イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

イルミネーション、光の季節に想う!(自分の中の神話 9/10)

2012-11-20 | 第七章「光と復活体」

 昨晩は、酉の市かもしれないと、友人と府中の駅前の大国神社方面に行った。

 残念ながら、二の酉は11月20日つまり今日で、神社の境内はひっそりしていた。それでも、欅通りは年の暮れのイルミネーションが綺麗だった。

   

 3.11の切迫感もだんだん無くなり、節電はどうなったのだろなど、イルミネーションを中心にあれこれ想った。

 3.11の後は、星空も昔の東京の夜空に戻ってきたようで、懐かしかった。闇もより身近で、照明が消された高速道路を運転したときは新鮮。

 さて、神話公式を中心に思索した、「自分の中の神話」も終わりに近づいてきた。日常の分別の世界とは別に、不思議な世界(無意識の世界のような)があり、それが大切なものであることを感じてきた。

 そして、イルミネーションの光そのものも、昨日のお地蔵様ではないが、人類にとって実に豊かな象徴になっていると思う。10万年前の洞窟の中で光を感じた人にとっても、2千年前のヨハネも、そして現代の私たちも光には特別な何かを感じる。そして、光はどこか神秘的だ。

  次の、宮沢賢治の「春と修羅」の序は、とても素晴らしい。光を中心に、生命、魂とは何か、神秘とは何かを美しく表現しているようだ。

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

・・・・・・

詳しくは:http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html


 電燈そのものは何か有限な身体を連想させ、光そのものは生命とか思考とかを連想する。

 酉の市の起源を調べてみると、金星とか北斗七星との関わりを指摘する人も多い。それこそ、縄文時代とかそれ以前の祖父母たちの光のイメージが伝承されているようだ。

 今日は、二の酉に夕方行ってみたい。

 自分の中の神話 9/10

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道ばたの痛んだお地蔵さんから想う? (自分の中の神話 8/10)

2012-11-19 | 第七章「光と復活体」

 合理的な尺度では切り捨てられてしまうようなものが、今いろいろ、見直されているように思う。この写真の、お地蔵さんも、近くで見ると原型がよく判らないほど傷んでいるが、それでも実に大切にされていることが判る。何か特別な想いとか、起源(縄文時代に遡ったり?)があるのだろう。

 今回の「自分の中の神話」では、レヴィ=ストロースの神話公式を事例に当てはめ考えてきたが、対立する緊張関係から、変換される過程で、あるものが消えて、何か象徴的なものが残るというところがある。

 ちびくろサンボであればトラのバターからホットケーキが。一房の葡萄の話も題名自体がそうかもしれない。私のホスチアや色付きチョークもそうなんだろう。勿論、こうしたことは良く観察すると沢山ある。世の中意味あるものに取り囲まれているようだ。

 ただ、こうしたものは、本人にとっては特別の意味があるが、他人には知らさない限り判らないので、時に、そこを無造作に触れられると動揺する。パンドラの箱のように、抑圧していたものが噴き出し錯乱したりも。「生き甲斐の心理学」でいうと、十四の防衛機制と深く関係しているのだ。

 この、よく判らない動揺。人生の大事な時に良く現れる。そして、その対処法は実に大事だ。そして、「生き甲斐の心理学」では定石として、感情の意味をのんびり自問自答することを薦めている。

 自分の感情の意味を考えないで、観念的に思考を弾ませると、とんでもない方向に行ったりする。感情から、満たされていなかった自分の理想に気づくだけで、それに対する、ぶれない何かが始まりだす(感情は理想と現実のギャップから生まれるとし、感情を引き起こした隠れた理想と現実の把握のしかたをあぶるのがポイント)。

 しかし、今の自分は「生き甲斐の心理学」に出会えただけでなく、同志にも恵まれ幸せである。

 自分の中の神話 8/10

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持統天皇になったつもりで古事記を読む!(自分の中の神話 7/10)

2012-11-18 | 第七章「光と復活体」

 昨日のブログの続きになるが、持統天皇も晩年には恐らく日本神話の編纂に影響力があったと仮定して、日本神話をどう読み感じるかを想いながら、昨晩からパラパラと古事記を読んでいる(橋本治の古事記:講談社)。

 すると不思議な発見が。一つはイザナミ(女神)が火の神を産み、それ故に亡くなったのをイザナキ(男神)が悲しみ涙を流すと、それが香具山の麓に祀られている泣沢女神になる。当時も、泣沢にはこんこんと水が湧き出ていたという。

 春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山

 有名なこの句で濡れた衣を干すのは、どんな意味があるかを不思議に思っていたが、香具山の麓の泣沢と関係づけると、見えてくるものがある。持統天皇は、我が子草壁皇子を愛し、それ故に政敵の大津皇子(甥)を謀殺する。そして、その草壁皇子も夭折してしまう。そんな中、涙の神様に憑かれたような持統天皇が、どのように立ち直ったのだろうか。この歌は何かそうした背景があるように思う。

 さらに、イザナミが亡くなってからイザナキが黄泉の国に探し求める神話。最終的にはイザナミは死の国を支配する神となりイザナキが生の世界を支配することになる。まあ、イザナキがイザナミの死を乗り越えるわけであるが、その中でイザナキは穢れを感じる。

 今回のテーマでは神話公式(構造主義で有名なレヴィ=ストロースが考案した)で、絵本や少年少女向け物語や神話、そして自己事例を考えているのだが、この公式を熟考すると、今日のブログの写真ではないが、ひねりが入っているのだ。

 例えば、ちびくろサンボの話では、かわいいちびくろサンボが邪悪なトラに遭遇するが、最後にはトラがホットケーキとなり、ちびくろサンボが、ある意味で邪悪な存在としてホットケーキを食べるのである。

 持統天皇も、考えてみれば日本的なお母さんで草壁皇子をただ愛しんでいたのが、いつのまにか正反対になるかのように政敵の甥を殺害し、さらに、天罰ではないが、草壁皇子が亡くなる。

 古事記では黄泉の国の話のあとに、イザナキの禊の話がでてくる。神ですらいつの間にか邪悪になり、それを禊で洗い落とす必要があったのだ。そして、禊の中からアマテラス大御神が誕生していく。

 このあたり、持統天皇は何を感じて読んだのだのだろうか?

 神話公式をみて考えてみるに、邪悪なものの処理の仕方は二通りあるようだ。一つは、自らが対立する相手の邪悪さを取り入れる。この場合は、単純な分別論理で禊をする、日本神話スタイルである。

 もう一つは、一房の葡萄のように博愛に満ちた先生が、最後には消えるスタイルである。イエスやブッダは死ぬことで何か善良なものを残し、邪悪を克服する。このスタイルは、恐らくもっとも心に残る。

 写真のメビウスの輪。善良の道と思って進むと、いつの間にか裏の邪悪な世界に潜り込む。そんな捻りがあるのが、この世なのかもしれない。還暦になると、そういう世の仕組みが身に染みて感じるものである。

 確かに、生き物を食べて他の生物を殺しつつ生きるのが人間である。その中でも、恐らく持統天皇が乗り越えたように、私たちも、明るくいきることはできると思う。写真のようにひねりをいれたメビウスの輪のように。

 自分の中の神話 7/10

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こころの汚れを落とす、日本人の知恵!(自分の中の神話 6/10)

2012-11-17 | 第七章「光と復活体」

 高校生の時の現代国語の教科書に載っていた、「汚れちまった悲しみに・・・」(中原中也)は、当時の時代感覚もあり、こころに残り、今でも時たま思い出す。

 しかし、この現代的な汚れの感覚は、どうも起源はそうとう古そうだ。日本神話などにも穢れは大きなテーマとして登場している。そして、穢れと禊の思想は日本の独自の文化とも言われる。

 さて、こころが穢れたら、物理的に洗うのとおなじように綺麗になる方法はあるのだろうか?

 処方箋は、臨床心理学でも手はあるが、伝統宗教の世界の知恵は長い歴史もあり深い。さらに、日本では古来から禊(ミソギ)と祓い(ハライ)がある。日本神話は古代からの言い伝えを、7-8世紀の統治者(天武・持統、藤原氏など)が当時の政治的な目的を背景に編纂したもののようだ。そして、その内容は古代からの物語か、統治者の投影かは不明ではあるが、どちらにしろ優れた内容で、こころの穢れに対する日本的な考えを見ることができる。

 さらに、神話公式(昨日に詳しい)で読み解いていると、とかく分別思考、論理的思考で狭くなりがちな視野を広げられ、感動する。

 今日も、天の岩屋戸の神話を読んでいた。これも、昨日ご説明した公式どうりである。

 弟スサノウの狼藉により、穢れを忌嫌ったアマテラス大御神が天の岩屋にお隠れになる。そこで、かがやく生命力を表すタカミムスビの神の子オモイカネが中心となり、アマテラス大御神を岩屋から引き出す。その結果、アマテラス大御神は、かがやく生命力そのもののように、この世に君臨し、アマテラスが天の岩屋に入れないように残した、しめ縄だけが天の岩屋の前に残る。

 実は、私も日本的に言えば穢れの経験で、不思議な体験をしたことがある。詳しくは、ブログ左上の検索で「愛の感情(1)」と「愛の感情(2)」を参考にしてください。罪悪感とか穢れを感じていた私が、私を拒否する(ように見えた)カトリックのミサの中で、不思議な流れで最終的にホスチアを頂き、受け入れられていく。これも、まさに公式どうり。そして、今でもミサのご聖体は私にとって特別だ。

 今、私は7世紀の大政治家、持統天皇で頭がいっぱいである。彼女は、百人一首の「春過ぎて、・・・」の和歌で有名だが、日本の原型を作った大政治家だ。そして、不安定な政治状況の中で少なくとも大津皇子を謀殺し政権を奪取した。そうした、穢れをどう落とし、健全な人生を歩んだか。持統天皇も編纂に関係しただろう日本神話に、そのヒントがあるかもしれない。

  自分の中の神話 6/10

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拒否する世界に受容れられる、現代の神話!(自分の中の神話 5/10)

2012-11-16 | 第七章「光と復活体」

 今朝は爽やかで、朝早く起きて散歩をした。多摩も、縄文時代の海進の時期は、フィヨルドのように大河が近くまできていたようだ。この写真は、高台にある神社から見下ろしたもので。今は、低地のほうは町や道路であるが、縄文時代は大河だったかもしれない。

 そんなことを想像したり、道端にあるお地蔵様(ひょっとすると、昔は道祖神だったかも)を拝見したりし心地よいひと時を過ごさせていただいた。

 さて、縄文時代ではなく今ここにでも起こる、現代の神話につてい想いを馳せている。通常の分別や常識の世界ではなく。無意識からくる、奇妙な世界である。奇妙としっても、レヴィ=ストロースなど最近の研究で、注目を浴びているが。

 この夏、有島武郎の「一房の葡萄」をいろいろ味わった。傾聴の問題、性格形成理論などで思索し、とても楽しい勉強だった(興味ある方は、左上で「一房の葡萄」でこのブログを検索すると10以上の関連記事が出てくる)。

 実は、私にも7歳の時に、同じようなキリスト教文化の女教師に出会い、本質的に似た経験(これも「愛の原型」で検索すると出てくる)をしたので、この小説に人一倍興味を抱くことになったのだと思う。

 実際の神話公式は数学の式を使っているが、意図することは難しくなく、次のように表現できそうだ(時間の無い方は、読み飛ばしてください)。

 例えばAさんがいるとする。AさんはXという機能とか属性をもっている。さらにBさんがいて、BさんはYという機能・属性をもっている。

 これが、ある事件を契機に変換され、BさんがXという機能・属性をもつようになる(Bさんがある意味Aさんの世界に入る)。さらに、Aさんが消え(いなくなり)Yが形を変えて残る(AとYが反転する)。

 これを、一房の葡萄で考えると。女教師(A)は博愛の心(X)をもっていた。僕(B)は嫉妬心(Y)を持っていた。こうした中で、僕はジムから藍色と洋紅色の絵具(嫉妬の象徴)を盗む。そして、話が進んでくるが。最終的に、僕(B)は博愛の心(X)をちょっと持つことが出来るようになり、女教師(A)は、会えなくなる(消えてしまう)。そして、残されたのは一房の葡萄(Yが形を変えたもので、ちょうど藍と洋紅色を混ぜたら紫になる!)の思い出。

 私の7歳の時の、言葉の通じないアラスカでの出来事も、この小説にとても似ている。

 女教師(A)は博愛の心(X)をもっていた。僕(B)は英語が話せない劣等感(Y)を持っていた。そして、女教師が出した色紙に僕が日本語で答える。その思いがけないリアクションで話が展開する。最後は僕(B)は博愛の心(X)を持ち、クラスに受け入れられるが、女教師(A)は一週間もしないうちに私の転校で、会えなくなってしまう(消える)。そして、転校の際にプレゼントでもらった、緑色や赤色のチョーク(Yが形を変えたもの)が忘れられない思い出となる。

 結構、頭を使う公式であるが、二つの話が公式通りに読み解くことができるようだ。

 今熱い思いをもって振り返っているのだが、私の自分なりに無謀と感じたリアクションも、小説の倫理道徳を無視したリアクションも、変化のために、とても大切だったんだなと思う。いくら幼いからといえ、成長するために清水の舞台から飛び降りる行動をしているのだ。それが無ければ、何も変わらなかっただろう。

 そして、盗んだことに常識的に怒ったり、日本語で応えたことに過剰に反応しなかった現実吟味力をもつ人の存在が気になった。人はどういう時に成長するのか。線形な判断だけでなく、非線形な対応も大事なのだ。

 とはいえ、恵まれた体験を私はしているのに、逆の立場にたたされたとき、常識に囚われ変に裁いてしまった苦い経験を思い出した。

    自分の中の神話 5/10

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