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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ふたつの風の又三郎・・・(古代人は美を大切にした 6/10)

2015-06-22 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 縄文時代と一見関係なさそうな、宮沢賢治の童話であるが、どういうわけか縄文時代に首ったけの私にとって、賢治は宝の山のように見える。縄文時代の人はどんな服をきているか?例えばそんな疑問に、博物館や考古学者はアンギン等しかあげない(手堅い)。縄文土器や土製品の装飾品から、もう少しデザイン性の衣服も想像されたりする方もいらっしゃるが。しかし、私は、世界の民族衣装を考えたうえで、また人間のもつ本能にからめて、あり得ないと思っていた。

 賢治の童話にグスコーブドリの伝記があるが、その中でてぐす工場の話があり、絹糸以外にも蛾から糸を採取できることを知った。ネットでいろいろ調べると、縄文時代の釣り糸は未発見だが、テグスではないかと推定している方もいらっしゃる。漁撈(縄文時代の大きな柱の一つ)の中心の針と糸、針は見つかっているが糸は不明のようだ。こんな基本的なことも発見されていないのだ。しかし、植物から作る糸は多分使い物にならないのではと思う。次の写真は蜘蛛の糸に雨水がついて糸がよく判る写真であるが、不思議なことに雨水は意識できるが糸は見えにくい。縄文時代の釣りの糸はどうだったか、興味のあるテーマである。

そして、テグスが一番近いかもしれないと推察する。そして、テグスが釣り糸等で普及していれば、織物技術はあるのでテグスの着物もあったかもしれない。そんな風にいろいろ妄想してしまう。

 さて、昨日は読書会に参加させていただいたが、宮沢賢治の「風野又三郎」であった。その前は「風の又三郎」この二つの作品は、各々27歳ごろ、そして35際ごろの作品で、一見似ているが内容はかなり違う作品である。何故、このように二つ書いたのかはとても気になるところであった。

 つまらない比較で恐縮だが、二つの小説の出だしだけはかなり似ている。

 

 どっどどどどうど どどうど どどう、

 ああまいざくろも吹きとばせ

 すっぱいざくろもふきとばせ

 どっどどどどうど どどうど どどう     「以上 風野又三郎」

 

 どっどど どどうど どどうど どどう、

 青いくるみも吹きとばせ

 すっぱいかりんもふきとばせ

 どっどど どどうど どどうど どどう    「以上 風の又三郎」

 

 因みに、ざくろはせいぜい弥生時代に輸入された植物。一方、くるみもかりんも多分縄文時代以前のようだ(かりんはWikipediaでは不明となっている)。
 また、おなじどっどどでも、7年の歳月のためか風の又三郎はリズミカルで、一度聴くと覚えてしまえる。やはり、ずっと味がある。
 
 私は、個人的には理科の先生の説明を聴いているような風野又三郎が好きなのであるが、文学的には、五感や体感的な奥行を考えると圧倒的に風の又三郎が優れている。これは、おそらく新進気鋭の農学者でもあった賢治が、知的興味に溢れる気象の話にのめり込み、防衛機制の知性化により感情が荒くなり、文学的には面白くなくなってしまったのかもしれない。しかし、賢治にとって、文学的に劣ると感じた風野又三郎も残したのは何だろうかとも考えてしまう。もちろん、単純に残っていただけかもしれないが、知的な風の大循環の話などは真善美の真をくすぐるところがあったかもしれない。まあ、よく判らないが。
 
 賢治の視点は非常に柔軟だと思う。普通だと例えば自分の長所やお得意のところに対して拘ってしまうことが多いが、意外に拘らず、ぱっと視点を変えられる力があるようだ。そこが賢治の賢治らしいところかもしれない。二つの作品を読み比べることで、何か人の防衛機制とか、いろいろ心理学の勉強もできる気がする。

古代人は美を大切にした 6/10

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