日野樹男歌集(3)
■日曜の人らつどへる街なかにぽつかり空きしはたれの處刑場
■幼な日にいたく怖れし隣家の牛いま美しくまぼろしとして
■眞四角の部屋靜謐にこころまで四角にならねば生きてはゆけぬ
■全身をめぐる血液管にとり虛空を走らす愉しからずや
■いつよりか枯野をあゆむ人となり終はらぬ夢に涙ぐみつつ
■ひさびさに白鳥陵に來てみれば破れ羽ををしき冬蝶見たり
■いちにちを水のごとくに流れきて夜のよどみに汚水のなげき
■萬卷の書を藏したる圖書の落丁誤植が語る世界史
■永遠に水めぐりゆくこの星に機械で水を拔きとるわれは
■雜草の仲間となりてのちのことわれも見えざる花を咲かせつ
■一日の三百六十五倍といふもののこの一年の何たる短さ
■十二月まだ暗きより起きいでてたのしきふりして透析に行く
■吠えられて犬がますます嫌ひなりそれでも夜は遠吠え眞似て
■生に倦み時を殺してわがあれど時の屍臭をいかにせよとや
■進化していまに至れるその時間飛ばざることの選擇はなぜ
■こぼたれて人の住みたる家が消ゆ後に殘るはいくつかの穴
■かなしみて丘に登れば樹とならむもろ手を空に差し伸べながら
■墓原に墓のみありて人よりも長きいのちの石ならびをり
■群の空をたやすく灰色にかへて少年嘘をつきはじむ
■郵便をこよなく愛するわれなればふるさと戀しと額に切手
■母戀しと嵐の海に旅立てるわれを見送るあれが母なのか
■わが歸る部屋には誰もをらぬこと確かめたくてノックしてみる
■いとなみのひとつに地下を掘りすすむ人は故を目指しはしない
■秩序立てて夢を語れば消えてゆく野望といふ名のきまぼろし
■生きてあることの無殘を語るべくカメラのレンズ己に向けつ
■ひたすらにわれを演ずる何者か鏡の中よりわれを見てをり
■さまざまに夢のつづきを思ひつつ朝の珈琲苦きを好む
■さういへば耳よなんぢは何とまあをかしな穴よ腦を覗ける
■赤き輪ゴムひとつねぢれば無限大もとに戾せば眞赤なゼロよ
■いくつもの圓を描けどたのしまず人は死ぬまで生きゆくものを
■積み上げて倒れさうなるダンボール不安は箱の中身なれども
■進化樹の枝の尖端それぞれに勝ち殘りたるものの孤獨を
■剝製の鳥に見られて見かへせばつばさひろげて死を飛ぶ君よ
■月の夜のこころよわりの散策にいつしか影にしたがふわれか
■秋れの空といのちをとりかへてわれは眞き無爲のよろこび
■平等であるはずもなくやすやすと死にゆく子らを如何に悼まむ
■わが夢の朽ちゆく途上に生といふこの重苦しき時の長さよ
■家系譜のいづこにあれどわが名より血は密やかに零れゆくなり
■心にも傷あるなりと比喩はよしされど傷さへ受けぬ空虛も
■ぶらんこが無人のままに搖れてをりすでにたれかを異界へ送り
■鳥が飛ぶその飛ぶさきに何かあるかならず何かなくてはならぬ
■地にあるはかならず空のいづこよりか墜ちたるあかしもはや戾れず
■高きより見下ろしをれば人てふは頭蓋を運ぶ手と足なりき
■オルゴールまはせば同じ子守唄六十年後は老いて眠れる
■六十億七十億とかぞへきて八十億はわが死後やれやれ
■七十億へといともたやすく人類はえてその他の動物は今
■道あればかならず道をよぎる猫いづこへゆくや猫の生きゆく
■鏡中にとりのこされてわが死後の部屋を見てゐる寂しきをとこ
■たとへあと百年生きてみたとしてこのゆふやけがわたしのすべて
■泉よりわき出できたるその水を飮むとはすなはち汚水にかへす
■風強き中をひまはり搖れながら自尊の花の高みをゆづらず
■濁流はなにゆゑ人を魅するかと濁流に身を乘り出して思ふ
■未來とは過去の鏡像かがみより向かうはただのまつくらやみと
■腦内にひらめき消えし何事かすでに覺えず知りたし知りたし
■這ふ蟲に翅あることのともしくてわれまた這ひつつ翅探しをり
■わらわらと蟲這ひ出でし石の下さぞや棲みよきところなるらむ
■妄想癖いまも消えざるかなしさはもはや晩年死後を夢見る
■野にあまた獸のかばね散らばりて喰ひたらひをり蟲の惑星
■補蟲網ふりふり步むあの世まで地獄に落ちても蟲たちがゐる
■この星の主はあるいは地中なる土龍ならずや地上の暑さ
■三發目その原爆が恐ろしとただアメリカにひれ伏す國あり
■開戰の理由はつねにあとづけでまづ戰爭のあるのが歷史
■戰爭はアニメの中につねにあり繪とはいへども人は死にゆく
■戰爭は草のつるぎに草の實の彈うちあひて日の暮るるまで
■戰場にありたる命をながらへて父よ苦しき日常なりけむ
*江戸川亂步「屋根裏の散步者」
■まくら邊に目覺時計のありしゆゑ自殺にあらずと探偵いはく
■目覺時計かけしがゆゑに自殺にはあらずてふ説われは否定す
*安部公房「魔法のチョーク」
■壁に描きし食べ物のみに生きつげばやがて繪となる愉しき未來
*アントン・チェーホフ「犬を連れた奧さん」
■ゆふぐれとなればかならず犬を抱き通る女に戀などはせぬ
■要するに腐るといふは蟲たちの食事中なり邪魔だて無用
■わがまなこひかりてあらむごきぶりと一瞬なれど鬪ふ姿勢
■やどかりの流轉の生をそのままにわがたましひも次の棲家へ
■誕生も死もそれぞれに驛の名と思へばたのし命の電車
■君とゐて日ごと無口になりゆきし理由をいまも考へてをり
*稲城址
■もののべの守屋がやかた稲城の址とつたへて石文のあり
■天よりの水を雨とはたのしくて雨よふれふれ一緒に天も
■血と葉補色にあれば反轉し血まみれの森みどりの血管
■東歐に季節はめぐり本來の社會主義とは優しさならむに
■北朝鮮の行軍のさま見てあれば鍋に煎らるる豆のごとしと
■おろかしき凹凸ありて人體の美醜を言へる日日のわづらひ
■腕時計もはや無用とおもひしが透析中は時の囚人
■影よ汝が腹に腎臟なきゆゑに幸く生きよとわれより分かつ
■つひに羽化できざるままに腐りゆくさなぎの中のあらゆる翅よ
■いつぴきの犬に家族がえたりと華やぐ男になりたくはなし
■いちにちをふりかへりみて單純に透析のみに終はるさびしさ
■山彦のわれ呼ぶこゑの消えゆけば呼ばるるわれも消えてゆかねば
■才能と努力のはなし聞き飽きて鷄卵論爭に戾りつるかな
■死ぬまぎは遺す言葉を選びゐて死にそこねたる英雄はをらぬか
■ここまでと決めたる量の食事なり命をつなぐ他に意味なく
■くりかへす日日の雜事にかまけつつ輪廻轉生などももしやと
■透析を終へてふらふら歸るなり歸るといふはあきらめに似て
■朝の電車人は會社に學校にいそぐ中にてわれは透析に
■一室は棺と化して孤獨死の老人の闇閉ぢ込めてあり
■薔薇といふ漢字を覺えほこらかに板に薔薇咲かせしも遠く
■百匹を喰らへば二百眼の球がついてくるなりちりめんじやこは
■わが友の蝶がへてくれしこと進化はいづれ蝶にいたると
■春の闇ふくよかなれば子をはらむをんなを思ふ種なきわれも
■菜の花のあつけらかんと黃色くてこの明るさはわれを狂はす
■戰爭が大好きなどとその少年銃をかつげばが喰へると