小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『蝶々夫人』(6/1)

2019-06-02 20:41:30 | オペラ

新国『蝶々夫人』の初日を観る。蝶々さんは、海外でもこの役を多くのプロダクションで歌われている佐藤康子さん。ピンカートンは新国初登場のアメリカ出身のテノール、スティーヴン・コステロ氏、シャープレスにバリトンの須藤慎吾さん、スズキにメゾの山下牧子さん、ゴローにバリトン(!)の晴雅彦さん。指揮はイタリアの巨匠ドナート・レンツェッティ氏、オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団、合唱は新国立劇場合唱団。

 どこから語ったらいいのか…初日の初々しさが花の香りのようにはじけた上演だった。佐藤康子さんの蝶々さんは藤原歌劇団の公演でも観ている(上野の文化会館が改装中のときで、偶然にも新国での上演だった)。レンツェッティ氏の指揮は2018年のローマ歌劇場の『マノン・レスコー』で大きな衝撃を受けた。山下牧子さんのスズキは何度拝聴したか数えきれない。ゴローの晴雅彦さんは芸劇プロジェクトでも名人芸を聴かせていただいた。大好きな音楽家が勢揃いした上演で、大好きなプッチーニだった。こういう公演について書くには少しばかり自分を冷静にさせることが必要だ。

 公演の前にはレンツェッティ氏にもインタビューしていたが、『蝶々夫人』は去年聞いた『マノン・レスコー』とは全く別のアプローチだった。人生の真夏を謳歌する神々のような若者たちの眩しさが、若さを失った者を踏みつけていく残酷な美に溢れていた『マノン・レスコー』は、オーケストラのあらゆるパートが鮮烈で、カラフルな原色のパレットによって描かれていた。とりわけ打楽器が印象的だったのでそのことを尋ねると、レンツェッティ氏が13歳から18歳までスカラ座のパーカッションを担当していた事実などが分かった。しかし、蝶々さんでは打楽器は全く別の使われ方をしていた。叔父のボンゾが登場するシーンで打楽器は遠くから鳴っていて、鼓膜を驚かすような大きな音ではなかった。音楽は徐々に立体的に迫ってくる。同じプッチーニでも、指揮者は物語によって全く別のことをする。「この音はなぜこう鳴ったのか」ということをつねに考えさせられ、その後に見事に答えが返ってくる…「どうだ。凄いだろう」という音楽の奏で方がいかに恥知らずでオールドファッションか、吟味されたレンツェッティの指揮によって思い知らされた。

 佐藤康子さんの蝶々さんが素晴らしかった。真剣にこの役に取り組めば取り組むほど、底なしに純粋になっていくオペラの魔法が感じられた。登場から最後の瞬間まで、蝶々さんの若さ、可愛らしさが溢れだし、15歳の少女(ラストでは18歳)が目の前にいるようだった。プッチーニは蝶々さんが未来に抱く期待をオーケストラのホールトーンスケールで表現していて、ときめきが止まらない蝶々さんは歌いだしを決めるまでに「もっと…もっと幸せなのです」と転調を繰り返す。ヒロインがこのように歌いだすオペラの始まりを他に聴いたことがない。佐藤さんは完全に役と同化していて、「ブリュンヒルデが歌えなければ蝶々さんは歌えない」と語る外国人のドラマティック・ソプラノとは別次元だった、蝶々さんは日本人で、プッチーニが理想とした謙虚さと奥ゆかしさがあり、「どうだ、驚け!」といったこれ見よがしの華やかさとは違う、本質的な歌唱だった。

 栗山民也さんの演出は新国で何度も拝見しているが、今まで「転換もなく地味」と感じていたこのプロダクションが、作品の本質を見据えたものだということにも気づかされた。蝶々さんは日本人にとっても微妙な物語であり、そのことを意識しすぎるといとも簡単に逸脱的な演出になる。「怒っているのは演出家ひとりなのではないか?」と思えるものも観てきた。蝶々さんの物語の本質は「怒り」でも「差別」でもない。影を効果的に使ったヴィジュアル、心象風景のような階段、はためく米国国旗…控え目な暗示のすべてが、実はとても音楽を大切にしているものだと分かった。合唱の日本人女性たちの所作もしなやかで美しい。

 オーケストラの響きがこの「平和な」演出を引き立てていた。レンツェッティほどの巨匠なら、新演出の『蝶々夫人』でもいいのではないかと思ったが、マエストロがこの演出の美を肯定し、日本の奥ゆかしい心に尊敬の念を寄せていた。東フィルは何度もこのオペラを演奏しているはずだが、これほど含蓄に富んだ演奏を聴かせてくれたこともない。「イタリアのオケはppppを表現したくても、pがひとつ足りなくなる。東フィルはちゃんとそこを表現してくれる」とはマエストロの弁だが、「指揮者の心に添う」デリカシーがいかに爆発的なものを呼び起こすかオーケストラが教えてくれた。

ピンカートンのスティーヴン・コステロは誠実で真面目なテノールで、この役を「誠実」と形容するのは矛盾しているかも知れないが、ひとつひとつのシークエンスを大切に扱い、トランペットのように輝かしい高音を聴かせた。忙しい歌手だと思うが、日本の歌劇場がこれほど丁寧に準備を重ね、聴衆の心に報いるかを知ってくれたと思う。一幕のラストシーン、三幕でプッチーニがピンカートンのために書き足したアリアも劇的で良かった。

ところで、おかしなことを言うようだが、私はこのオペラでシャープレスが歌うすべてのパートが大好きで、影の主役は彼ではないかと思っている。プッチーニは「星条旗よ永遠なれ」と「君が代」の転回形をオペラで多用しており、その多くをシャープレスが歌う。須藤慎吾さんのシャープレスは大人の表現で、とても説得力があった。シャープレスの旋律は本当に在り難い…この役を歌う歌手はその価値を熟知しているとか確信した。

「このオペラをどう思うか」ということが、上演のクオリティを決定するのだとも思った。ピンカートンを過激に悪者扱いしたミキエレット演出には違和感がある。ピンカートンは凡庸な若い男で、残酷なマフィアでも性格異常者でもない。レンツェッティ氏は「日本でもイタリアでもよくある話だと思う」と語ってくれた。私もずっとそう思っていた。政治的な主張が強すぎると、ラブストーリーではなくなってしまう。ピンカートンも蝶々さんもスズキも「普通の人」なのだ。普通の人の人生に起こる奇妙な奇蹟、虹の瞬間について書いたのがプッチーニだった。虹はなぜ起こるのか、光学的に分析したからといって虹の美しさが消えるわけではない。素朴な命が、この地上にある限られた時間で命がけで輝こうとする瞬間を作曲家は描いた。そんな密やかなアイデアを、同時代の作曲家は持つことが出来なかったのかも知れない。そのせいで『蝶々夫人』の初演は失敗作とされた。

 暴力や戦闘精神が「いずれ卒業しなければならない人間の古い本性」だということは、何度語っても語りすぎることはない。音楽家には強さが必要だが…それが戦闘心やつまらないサバイバル精神につながっていたとしたら、音楽は延々と古臭くて陳腐で色合いを欠いた単色のものになる。レンツェッティの音楽を聴いて、この指揮者はとてつもなく孤独で勇敢な道を歩いてきた人なのではないかと思った。蝶々さんも、ピンカートンも、ゴローもヤマドリも、滑稽な存在ではなくひとつひとつの貴重な命で、戯画的に描かれている人物は一人もいなかった。

 奥深い真実に気づいてしまったとき、手慣れた自分のやり方ではうまくいかないように思えて、新しく生まれ変わったような表現になる…この日の佐藤康子さんの蝶々さんは、まさにそんな「今生まれたばかりの」ヒロインだった。レンツェッティも、このプロダクションと歌手、オーケストラのための一期一会の指揮をしていたと思う。指揮者の研ぎ澄まされた美意識は、時々ひやりとするほど本質的なもので、自分がいかに鈍感さを盾にこの世で生きていたかを思い知らされる。このオペラを初めて見る人のために、指揮者は完全に影に隠れる…ということもしていたと思う。何故そんな凄いことが出来るのか…。

カーテンコールでは小さな小さな蝶々さんの子供を抱きかかえていたレンツェッティ。初日の子役を演じた木村日鞠さんは2015年2月生まれだから、4歳になったばかり。原作に最も近い子供役だった。オペラは6/7、6/9にも上演が行われる。