人通りの少ない坂道を通っていると、コンクリートできちっと作られた横穴があった。そして中にはシュールな若者の落書きが!駐車場でも倉庫でもないような空間なのだが、いったい何のための空間なのであろうか。
倫理道徳を離れ、一面に描かれた落書きを見ているうちに、自分の少年期・思春期・青年期のころを思い出していた。
人と違う自分。そして、何か不条理で納得できない自分。そんなものを少年期・思春期・青年期に感じていたのだろう。
記憶というのは不思議である。何故その場面なのか理解できないが、はっきり覚えていることがあるかと思えば、殆ど消失してしまった大部分の記憶。40年ー50年前の記憶は、そんなものであろうか。
脳は、不要な情報を消失させ、意味ある情報のみを蓄えている。そんなことを述べた本を思い出し、残された記憶の意味は何だったのだろうかと考えてしまった。意識が選んだ記憶というより、無意識が選んだ記憶かもしれない。理由ははっきり判らない。
小学校のころや、中学校の記憶の断片をぼんやりと思いだしていると、自分の中の何か違和感がポイントのように思えてきた。その時点に感じた何かの違和感を核にして記憶が凝縮しているような・・・
さて、今、米国大統領のバラク・オバマの自伝「マイドリーム」を読みつつある。1961年生まれのオバマが1994年に書き上げた自伝で、33歳の時の著作である。
人種のルツボといわれる米国やインドネシアで少年期・思春期・青年期を迎えるオバマの自伝は、私にとっても衝撃的であった。10歳の頃、黒人が女の子ひとりというクラスに入り、気にしていたその女の子と打ち解けた時、他のクラスメートが冷やかし、その女の子を、庇うことなく一緒にいじめてしまう。
そんな、オバマの辛さを考えていると、自己肯定・他者否定という世俗的ないじめの立場は意外と、自己否定・他者否定が潜む表面的なものなのかなと思ったりした。
自分の中の変な違和感。単純な楽観ではなく、もっと深い意味がありそうな感覚。
明日への糧かもしれない。
<自己肯定・他者否定 2/6>
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