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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

太陽の沈むところ!(古代人は真実を大切にした 5/10)

2015-06-10 | 第七章「光と復活体」

 写真は昨年の冬至に丹沢の最高峰蛭が岳に夕日が沈むところを撮影したものである。美しい蛭ガ岳。近くに富士山があるのに何故蛭ガ岳と思うが、縄文時代の中期以降は富士山はよく噴火し、古代人にとっては複雑な心境になる山だったのだろう。それに比べて蛭ガ岳は美しい山頂のシルエットを入日時に見せる神聖な山だった。

 写真は南大沢付近で撮影したものだが(冬至の蛭が岳入日ラインに入る)、この冬至ラインを多摩の主な聖地に当てはめると、何と大国魂神社が入る。その外、7世紀の稲荷塚古墳、縄文時代の聖地(ストーンサークル)の田端古墳、そして由緒ある蓮生寺も。

 しかし、古代人はどのように聖なるラインをもとに聖地を位置づけたのだろう?それを、私なりに推定してみた。そのため、今日は実際に八角墳の稲荷塚古墳(都指定)に行って調べてみた。

  古墳の石室は7世紀なので、南北を中心につくられている。天武天皇をはじめ当時は北辰(北極星)が大切にされているのだ。

しかし、この稲荷塚古墳は陰陽五行思想だけでなく、古代の縄文からの文化も大切にしていたのかもしれない。それが証拠に、曇りでよく見えなかったが冬至の蛭が岳に入日が沈む場所にある。

 

東京あたりでは、大ざっぱにいうと真南に向かって60°右側(西がわ)あたりに日が沈む。従って、南に向かって正三角形をイメージすると意外に簡単に入日の方向が判るのだ。このあたりの知見を利用して、聖なるラインを導いていたかもしれない。しかし、その努力は大変なものだと思う。夜中に北極星を観ながら調べたのだろうか?大湯遺跡の夏至のライン他縄文時代のストーンサークルなどを考えると、縄文人は随分天文学の知識も持っていたようだ。

でも、このような知識は、何の役にたったのだろうか?正確な季節変動を知り、適格な狩猟・漁労・採取を行なうのに多大な貢献をしたのだろう。そして、生き甲斐の心理学から考えると、規則的な太陽の運行は、心を安定さるのに実に大きな貢献をしていたのだと思う。

しかし、私たちもそうだが、7世紀の人も古を大事にしたようだ。これも納得できる。

古代人は真実を大切にした 5/10

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