縄文時代と一見関係なさそうな、宮沢賢治の童話であるが、どういうわけか縄文時代に首ったけの私にとって、賢治は宝の山のように見える。縄文時代の人はどんな服をきているか?例えばそんな疑問に、博物館や考古学者はアンギン等しかあげない(手堅い)。縄文土器や土製品の装飾品から、もう少しデザイン性の衣服も想像されたりする方もいらっしゃるが。しかし、私は、世界の民族衣装を考えたうえで、また人間のもつ本能にからめて、あり得ないと思っていた。
賢治の童話にグスコーブドリの伝記があるが、その中でてぐす工場の話があり、絹糸以外にも蛾から糸を採取できることを知った。ネットでいろいろ調べると、縄文時代の釣り糸は未発見だが、テグスではないかと推定している方もいらっしゃる。漁撈(縄文時代の大きな柱の一つ)の中心の針と糸、針は見つかっているが糸は不明のようだ。こんな基本的なことも発見されていないのだ。しかし、植物から作る糸は多分使い物にならないのではと思う。次の写真は蜘蛛の糸に雨水がついて糸がよく判る写真であるが、不思議なことに雨水は意識できるが糸は見えにくい。縄文時代の釣りの糸はどうだったか、興味のあるテーマである。
そして、テグスが一番近いかもしれないと推察する。そして、テグスが釣り糸等で普及していれば、織物技術はあるのでテグスの着物もあったかもしれない。そんな風にいろいろ妄想してしまう。
さて、昨日は読書会に参加させていただいたが、宮沢賢治の「風野又三郎」であった。その前は「風の又三郎」この二つの作品は、各々27歳ごろ、そして35際ごろの作品で、一見似ているが内容はかなり違う作品である。何故、このように二つ書いたのかはとても気になるところであった。
つまらない比較で恐縮だが、二つの小説の出だしだけはかなり似ている。
どっどどどどうど どどうど どどう、
ああまいざくろも吹きとばせ
すっぱいざくろもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう 「以上 風野又三郎」
どっどど どどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう 「以上 風の又三郎」