ボリショイ・バレエ来日公演の最後の演目『パリの炎』を6/14.15に東京文化会館で観た。最初の二つの演目--『ジゼル』と『白鳥の湖』がグリゴローヴィチ版にふさわしいロシア的な色彩感の装置(美術・シモン・ヴィルサラーゼ)だったのが、『パリ…』では打って変わって、モダンで新古典主義的なセンスも備えた美術が舞台に現れた。引き延ばされた写真や設計図のような図案を使った幾何学的でスタイリッシュなもので、王宮シーンではロココ主義の劇場のインテリアを再現していた。
1932年版のワイノーネン版からストーリーも大々的に改変して制作されたラトマンスキー版は、台本のメッセージも未来的で、パリ市民革命をテーマにしていながら、あらゆる「分断された人間たち」を一つにしようとするユートピア的な発想に貫かれていた。つまりこれは、1930年代の革命賛美のバレエではなかった。
マルセイユの青年フィリップ役を演じたウラディスラフ・ラントラートフ(14日)は、このツアー終盤にして初めて見ることになった。
ジゼルのアルブレヒトと、急遽チュージンの代役で二幕から登板したジークフリートの出来栄えは噂に聞いていたが、今回の公演では偶然が重なって縁が薄かった。この3年で後輩のロヂキンが一気に大スターになってしまったこともあり、日本公演でもロヂキンがザハロワと踊る日はハイライト公演の趣を呈していた。少しばかり、ラントラートフの影が薄くなっていた印象があったのだ。
『パリの炎』でのラントラートフは「ああ、やっぱりラントラートフはいい!」と心の中で叫ばずにはいられないほど、高いジャンプ、俊敏なステップ、甲から溢れ出す貴族的な品の良さが魅力的だった。均整のとれた肉体から、この上なく「モスクワ的な」勇壮でダイナミックなアクションを見せつけていく。爽やかなシルエットは、ラントラートフならではのもので、正義感の強い高潔なフィリップの役は彼自身のキャラクターとも合っていた。バックステージで本人に聞いたところ、最初にもらった大役がパリの炎のこの役だったという。
ジャンヌ役のクリサノワは勇敢で、男性ダンサーから男性ダンサーへと投げ飛ばすようなリフトで運ばれていく。こんなアクロバティックなバレエの稽古には怪我がつきものなのではないか? とラントラートフに聞くと「本気で練習していれば何の問題もなく最後まで行くバレエ」だと言う。煩瑣なまでに多くのダンサーが登場し、色々な踊りを踊るのに決して混沌に陥らず、一筋のストーリーが主旋律のように浮かび上がってくるのは、さすがラトマンスキーの手腕だ。
背中を痛めたセミョーン・チュージンの代役でコスタ・ド・ボールガール公爵を演じたのはイーゴル・ツヴィルコで、まだ若いリーディング・ソリストなのだが、今回の来日公演では八面六臂の大活躍で、ジゼルのアルブレヒト、白鳥のロットバルト、びわ湖の「パリの炎」ではフィリップを踊り、既にメインの3役を成功させていた。
最後の最後に、マッチョで屈強なセクシストであるボールガール侯爵を演じてみせたのには参った。見事なカメレオン・ダンサーであり、俳優である。
この侯爵、自分の欲しい女は娘ほどの若い女でもとにかく欲しいというドン・ジョヴァンニのような利己的な貴族。代役とは思えない入り込んだ演技で、この人物の暴力性と権力への妄執を全身で演じていた。
音楽はボリス・アサフィエフによるもので、リュリやラモーの断片のような王宮の舞曲がちらばめられていたが、細かい出典はわからない。ボリショイ劇場管が素晴らしいサウンドだった。実のところ「白鳥の湖」ではアンサンブルの粗さが気になっていたのだが、ツアー中盤で疲れていたのだろうか。『パリ…』は二日間とも神懸った演奏で、管楽器の細かいパッセージも正確で、華麗さと躍動感があった。パーヴェル・ソローキンのベテラン指揮者としての面目躍如たる演奏で、舞台との息もぴったりだった。
ボリショイ・ダンサーの層は非常に厚く、この最後の演目でも若いダンサーが頭角を表わしていた。驚いたのは、王宮での劇中劇で「俳優」を演じたダヴィッド・モッタ・ソアレスで、優美でバランスの取れた細身の体型で、どのポジションも完璧で表現力も成熟していた。女優役のマルガリータ・シュライネルも見事だったが、ソアレスのサポートには不安定なところがなく、華奢な下半身からは信じられないほど力強いリフトを何度も成功させた。
ソアレスという名前が気になって出身を聞くと、ブラジルのリオデジャネイロ生まれで、2年前にボリショイに入り現在20歳だという。既にくるみ割り王子や「ジゼル」のアルブレヒトも踊っているらしい。
侯爵の娘役を演じたジョージア出身のアナ・トゥラザシヴィリも悲劇的なヒロイン役をドラマティックに演じたが「白鳥の湖」ではハンガリーの踊りを生き生きとこなし、見事に「陰と陽」の二面性を見せてくれた。切れ味のいい「ハンガリー」ではアナニアシヴィリを思い出さないわけにはいかない。現在ソリストだが、明るい性格のダンサーで、バックステージでインタビューをしているとワジーエフ監督が「彼女に何を聞いてるの? お天気の話かな?」と声をかけてくる。「監督が言っているのはすごいユーモアですよ」とロシア語通訳のナターシャさんが笑って教えてくれた。ひよっこダンサーに何を話すことがあるの?という冗談らしいが、それも優秀な若いダンサーに対する彼なりのエールなのだ。
このワジーエフ監督監督について、ゲネプロで鬼コーチのような姿を見ていたため勝手に想像していたが、ダンサーとの信頼関係は極めて良好で、大声で怒鳴っているように聴こえる言葉も、実は普通の会話だったりする(トゥラザシヴィリがそう教えてくれた)。カンパニーはワジーエフによってよりストイックな引き締めが行われたが、恐怖政治ではなく、若者たちはみんな彼の激しい性格を理解しつつ、リーダーとしての実力を認めているようだった。
ルイ16世と議長たちの諧謔的な踊り、民衆たちの革命の踊り、王宮の優雅な踊り、性格の異なるダンスを見事に構成し、ジャンヌ役のクリサノワはダンスシューズとトゥシューズの両方で、未来的な女性像を表現した。二日目のクレトワもポジティヴで素晴らしい性格のダンサーで、終盤までエネルギーを出し切ってハードなヒロイン像を演じていた。パワフルで祝祭的な男女の群舞がひとしきり繰り広げられ、ラストで鍬や鎌を持った民衆たちが勝利の凱歌を全身で歌い上げるように舞台前方へ歩み寄るシーンでは、客席にも稲妻のような感興が巻き起こった。あの熱狂的な一体感はバレエでしか起こらない。オペラでも観客は熱狂するが、バレエはまるで何かが爆発したみたいで、ボリショイ・バレエともなるとそれはまさに大きな「炎」のようなものになる。
二日目にフィリップを演じたワシーリエフも、言うまでもなく最高の演技で、ワシーリエフとオシポワのハイライトシーンでこのバレエを知った自分にとっても、全幕でダンサーの当たり役を見られるのは至福であった。ジャンプも驚くほど高く、回転も勢いあまって音楽よりたくさん回っていた。カーテンコールでも何度もジャンプ。すごいエンターテイナーだ。こうしたことすべても、ワシーリエフの「愛情表現」なのだと今回はっきりと感じた。
なんのためにあんなに踊るのか…この世界から感じている愛を全身で表しているのだ。
ミラノスカラ座バレエでのヌレエフ版ドンキを見た時も、それを感じた。ワシーリエフのエネルギーはすべてを一つにする。スカラ座では盛り上がり過ぎたカーテンコールで、勢い余ってスタッフが全員登場し、自分の子供を肩車して出てくる裏方までいたのだ。
ところで、今回の公演は初来日から60周年ということもあって、記者会見でも「ボリショイらしさ」「モスクワらしさ」についての質問が多かったのだが、ダンサーからの答えは「ボリショイらしさは存在するが、バレエとして何か特別変わったことがあるわけではない」というものがほとんどで、バックステージでも同じ反応だった。とても知的な口調で、皆が「もう世界はひとつなのだ」ということを語る。
批評的な観点からすると、カテゴライズや差別化というのは芸術を「識別」するのに便利だが、舞台の側ではもっともっと巨大なことが表現されているのだ。
世界は分断されているようで、人間は深層の部分ではひとつになりつつある…芸術の世界では一足先に意識の進化が行われていると実感した。ボリショイ・バレエが教えてくれたことは、果てしなく巨大なもので、人間についてのあらゆる古い考えやステロタイプを覆していかなければ…と心が熱く震えたのである。
1932年版のワイノーネン版からストーリーも大々的に改変して制作されたラトマンスキー版は、台本のメッセージも未来的で、パリ市民革命をテーマにしていながら、あらゆる「分断された人間たち」を一つにしようとするユートピア的な発想に貫かれていた。つまりこれは、1930年代の革命賛美のバレエではなかった。
マルセイユの青年フィリップ役を演じたウラディスラフ・ラントラートフ(14日)は、このツアー終盤にして初めて見ることになった。
ジゼルのアルブレヒトと、急遽チュージンの代役で二幕から登板したジークフリートの出来栄えは噂に聞いていたが、今回の公演では偶然が重なって縁が薄かった。この3年で後輩のロヂキンが一気に大スターになってしまったこともあり、日本公演でもロヂキンがザハロワと踊る日はハイライト公演の趣を呈していた。少しばかり、ラントラートフの影が薄くなっていた印象があったのだ。
『パリの炎』でのラントラートフは「ああ、やっぱりラントラートフはいい!」と心の中で叫ばずにはいられないほど、高いジャンプ、俊敏なステップ、甲から溢れ出す貴族的な品の良さが魅力的だった。均整のとれた肉体から、この上なく「モスクワ的な」勇壮でダイナミックなアクションを見せつけていく。爽やかなシルエットは、ラントラートフならではのもので、正義感の強い高潔なフィリップの役は彼自身のキャラクターとも合っていた。バックステージで本人に聞いたところ、最初にもらった大役がパリの炎のこの役だったという。
ジャンヌ役のクリサノワは勇敢で、男性ダンサーから男性ダンサーへと投げ飛ばすようなリフトで運ばれていく。こんなアクロバティックなバレエの稽古には怪我がつきものなのではないか? とラントラートフに聞くと「本気で練習していれば何の問題もなく最後まで行くバレエ」だと言う。煩瑣なまでに多くのダンサーが登場し、色々な踊りを踊るのに決して混沌に陥らず、一筋のストーリーが主旋律のように浮かび上がってくるのは、さすがラトマンスキーの手腕だ。
背中を痛めたセミョーン・チュージンの代役でコスタ・ド・ボールガール公爵を演じたのはイーゴル・ツヴィルコで、まだ若いリーディング・ソリストなのだが、今回の来日公演では八面六臂の大活躍で、ジゼルのアルブレヒト、白鳥のロットバルト、びわ湖の「パリの炎」ではフィリップを踊り、既にメインの3役を成功させていた。
最後の最後に、マッチョで屈強なセクシストであるボールガール侯爵を演じてみせたのには参った。見事なカメレオン・ダンサーであり、俳優である。
この侯爵、自分の欲しい女は娘ほどの若い女でもとにかく欲しいというドン・ジョヴァンニのような利己的な貴族。代役とは思えない入り込んだ演技で、この人物の暴力性と権力への妄執を全身で演じていた。
音楽はボリス・アサフィエフによるもので、リュリやラモーの断片のような王宮の舞曲がちらばめられていたが、細かい出典はわからない。ボリショイ劇場管が素晴らしいサウンドだった。実のところ「白鳥の湖」ではアンサンブルの粗さが気になっていたのだが、ツアー中盤で疲れていたのだろうか。『パリ…』は二日間とも神懸った演奏で、管楽器の細かいパッセージも正確で、華麗さと躍動感があった。パーヴェル・ソローキンのベテラン指揮者としての面目躍如たる演奏で、舞台との息もぴったりだった。
ボリショイ・ダンサーの層は非常に厚く、この最後の演目でも若いダンサーが頭角を表わしていた。驚いたのは、王宮での劇中劇で「俳優」を演じたダヴィッド・モッタ・ソアレスで、優美でバランスの取れた細身の体型で、どのポジションも完璧で表現力も成熟していた。女優役のマルガリータ・シュライネルも見事だったが、ソアレスのサポートには不安定なところがなく、華奢な下半身からは信じられないほど力強いリフトを何度も成功させた。
ソアレスという名前が気になって出身を聞くと、ブラジルのリオデジャネイロ生まれで、2年前にボリショイに入り現在20歳だという。既にくるみ割り王子や「ジゼル」のアルブレヒトも踊っているらしい。
侯爵の娘役を演じたジョージア出身のアナ・トゥラザシヴィリも悲劇的なヒロイン役をドラマティックに演じたが「白鳥の湖」ではハンガリーの踊りを生き生きとこなし、見事に「陰と陽」の二面性を見せてくれた。切れ味のいい「ハンガリー」ではアナニアシヴィリを思い出さないわけにはいかない。現在ソリストだが、明るい性格のダンサーで、バックステージでインタビューをしているとワジーエフ監督が「彼女に何を聞いてるの? お天気の話かな?」と声をかけてくる。「監督が言っているのはすごいユーモアですよ」とロシア語通訳のナターシャさんが笑って教えてくれた。ひよっこダンサーに何を話すことがあるの?という冗談らしいが、それも優秀な若いダンサーに対する彼なりのエールなのだ。
このワジーエフ監督監督について、ゲネプロで鬼コーチのような姿を見ていたため勝手に想像していたが、ダンサーとの信頼関係は極めて良好で、大声で怒鳴っているように聴こえる言葉も、実は普通の会話だったりする(トゥラザシヴィリがそう教えてくれた)。カンパニーはワジーエフによってよりストイックな引き締めが行われたが、恐怖政治ではなく、若者たちはみんな彼の激しい性格を理解しつつ、リーダーとしての実力を認めているようだった。
ルイ16世と議長たちの諧謔的な踊り、民衆たちの革命の踊り、王宮の優雅な踊り、性格の異なるダンスを見事に構成し、ジャンヌ役のクリサノワはダンスシューズとトゥシューズの両方で、未来的な女性像を表現した。二日目のクレトワもポジティヴで素晴らしい性格のダンサーで、終盤までエネルギーを出し切ってハードなヒロイン像を演じていた。パワフルで祝祭的な男女の群舞がひとしきり繰り広げられ、ラストで鍬や鎌を持った民衆たちが勝利の凱歌を全身で歌い上げるように舞台前方へ歩み寄るシーンでは、客席にも稲妻のような感興が巻き起こった。あの熱狂的な一体感はバレエでしか起こらない。オペラでも観客は熱狂するが、バレエはまるで何かが爆発したみたいで、ボリショイ・バレエともなるとそれはまさに大きな「炎」のようなものになる。
二日目にフィリップを演じたワシーリエフも、言うまでもなく最高の演技で、ワシーリエフとオシポワのハイライトシーンでこのバレエを知った自分にとっても、全幕でダンサーの当たり役を見られるのは至福であった。ジャンプも驚くほど高く、回転も勢いあまって音楽よりたくさん回っていた。カーテンコールでも何度もジャンプ。すごいエンターテイナーだ。こうしたことすべても、ワシーリエフの「愛情表現」なのだと今回はっきりと感じた。
なんのためにあんなに踊るのか…この世界から感じている愛を全身で表しているのだ。
ミラノスカラ座バレエでのヌレエフ版ドンキを見た時も、それを感じた。ワシーリエフのエネルギーはすべてを一つにする。スカラ座では盛り上がり過ぎたカーテンコールで、勢い余ってスタッフが全員登場し、自分の子供を肩車して出てくる裏方までいたのだ。
ところで、今回の公演は初来日から60周年ということもあって、記者会見でも「ボリショイらしさ」「モスクワらしさ」についての質問が多かったのだが、ダンサーからの答えは「ボリショイらしさは存在するが、バレエとして何か特別変わったことがあるわけではない」というものがほとんどで、バックステージでも同じ反応だった。とても知的な口調で、皆が「もう世界はひとつなのだ」ということを語る。
批評的な観点からすると、カテゴライズや差別化というのは芸術を「識別」するのに便利だが、舞台の側ではもっともっと巨大なことが表現されているのだ。
世界は分断されているようで、人間は深層の部分ではひとつになりつつある…芸術の世界では一足先に意識の進化が行われていると実感した。ボリショイ・バレエが教えてくれたことは、果てしなく巨大なもので、人間についてのあらゆる古い考えやステロタイプを覆していかなければ…と心が熱く震えたのである。