シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を久し振りに再読した。若い頃読んだ時と異なり、ロメオとジュリエットの美しい愛だけでなく、その二人を死に追いやったものについて、考えさせられた。
若い頃は、ロミオとジュリエットの時代に電話があれば、こんな悲劇は無かったのにと考えたりしたが。例え今のように、携帯や電子メールがあっても、本質的な問題は解決してないと思うようになった。
ロミオとジュリエットは、イタリアのベローナのキュピュリット家とモンタギュー家の醜い争いが原因で死にいたらしめられる。家どおしの愚かな争いが原因で、二人の愛と両家の無益な争いを熟知した老僧ロレンスの必死の努力も空しく、悲劇が訪れてしまう。
悲劇の結果、敵対する家族は和解し平和が訪れるが、代償は余りに大きかった。ただ、観方を変えると、二人の愛によって、二つの家が愛に気づき、憎しみあうことをやめたと見ることもできる。
「生き甲斐の心理学」で、人のこころの仕組みを学ぶが、防衛機制の同一化などが、場合によって凶器と化すのだと思う。勿論、防衛機制は人間にとって大切な要素で、祖先達が生き抜いてきたこころの仕組みであるのも事実であるが。
同じ家族、同じ仲間、同じ学校、同じ職場、同じ地域、同じ民族、同じ宗教、同じ国・・・その中で生じる仲間意識と、敵対意識。生贄の子羊。
そして悲惨な問題が生じた時、温床となったように見える家族、学校、職場、民族、宗教などが悪玉になりがちであるが、こころの仕組みをきちっと学べば、もっと身近な問題であることが判るのではないだろうか。
そして、無益な悪者探しより、暮らしの中でのやさしい老僧ロレンス師のような存在が重要だと気付く。
最後にYouTubeは、マザーテレサ役で有名だったオリビアの若い頃の映画を、思い出させてくれる。興味のある方はここを!
<自己肯定、他者否定 3/6>
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