投石日記

日野樹男
つながれて機械をめぐる血の流れ生は死の影死は生の影

2010年06月26日(土)

2010年06月26日 | 映畫
●續・夕陽のガンマン 地獄の決鬪(IL BUONO, IL BRUTTO, IL CATTIVO)/1966、伊/セルジオ・レオーネ監督/クリント・イーストウッド、イーライ・ウォラック、リー・ヴァンクリーフ
◎NHKBSの錄畫。時代は南北戰爭の最中でしかも舞臺は兩軍が激突する最前線。登場人物の3人のガンマンを善玉・惡玉・卑劣漢と分類しそれが題名にもなつてゐるが、3人とも同じ穴のむじなでただの金の亡者。早擊ち自慢のブロンディーはお尋ね者のテュコと組んで賞金詐欺を續けてゐた。まづブロンディーがテュコを捕へて保安官に引き渡し賞金を受け取る。テュコが縛り首になる寸前に助け出して、また別の土地で同じことを繰り返す。しかし先が見えて來たことからブロンディーはテュコを砂漠に見捨てて逃げてしまふ。テュコの恨みは深く、何とか窮地を脱したあと今度は逆にブロンディーを水も飮ませずに砂漠を延延と連れ廻して殺してしまはうとする。そのとき暴走する馬車を發見、中には瀕死の北軍兵士がゐた。その兵士から20萬ドルの金貨が或る墓地に隱されてゐるといふ話をテュコが聞く。もつと續きを聞くために水を飮まさうとその場を離れた隙にブロンディーが殘りの話を聞き出してしまひ、テュコが戾るともうその兵士は死んでゐた。結局テュコが隱し場所の墓地の名前を、ブロンディーがその墓が誰の墓なのかを知ることとなり、ふたりは20萬ドルのために再び手を組み相棒となる。それまでに惡玉エンゼル・アイもどこからか20萬ドルの金貨の話を聞き込んでゐて、あちこち情報を求めて步き廻り話を聞いた相手を情け容赦なく殺してゐる姿が描かれる。「續」などとなつてはゐてもこのエンゼル・アイは前作の「大佐」とは全く違ふ惡の人物造形になつてゐる。南北戰爭の南軍と北軍を適當に渡り步き、裏切りと腹の探り合ひを繰り返しながら3人はつひに20萬ドルの金貨の埋まつた墓を見付けるが、そこでたうとう全員本性を顯はし金を獨り占めするための決鬪となる。しかも3人による決鬪で、誰が誰を最初に擊つのか息詰まる數分が過ぎ結局古くからの相棒の絆は強くブロンディーもテュコもまづはエンゼル・アイを斃す。殘るふたりの間ではブロンディーの方が主導権を握り金貨を掘り出すが、しかし最後にはテュコに半分を殘して去つていく。ブロンディーとテュコのふたりの掛け合ひ漫才のやうなやり取りは全篇を通して愉しいものだつたから、觀てゐるこちらとしても納得のいく結末。この映畫の一番の缺點は3時間近い長さだと思ふ。もしかすると監督がマカロニ・ウェスタンに飽きてしまひ本物の西部劇に挑戰して細部にこだはつたといふやうなことなのか。だとしたら無意味なことで、誰もイタリア製の西部劇にアメリカ開拓史を求めたりはしない。「惡いインディアン」を嬲り殺しにするやうな場面も含めて西部劇はすべて歷史的共感を背景にしたアメリカ人の自己正當化のための物語。日本の時代劇における侍たち同樣にガンマンたちも美化された存在だが、その美化も自國の歷史を見る眼の一部で「時代劇」の役割がそこにある。相手に先に銃を拔かせてからでなければ勝つても非難される決鬪のルールなど所詮はお伽噺で、實際には皆先を爭つて銃を拔き先に發砲し背中からでも何でもいいから人を殺して生き拔いてきたのが實際の歷史だらう。本家の西部劇はさうした歷史に時代劇的な裝飾を付け加へてはゐる。自國の歷史に對する誇りを元に回顧的に現在に繫がる社會秩序を見出し英雄譚やその裏返しである惡漢傳説を重ね、自分たちに心地よい物語を創り出して來た。しかし歷史と少しずれたところにあるその種の物語もその國の人びとにとつては良くも惡くも歷史の一部。殘念ながらマカロニ・ウェスタンにはさういふ「歷史」はない。

2010年06月25日(金)

2010年06月25日 | 映畫
●夕陽のガンマン(PER QUALCHE DOLLARO IN PIU)/1965、伊・西/セルジオ・レオーネ監督/リー・ヴァンクリーフ、クリント・イーストウッド、ジャン・マリア・ヴォロンテ
◎NHKBSの錄畫。セルジオ・レオーネ監督が前作同樣クリント・イーストウッドを起用したイタリア版西部劇。續く「續・夕陽」とともに三部作とされることがあるとはいへ、イーストウッドが演じる人物の性格設定は「荒野の用心棒」とは全く違つてゐる。何の躊躇ひもなく惡人を殺してしまふのは同じだが、「荒野の用心棒」以外は飽くまでも金のためと割り切つた賞金稼ぎの話。「荒野の用心棒」のジョーももしかすると賞金稼ぎで生きてゐるのかもしれないが、少なくともマリソルのあの事件に關はつてゐた間は無慾の正義の味方だつた。メキシコ軍が奪はれた金塊の隱し場所も確認はしてゐたが最後まで手を付けず、酒場の親爺に軍に返すやうに言ひおいて町を去つていく。本家の西部劇の美學に近い禁欲主義を貫いてゐたのだ。しかし、この「夕陽のガンマン」ではリー・ヴァンクリーフの演じる「大佐」にややその性格に近いものが見て取れるが、イーストウッドの演じるモンコは能天氣な賞金稼ぎ以外の何ものでもない。モンコと大佐はそれぞれ別別に賞金稼ぎの旅を續けてゐて、大佐の方には誰か特定の標的があるらしい樣子。やがて大佐がその相手エル・インディオとあだ名される惡黨に辿り著いたとき、早擊ち自慢のモンコもまた彼の首に掛けられた賞金に目を付けてゐた。ふたりの賞金稼ぎが相手を牽制するために帽子の飛ばし合ひをするところ、モンコの正確な射擊で大佐の帽子がどんどん飛ばされていくが大佐は何も言はずにその帽子を追つて步いていく。しかしあるところまで來ると拳銃の射程外に出てもう彈が屆かない。そこで大佐はおもむろに銃身の長い自慢の銃を取り出しモンコの帽子を擊つて空高く飛ばしてしまふ。ふたりの惡人狩りの手法の違ひと同時に性格的な違ひまでも見事に描き出してゐる。ふたりは結局協力してエル・インディオを倒すことに決めるが、折りから彼らの一味がエル・パソの銀行を狙つてゐるのが分かり、まづ顏の知られてゐないモンコが仲間内に這入り込んで情報蒐集に當たることに。うまくボスに取り入つたモンコが仲間の一部を切り離して片付けたものの、敵は案外に知能犯で銀行はまんまと破られてしまふ。その後はエル・インディオ一味の内紛などもありそれを利用して子分を始末し、モンコの手助けも得て最後に大佐とエル・インディオの一對一の決鬪となる。それまでになぜ大佐が彼を追ひ續けてゐたのかも明かされる。大佐の妹夫婦が彼に殺されてゐたのだ。「荒野の用心棒」ではジョーが「救へなかつた女がゐた」と語つてゐたが、あの「女」は何も戀人や妻とは限らない話で母親や姉妹であつたのかも知れない。その意味でもこの作品での大佐の役は前作のジョーに重なる。違ひはこちらは直接の復讐であり前作のやうな男の浪漫が薄められてゐること。いづれにしても復讐は成し遂げられ、妹夫婦の遺品であるオルゴール付きの懷中時計を取り返しただけですべての賞金をモンコに讓つて大佐は夕陽の中を靜かに去つていく。一方モンコの方は賞金付きの屍體を荷馬車に山と積み上げて金勘定をしながら砂塵の中に消えていく。ふたりの退場の仕方を見てもこの映畫の主役はリー・ヴァンクリーフの方であり、クリント・イーストウッドはただの狂言廻しでしかなかつたのが分かる。

2010年06月24日(木)

2010年06月24日 | 映畫
●荒野の用心棒(PER UN PUGNO DI DOLLARI)/1964、伊/セルジオ・レオーネ監督/クリント・イーストウッド、ジャン・マリア・ヴォロンテ、マリアンネ・コッホ
◎NHKBSの錄畫。ダシール・ハメットの小説「血の收穫」の影響下に創られた澤明の時代劇「用心棒」をイタリアのセルジオ・レオーネが觀てそれをアメリカの西部劇に移した、といふ大變に國際的な背景を持つマカロニ・ウェスタンの傑作。ガンマンのジョーが通りがかりの井戸で喉の渴きを癒してゐるとそばの農家の納屋から子供がひとり走り出て來る。母親を呼びながら母屋に近づいていくと中から大男が出て來て手荒く子供を追ひ拂ひ、窓からは母親らしい女がそれを哀しさうに見てゐる。近くの寂れた町の酒場で事情を尋ねてみると、惡保安官のバクスターと敵對し町を二分するやくざのロホ家の息子ラモンがその女マリソルに惚れ夫から奪ひ取つて監禁してゐるのだといふ。ジョーはロホ家とバクスター家をしばらく觀察したのち何を思つてかバクスター家の前に屯するチンピラ3人に難癖を付け、先に銃を拔かせてから擊ち殺してしまふ。その話を手土産に今度はロホ家に出掛けて自分を用心棒に賣り込み成功する。その後は裏から兩家の對立を煽り續けて殺し合ひを誘ひ、最終的には逃げ出したチンピラは別にして兩家の主要な人物全員を死亡させてしまふ。動機はラモンに監禁されてゐたマリソルで、ジョーは途中で機をみてマリソル一家を助け出し北へ逃がす。それまでに用心棒代などで兩家から稼いだ金を逃走資金として與へ、マリソルのなぜとの問ひに昔救へなかつた女がゐたからと答へてゐる。ハードボイルドなのだ。個人的な復讐でもなく愛情や錢金のためでもない全くの無償の行爲。續く「夕陽のガンマン」などとはそこのところが決定的に違ふ。この作品では夥しい數の死人が出るのだが、その印象の割にはジョーが直接殺したのは意外と少ない。一番の惡人はラモンで、アメリカ軍との衝突と見せかけてメキシコ軍の一隊を全滅させ金塊を奪つたり、バクスターの屋敷に火を付けて丸腰で飛び出して來る者を機關銃で虐殺したりとやりたい放題。裏工作やマリソルを逃がしたことがばれて捕まつたジョーは拷問を受けるが、何とか拔け出したあと酒場の親爺の手助けを得て體力を回復させる。そして最後にやつとそのラモン親子との決鬪となる。相手をここまでとことん惡人にしておけば、話は相當に亂暴ではあつても本家の西部劇に近いクライマックスの效果が出るといふもの。觀てゐるこちらもラモンが斃れたところでそれが人の死ではあつても無條件に溜飮が下がる。決鬪の際にジョーが胸に仕込んだ鐡板については本來なら銃彈が命中すれば金屬音が鳴るはずだが、この場面の編輯のときだけ效果音係が寢てゐたのだと考へるしかない。細かいことにこだはるとマカロニ・ウェスタンは觀てゐられないのだ。

2010年06月21日(月)

2010年06月21日 | 映畫
●男はつらいよ 柴又慕情/1972/山田洋次監督/渥美、吉永小百合、宮口二、倍賞千惠子、前田吟、松村達雄、三崎千惠子、太宰久雄、笠智衆
◎地上波で直接觀た。若い頃は「男はつらいよ」は全く受け付けず、どれが最初だつたかは忘れたが初めて觀たのはもうシリーズが相當進んでからのことだつた。東京嫌ひの身には柴又などどうでもいい話だし、それに主人公が香具師ではとても付き合ひ切れない。しかしやはり實際に觀てしまへばその面白さに引き込まれて、結局順不同ながらシリーズ全作を觀てしまつた。香具師についても私なりに少しは理解も出來るやうになり、渥美の藝の小氣味よさも愉しめるやうになつた。古い時代、人口の多い都市部以外では定住型の商工業が仕事として成り立たず移動型の商人が普通の存在であつたこと。まして祭りの人出を當てにした商賣はあちこちの緣日を渡り步く他なく、自分たちの生存權確保のため同業者間に獨特の結び付きが生まれて閉鎖的な集團を作り、同時に祭りといふハレの場を演出するための口上を藝として育てて來た。その名殘りだと思へば確かにそこには日本の原風景に繫がる何かがあり懷かしさも感じられる。若い頃に拒否反應があつたのは暴力團との混同によるものだが、始まりは別の存在だつたらしい。その特殊な業態から販賣價格に對する利率の高さは想像できるがそれさへ納得できればやはり香具師は祭りの華のひとつであつたはず。ただし個人的には寅次郎のやうな口上賣りは子供の頃に何度か見た切りで、私の場合は人込みが嫌ひで祭りに出掛けないからだが、實際にも最近ではもう單なる露店があるばかりで口上賣りは探すのも難しいのだとか。映畫の中の寅次郎がどの程度商賣に勵んでゐるのかその結果どの程度稼いでゐるのか詳細は不明ながら、とりあへず仕事はしてゐるわけだから臺詞にあるやうな「遊び人」ではない。話の中身はシリーズ全作を通してほとんど同じだつたはずで、寅次郎が出逢つた美女に一目惚れするもののあれやこれやで結果は失戀、また長い旅に出たところで映畫は終はる。しかし要するにその「旅」が仕事なのだから何もいけないことではなく寅次郎の日常に戾つただけ。逆に言へば寅次郎が戀に惱んでゐる間は一種の休日なのだ。今回の休日に戀する相手は小説家の娘で、何やら淋しげな歌子。剽輕者の寅次郎が氣に入つて「とらや」に訪ねてくるが、そこでさくらや博に惱みを相談するうちに決心が付き父親の反對を押し切るやうに結婚してしまひ、結果としてまた寅次郎を失戀させることに。歌子の父の小説家役で宮口二が出てゐるがこれが絶妙の配役で、やや線は細いが日本文學史に大きな名を殘す佐藤春夫を彷彿させるいかにも頑固さうな風貌。2年後に同じ配役で續篇が作られることになるのだからたぶん好評だつたのだらう。とにかくこれがシリーズ第9作で、この段階ですでに寅次郎の失戀話はパターン化してをりしかもそのこと自體をネタにして笑ひを誘つたりしてゐる。この先さらに40作近くも同じやうな話が續き同じやうな笑ひを笑ふことになるとは誰も想像してゐなかつたことに違ひない。