イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ことばを越えて普遍的なもの!(縄文スイッチ ① 8/10)

2014-12-17 | 第一章「意識と知覚」

 今年もまもなく終わるが、幸せなことに今年もいろいろな旅ができた。泊りがけの旅は、振り返ると3月には琵琶湖・奈良(二上山含む)。5月には東北(平泉・花巻など)。8月と11月には諏訪方面だ。いつもと比べると少ないようだが、満たされた一年であったようだ。それは、このリストには載らないミニ旅(東京周辺)が結構多かったこともあるが。自分の中で、今までの関西中心の旅の外に東日本の旅が立ち上がってきたこともある。

 一つは、この3-4年前から某読書会に参加するようになり、グリム童話から柳田国男の遠野物語、そして宮沢賢治と民話や童話の世界を知るようになってきたこと。さらに、生き甲斐の心理学で日本人の心を学ぶ中で、日本の古代だけでなく、もっと古い縄文時代などに興味が広がってきたことがあり、それが繋がってきたことがあるようだ。

 例えば、今年は宮沢賢治の足跡を求めて宮沢賢治記念館に行ったりもしたが、生き甲斐の心理学の勉強仲間からオノマトベ(擬音語)のお話を聴いて興味を持つようになった。心の感情表現などオノマトペは、とてもイキイキと感情が伝わりやすいということもあった。

 そして、先日の賢治の読書会で参加者のお話で気が付いたのだが、宮沢賢治の造語や擬音語の天才ということだ。たぶん、それなしでは宮沢賢治の魅力は激減するようだ。宮沢賢治の擬音・造語について先日調べてみたが、吉本隆明さんの『宮沢賢治』という評論があり、その中に擬音論・造語論があり、興味深く読ませていただいた。

 その中で気が付いたのだが、日本語という民族語の影響で、例えば犬の鳴き声は日本では、ワンワンと、日本語の持つ構造的なものに引きずられて表現化される。それが、例えば英語ではバウワウという風に変わってしまう。そして、賢治はそれに抵抗するように、不可思議な擬音語を作り続ける。例えば蛙の泣き声などは「ぎゅっぎゅっ」、鈴蘭が風で揺れる音は「しゃりんしゃりん」。造語は固有名詞と随分関係が深いようで、固有名詞の持つ固定されたイメージに縛られず普遍性を維持するために造語という手段にでたようだ。岩手(イワテ)をヒントにイーハトープと造語化されたのは有名だが、不思議な人名地名が沢山ある。

 先日読んだ、「ツェねずみ」など、普通はチュー太郎とかつけるのだろうが、その想像性をはるかに超えて宇宙的ですらある、「ツェねずみ」は固定された何かを越え・・・宮環賢治の生きた近代の日本を越え、弥生時代を越え、そのころ西欧や日本という地域でも共通点の多かった新石器文化(縄文時代など)に肉薄、あるいは越えて普遍化し、地域や時代を越えてしまっている。

 しかし、言語というのは奥が深い。日本語も恐らく人類が誕生してから20万年の歴史性がある言語だと思う(他の地球上の現在使われている言語も同じだが)。心理学の人格形成論があるように言語にも言語形成論があるのだろう。そして、意識・無意識の世界を特定の言語の世界に投影して人は生きていくのだが、そんな世界を意識する人は少ない。もちろん人格形成にも深みがあり、言語にも深みがあるので、表現の世界はその掛け算のように深みのある世界であることが判る。

縄文スイッチ 8/10

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