかなえられなかった。冷戦は、かれが戦時中の覚書で描いていた社会主義的原理にもとづく国際秩序とドイツ社会の実現の機会を一つ残らず破壊しつくした。アデナウアーの指導下に生まれた西ドイツに対しては、ノイマンは侮蔑を隠そうとはしなかった。かつての故郷であったベルリンに対しては、かれはもっと寛大であった。この分割された都市をなんども訪ねて、社会民主党の指導部や労働組合、新設の自由大学に対して助言と激励を惜しまなかった。その生涯の最後まで、ノイマンは、ドイツと伝統的なヨーロッパ文化への情念的つながりを感じ続けていたのであった。
 アメリカ合衆国では、かれの気に入り、またかれに開かれもした職業は、ただ一つ――大学で教えることであった。かれは、国務省の専門官としての役所勤めを嫌った。しばらくワシントンとニューヨークの間を行き来した後で、コロンビア大学での政治学の専任教授職に就けるようになると、躊躇なくニューヨークを選んだ。1940年代の末ころまでには、ノイマンはアメリカの生活にすっかり融けこんだようにみえた。もう10年以上もアメリカ合衆国を自分の故郷にしていたのである。かれは結婚して二児をもうけた。そして裕福な郊外に住んで、外見上は完全にブルジョワ化embourgeoiséした。
 しかし、この新しい適応は決して完全にまでは到らなかった。ノイマンの学問上の成功がどんなものであるにせよ――それは極めて大きいが――、またかれがアメリカの社会や大学での生活の開放性についてどんなに心温かく語ろうと、かれは、奇妙に環境から超然としていた。それに、かれは明らかに、新しい生活と新しい思考様式を模索しつつあったのだ――そして、かれがそれを発見しえたと考えはじめていたとき、1954年の夏、スイスでの休暇中にかれは自動車事故で死んだ。
」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.77-79.

 ノイマンは大戦中アメリカ国務省などで対独戦情報活動に関わって働いたが、同時にそれが戦後ソ連の二重スパイであったといわれる疑惑にもなった。ナチス体制への徹底した反対は、ソ連に対してはどのような態度をとるか、ヒトラーが消え失せ冷戦が始まった戦後には、これが各自の政治的立場を難しくして、マッカーシズムが吹き荒れる時代がくる。

「「個人がどんなに誠実で賢明で勇気をもっていても、歴史の進路を変えるには全く無力であるような歴史状況というものがある」と、ノイマンは死の二年前に書いた。かれは、自らのことを語っていたのだといえよう。また同様に、サルヴェーミニの場合をも語っていたといえる。この偉大なファシズムの批判者は二人とも、公開の闘技場で主要な役割を演じようと志した。二人とも幾度も失意に傷ついた。そして、結局、二人とも政治活動家としてよりも政治と社会の研究者としてはるかに大きな影響力をもつことになった。
 学者と論争家の間で――あるいはマルクス主義とリベラル=デモクラシーの間で――危うい均衡をとりながら、サルヴェーミニとノイマンは、批判的著作家として後々にまで残る仕事をした。そして、かれらのファシズム研究が厳密細心なものであると同時に明確な立場に立つものであったという事実そのものが、かれらの著作に深い知的責任の色調を与えていた。この二人の間の類縁性は明らかであった。だが、それに気づいた読者は少なかった――おそらく、サルヴェーミニとノイマンの気質と文体が全く違ったものであったからだろう。しかし、かれらが互いに別個に、ファシズムの政治体制の中心的な権力の競合者として、全く同じ四つのグループ――軍、行政官僚、大企業、党――を分別したこと、そして、これも同じように、その第三と第四のものの関係をとくに強調したこと、さらにまた、その活動に制限があったとしても、結局、党の指導が決定的発言力をもったことを認める点で二人が一致していたことは、まことに重要な点であった。
 この最後の見解は、『ビヒモス』や『ファシズムの斧の下で』を左翼的解釈にすぎないと決めつけるものたちを躊躇わせるに十分なものだったといえよう。そしてサルヴェーミニの場合は、たしかにそういう批判者を納得させ、かれのイタリア・ファシズムについての見解は、戦後もあまり重大な反対を受けなかった。しかし、ドイツのファシズム経験についてのノイマンの同様の解釈には、何度も異議が唱えられた。その後の研究は、ナチ体制に組みこまれなかったドイツの企業家の数が、かれが考えたよりも大きかったことを示した。そして、この数の上の修正が、かれの仕事の全体にあとから疑問を投げかけさせたと思われる。だが、ノイマンの著作が攻撃されるにいたったその同じ戦後の時代はまた、ドイツの主要な資本家たちが、ヒトラー時代を実質的に無傷で切り抜けてきたことをも明らかにした。そして、彼らがどのようにしてあの体制に実質的に適応することなしにそのような離れ業をやれたのか、理解に苦しむことであった。ノイマンを批判するものも、ドイツの大企業を擁護するものも、このことを十分に説明していない。
 ファシズム体制の社会経済的基盤に関するマルクス主義的ないし左翼的解釈が語られる場合のもっとも一般的な方式は、次のようなマックス・ホルクハイマーの定言だといえよう。つまり、「資本主義について語ろうとしないものは、ファシズムについても沈黙を守るべきだ」というのである。そのような解釈はいずれも、前者の経済構造と後者の政治組織の間に重大な関係があると考えている。しかし、この関係の緊密さについての考え方には、三つの形があった。もっとも極端な見方は、大企業家が牛耳っていたとするもの――つまりファシズム支配は独占資本主義の支配の見せかけに過ぎぬというものであった。第二の、右の見方のもう少し穏かな見方は、ファシズム体制は、大企業の利益のために、意図的かつ組織的に働いたとするものであった。以上の二つの考え方の当然の帰結は、ファシズムは独占資本主義の特定的な表現形態であり、まだ「ファッショ化」していない主要工業国もそうなる切迫した危険がある、というものであった。第三の見方は、大企業家たちははじめはいくらか躊躇ったが、ファシズムの指導者たちがひとたび権力につくと、大部分はかれらを支持し、こんどはファシズム体制から実質的な利益を受けた、と主張するものであった。この見方は、サルヴェーミニがいつも論じていたところであったし、またノイマンが生涯の大部分の間論じていたことに他ならなかった。
 また、ふたりとも、ファシズムが独占資本主義の唯一のないしは必然的な表現形態だなどとはいわなかった。かれらはただ、イタリアでもドイツでも大企業はファシズムの下でうまくやったし、大部分の大資本家はファシズムに協力して大いに満足できたといったのである。そしてまた、この体制が続いてゆくうちに、企業のトップ指導層と党のトップ指導層の間に一種の共生状態が生じ、この相互作用が全体制の機能の鍵となった、と主張したのである。こうして、大資本家たちは――国民のなかでほとんど独り――ファシズム経験を実質的に無傷で切り抜けえたのであり、一方中産下層階級の人びとは、ムッソリーニやヒトラーの口車に乗せられて、戦争を準備する国家の「高次の」要求の犠牲にされたのであった。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.89-90.

 1950年代のアメリカでは、ナチス・ドイツは自由の敵、映画でも小説でも邪悪な悪役は狂信的なドイツ人にする一方、共産主義のソ連も西側の壊滅を狙って陰謀を巡らせる悪の帝国になっている。そのような図式のなかで、独占資本主義の担い手たちが、ヒトラーの下でもしっかり利益を得て生き延びていたことは、人びとの注意を引かなかった。資本主義と国家の結びつきはアメリカにおいても守られるべきものと、共産主義の脅威が逆に応援してくれたのだ。



B.テレビの時代は終わったのか?
 大学で社会学科に来る学生は、ほぼ半数以上が社会学をやれば「メディア業界」に行って面白い仕事ができそうだという、あまり根拠のない妄想に取り憑かれている。女子アナやTVディレクターといった職業がもてはやされたのは、20年くらい前からだろう。学生に「メディア業界」って具体的にどんな仕事だと思う?」と聞いてみると、これまた半数以上が「テレビ局とかァ…」と答える。「じゃ、テレビ局の仕事って何をすると思う?」と聞くと「えー、お笑い芸人の人なんかとバラエティー番組作ったり…ですかね」という答が返ってくる。
要するにこの子たちの考える「メディア業界」というのは、子どもの頃からテレビで繰り返し見てきたバラエティー番組やお笑いタレントの繰りひろげる、愉快で楽しいスタジオのなかの世界なのだ。もっと昔は、テレビ局でも記者やジャーナリスト志望を口にする学生もいたのだが、今の学生たちの多くは、テレビ局に報道部門があることは知っていても、そこでの仕事はエンタメと区別がついていない。面白い映像を作って流して視聴率をとることが、仕事のすべてのように思っているようだ。たぶんそういう番組しか見てこなかったのだろう。
しかし、その地上波中心の大衆TVバラエティの黄金時代はすでに終わって、メディアはどんどん多元化・多様化するなかで、そもそもテレビを見るという行為習慣が希薄になっている。大学生に聴いてみると、テレビはほとんど見ない、という人が多い。テレビの前に座って楽しく笑う時間自体が、なくなっているのかもしれない。

 「バラエティー番組 どこへ行く 上:「内輪ノリ」から「脱お約束」へ
「とんねるずのみなさんのおかげでした」「めちゃ×2イケてるッ!」。フジテレビの黄金期を支えた長寿のバラエティーが3月で終了した。スマホの普及やネット動画の台頭……。テレビ視聴のあり方も大きく変わる中、バラエティー番組はどうなっていくのか。
 「めちゃイケ」修了 フジ2看板、視聴者離れ
 ♪バラエティーを滅ぼすなよ/フジテレビをおちょくるなよ
 3月22日、「みなさんのおかげでした」の最終回。スーツ姿で登場した石橋貴明と木梨憲武は、1991年のヒット曲「情けねえ」の替え歌を歌い、フジのバラエティーを象徴する存在であり続けた30年の歴史に幕を閉じた。
 フジは80年代、「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチコピーに、ビートたけし、明石家さんまらが出演した「オレたちひょうきん族」を始める。TBS「8時だョ!全員集合」の牙城だった土曜夜8時で視聴率首位を奪った。
 前身の「みなさんのおかげです」が始まったのは88年。当時の人気ドラマや映画のパロディーで笑いを取った。とんねるずが番組スタッフの物まねをしたり、スタッフがCDデビューしたり。「部室の再現」とも評された。
 96年には、土曜夜8時で「めちゃ×2イケてるッ!」の放送が始まる。よゐこ、極楽とんぼなど、メインのお笑いコンビ・ナインティナイン以外ほぼ無名だったが、メンバーの結婚や出産まで映し出し、視聴者を引きつけた。
 テレビライターの戸部田誠(40)は「ひょうきん族までは番組のスパイスだった内輪ノリを意識的に極限まで追求した『みなさん』と、タレントの成長や人生をドキュメントとして見せた『めちゃイケ』。いずれも内輪ノリを生かした番組だった」と指摘する。
 両番組とも近年は視聴率1桁台が続いた。「社会の成熟とともに『みなさん』のようなハラスメントのにおいのするものは嫌われるようになってきた」と戸部田。めちゃイケについても、「成功物語として完結した側面もある」。
 フジの坪田譲治・第二制作室長(52)は「タレントの力をひき出すのは、昔からのフジの強み。出演者、製作者、視聴者の距離が同じであるべきだったが、視聴者が遠くなってしまったのかもしれない」。
 「イッテQ!」「ナスD」人気 スターに頼らず見せ方で勝負
 一方で、放送開始から10年を超えた今も約20%の視聴率を維持する人気番組が日本テレビの「世界の果てまでイッテQ!」だ。
 演出の古立義之(43)は、一般の人の目線を持つように心がける。海外ロケのVTRを見て「これは感動する」「発言がちょっと生意気」といった初見の感想を基礎に、細かな編集にあたる。
 テレビでバラエティーが人気番組となって半世紀。今の作り手たちは既視感のない番組作りに苦慮している。「枠と芸能人が先にあって、『何を伝える?』と考えている。本来は逆だと思う」と話す。自身は、「無名の人を見せる」ことを明確にした。「電波少年」以前から続く「お家芸」だ。97年の入社当時は「スターがでない局だった」と振り返る。だが、イモトアヤコ、みやぞんらを見いだしたことで、「あの眉毛の太い子面白い」と、視聴者の見る動機を生んだ。
 テレビ東京の「池の水ぜんぶ抜く」など近年のヒットバラエティーには、「お約束」の笑いやスター頼みでない、偶発性にかけた番組が目立つ。
 「ナスD」こと友寄隆英ディレクターが人気をさらったテレビ朝日の「陸海空 地球征服するなんて」。秘境を訪ね、果実で前進が真っ黒になるなど破天荒な行動が話題を呼んだ。総合演出の米田裕一(36)は「最初からディレクターを出そうと思っていたわけではない」と明かす。不定期の長期間ロケでタレントを押さえるのが難しかったためだという。
 「時間をかけて奥地まで行ったからとれた映像。どう見せるかを考えた時、最適な調理法だった」。今月からゴールデンに進出する「帰れマンデー見っけ隊!!」も担当する。「素材に対してどの調理法が合うか。ピタッとはまらないと舌が肥えた視聴者には受けない」(敬称略。視聴率はビデオリサーチ調べ。関東地区)」朝日新聞2018年4月4日朝刊、28面文化・文芸欄。

 ぼく自身は、いまもテレビは割合見ているほうだと思う。ニュースや報道番組が多いが、つけていればバラエティもやっているからちらほら見る。お笑い芸人や有名タレントがただ親しそうにしゃべっているだけの番組も多いが、それはそれでなんらかの効用はある。ただ、疲れた気分を癒すのに効果がある落ち着いたトークならよいが、やたら騒がしく馴れ馴れしく自分たちの世界だけがすべてのようなバラエティーは時間の無駄、人生の無駄としか思えない。そういう番組が淘汰されるのは結構なことだと思う。

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