小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

クラウス・マケラ×パリ管弦楽団(Aプロ)

2022-10-18 15:38:28 | クラシック音楽
桁外れの才能で都響と早くから共演を果たし、日本にも多くのファンをもつ26歳のスター、クラウス・マケラが指揮するパリ管弦楽団の来日公演を10/15(東京芸術劇場)と10/17(サントリーホール)で聴いた。2021年シーズンからパリ管の音楽監督に就任しているが、その時点で25歳。現在26歳という超若手マエストロは、2027年にはコンセルトヘボウ管の首席指揮者のポストも決まっている。

ドビュッシー『海』から、パリ管はこんなに面白いオーケストラだったんだ! という嬉しい驚きに満たされた。芸劇は移動に間に合わずロビーで聴いていたので、サントリーで聴いたときは「こんなふうだったのか!」と興奮した。エキセントリックなことは何もしていないのに、音楽全体が立体的で、官能的で鮮烈で、ぴしぴしと発砲している。プレイヤー全員の心がわくわくしていて、お行儀のいいクラシックのコンサートじゃないみたい。オケのコンサートは音を聴くだけでなく、演奏家たちが指揮者をどう思っているか、視線や空気感で感じる楽しみがある。ベテランだらけのパリ管に、少年のようなマケラがやってきて、明らかにみんなワクワクしている。新しい音を出しているのだ。コンサートマスターの千々岩さんの艶やかな音色がさまざまな箇所で光り輝いた。木管のうまさ、響きの豊饒さには息を飲んだ。かさかさという気配を醸し出す弦の弱音にも、面白い企みが聴こえてきた。

Aプログラムはこのドビュッシー「交響詩『海』」とラヴェル『ボレロ』、ストラヴィンスキー『春の祭典』で、芸劇でノックアウトされた二日後にサントリーで聴いて、改めてマケラが選んだ3つの作品が有機的につながっていることを認識した。どの曲にも原始的な「ズン・チャッ、ズン・チャッ」という野蛮なリズムが登場し、オーケストラが狂騒へ飛び込んでいくことを誘導している。文明的ではない、それ以前の非文明的な衝動が現れている感じ パリ管らしいプログラム、というだけでなく、マケラとともに未知の次元に飛び込もうとしているパリ管の現在が聴こえてきた。

それは真にユニバーサルな表現とは何か、という大きな問いで、パリ管がパリ管らしいローカルな音を出していればいい、ということとは別の次元上昇が起こっていた。宇宙ステーションから巨大な光を放って、別宇宙からの回答を待っているような音と言えばいいか。2015年のハーディングのマーラー5番を聴いた後、「こんな恐ろしいエリート軍隊みたいなマーラーを、本物のエリートであるパリ管を使って鳴らすなんて」と書いたことがあり、そこから日本のクラシックファンの反感を買って、すっかり自分は凋落した音楽ライターになってしまったが、あのとき恐怖を感じた集団と今回のパリ管が同じオーケストラだと思えないのだった。

『ボレロ』は芸劇で最初に聴き、スクリーンの中の無敵艦隊が、映画館の客席に水しぶきをあげて乗り込んできたようなド迫力に心臓が止まりそうになった。前半の木管と金管のソロによるリレーでは、どのパートも緊張して当然だと思うが、パリ管のうまさは格が違っていた。絶対にヨレないし外れない。こんなものを書いたラヴェルは、管楽器いじめだと毎回思うが、管楽器だけでなくすべてのパートがよじれていて、腸捻転みたいになっている。管に気を取られつつ一瞬バスを見ると、全員が日時計のように退屈で単調な音を鳴らしている。ヴァイオリンは赤ん坊を抱くように楽器を抱えている。改めて『ボレロ』の底なしのブラックユーモアに哄笑的なセンスを感じた。バルトークを弾くためにマジャール後を学んだ、という演奏家の話を聴いて「それは素晴らしい」と思ったことがあったが、ラヴェルのボレロは完全な宇宙語で、「感じる」しかない言語だった。みんながそれぞれに原始的かつ未来的な「超・言語」を放っていて、耳慣れたボレロがまったく未知のボレロだった。
二度目をサントリーで聴き、マケラはかなり吟味してこの曲を作り上げていると思った。二回のボレロはそれぞれ異なるボレロで、オケもマケラもその場その場で一回切りの冒険をしていることが認識された。

ストラヴィンスキー『春の祭典』はベジャール・バレエで何度も聴いているので個人的になじみがあるし、バレエの情景を思い出しながら聴く楽しみもあった。ベジャールはバレエリュス版より過激な「鹿の交尾にインスピレーションを得た」男女の群れの「春の生殖」をバレエ化し、初演からしばらくはブーイングの嵐だった。バレエリュスの初演でも、パリの観客はこの音楽にアレルギー反応を示した。今ではすっかり名曲に落ち着いてしまった感もあるが、パリ管の演奏はストラヴィンスキーの試みがいかに途方もないものであったか、聴衆の恐怖や驚愕がいかほどのものであったかを知らしめてくれた。あらゆる瞬間が予測不可能で、人間の脳のなりゆきでは追いつけない。うまく弾くとかうまく吹くとか、そういう基準で鳴らしていて出来上がるのか、そもそも何を考えて演奏しているのか、左脳で考えてもまったく仕方ない。「パリ管は、なんて面白い人たちなんだ!」と心の中で叫ぶしかなかった。
すらりとした長い脚をアルファベットの「A」の形にして指揮台に立つマケラはバービー人形のボーイフレンドのようにかっこいいが、変拍子をすっかり身体に沁みこませて、全身を激しく揺さぶってオケを煽る姿はロックスターよりかっこよかった。
ストラヴィンスキーのハナモゲラ言語は、言語学のカテゴリーを超えて、全人類・全宇宙の生き物の共通の衝動を示している。こういう果てしないものを作り出す原動力として、当時のウィーン前衛派に対する反骨精神もあったのかも知れない。死にゆく音楽のヒーロー美学とともにあったシェーンベルクの対岸にいたストラヴィンスキー。
マケラが覚醒させたパリ管の音は、ひたすら未来へと向かっていた。オーケストラは指揮者のどのような意図によってもチューニングされていくが、マケラが見つけ出したダイヤルは、パリ管の最高に刺激的な周波数とシンクロしたのだった。
「未知数」という言葉が脳裏に揺曳した。10/18にはBプロが演奏される(サントリーホール)。