昨日のブログの続きになるが、持統天皇も晩年には恐らく日本神話の編纂に影響力があったと仮定して、日本神話をどう読み感じるかを想いながら、昨晩からパラパラと古事記を読んでいる(橋本治の古事記:講談社)。
すると不思議な発見が。一つはイザナミ(女神)が火の神を産み、それ故に亡くなったのをイザナキ(男神)が悲しみ涙を流すと、それが香具山の麓に祀られている泣沢女神になる。当時も、泣沢にはこんこんと水が湧き出ていたという。
春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山
有名なこの句で濡れた衣を干すのは、どんな意味があるかを不思議に思っていたが、香具山の麓の泣沢と関係づけると、見えてくるものがある。持統天皇は、我が子草壁皇子を愛し、それ故に政敵の大津皇子(甥)を謀殺する。そして、その草壁皇子も夭折してしまう。そんな中、涙の神様に憑かれたような持統天皇が、どのように立ち直ったのだろうか。この歌は何かそうした背景があるように思う。
さらに、イザナミが亡くなってからイザナキが黄泉の国に探し求める神話。最終的にはイザナミは死の国を支配する神となりイザナキが生の世界を支配することになる。まあ、イザナキがイザナミの死を乗り越えるわけであるが、その中でイザナキは穢れを感じる。
今回のテーマでは神話公式(構造主義で有名なレヴィ=ストロースが考案した)で、絵本や少年少女向け物語や神話、そして自己事例を考えているのだが、この公式を熟考すると、今日のブログの写真ではないが、ひねりが入っているのだ。
例えば、ちびくろサンボの話では、かわいいちびくろサンボが邪悪なトラに遭遇するが、最後にはトラがホットケーキとなり、ちびくろサンボが、ある意味で邪悪な存在としてホットケーキを食べるのである。
持統天皇も、考えてみれば日本的なお母さんで草壁皇子をただ愛しんでいたのが、いつのまにか正反対になるかのように政敵の甥を殺害し、さらに、天罰ではないが、草壁皇子が亡くなる。
古事記では黄泉の国の話のあとに、イザナキの禊の話がでてくる。神ですらいつの間にか邪悪になり、それを禊で洗い落とす必要があったのだ。そして、禊の中からアマテラス大御神が誕生していく。
このあたり、持統天皇は何を感じて読んだのだのだろうか?
神話公式をみて考えてみるに、邪悪なものの処理の仕方は二通りあるようだ。一つは、自らが対立する相手の邪悪さを取り入れる。この場合は、単純な分別論理で禊をする、日本神話スタイルである。
もう一つは、一房の葡萄のように博愛に満ちた先生が、最後には消えるスタイルである。イエスやブッダは死ぬことで何か善良なものを残し、邪悪を克服する。このスタイルは、恐らくもっとも心に残る。
写真のメビウスの輪。善良の道と思って進むと、いつの間にか裏の邪悪な世界に潜り込む。そんな捻りがあるのが、この世なのかもしれない。還暦になると、そういう世の仕組みが身に染みて感じるものである。
確かに、生き物を食べて他の生物を殺しつつ生きるのが人間である。その中でも、恐らく持統天皇が乗り越えたように、私たちも、明るくいきることはできると思う。写真のようにひねりをいれたメビウスの輪のように。
自分の中の神話 7/10