◎季節の變はり目は腎臟の壞れた私の體にはいつもきついのだが、中でも今の時期はつらい。今年は特に日ごとの氣温差が大きくて體がうまくついていつてくれないやうだ。何がどうといふほどはつきりとした體調の異變があるわけでもない。ただ氣分的にだるく何にも集中できないのでだらだらと時間をつぶすだけの日日が續いてゐる。實は透析の方でも、しばらくあまり大きく變化のなかつた血液檢査の數値がここにきて異常を示してゐる。細かい數字を見ても覺えられないし理解もできないのでこれも主なところはグラフにしてある。そのうち「リン」は手元に記錄のある範圍では最高値となりグラフの線が急角度に上昇、「カリウム」も高止まり狀態。今すぐにどうなるといふ話ではないがこれが續くといづれ大變なことになる。酒量はやや減り氣味なのだが毎日酒を飮む習慣は止められない。「粗食が一番の藥」が基本だつた私の食生活に亂れが生じ、酒の勢ひもあつて燒肉を腹一杯食べるなどといふ愚行を演じてしまつた。一應「人生最後の燒肉」と名付けておいたのでこれはもう二度としないつもりながら、一旦緩んだ生活を立て直すのはやはり大變だ。嫌なことが續いたので氣らしの意味もあつたものの、命がけの氣らしなどといふのは傍迷惑この上ない行爲だらう。何だか今が人生でこの上なく大事な時期のやうな氣がしてゐる。ここできちんと覺悟を決めて本氣で生活を立て直さないと後戾りできないところへ踏み込んでしまひさうだ。などと、同じことをこれまで何度も口に出しこのブログにも書いたこともあるのだが、今度こそ眞劍にならないと次がない。それにこれまで經驗がなく酒や「透析」にも直接關係はないと思ふが、最近普通に步いてゐて膝が妙に痛い。知らない間に痛めただけの一過性のものか、それとももつと深刻なことに繋がるのか、今のところはよく分からない。無茶な生活を續けた擧句に腎臟を壞して密かに泣いた日のことを思ひ出して、まだ自分の足で步ける今の生活を失はないやうに改めて努力しなければいけない。
●岩波文庫 完譯ナンセンスの繪本/エドワード・リア(柳尚紀譯)/岩波書店/2003
◎久しぶりに本を「讀了」した。あちこち覗いては拾ひ讀みするだけの讀書が續いて、この本も透析時に持ち込むやうになつてから1年近く經つ。ときどき數ペイジ讀んでは忘れるといふことの繰り返しだつたが、それでもとにかく最後まで讀んだのは何よりも「繪」の面白さに惹かれたためだらう。本としてはリアの「リメリック集」で、本來の「ナンセンスの繪本」に後年の同趣向の作品を合はせたもの。リメリックといふと、私の場合はテレビの「刑事コロンボ」でアイルランド紛爭がらみの事件の際にコロンボが犯人に近づくために利用してゐたのを思ひ出す。アメリカ在住のアイルランド人作家が故の「同志」に大量の武器を送らうとして殺人を犯してしまひ、コロンボがそれを追求する内容。酒とリメリックを通じてのやりとりが面白くて、記憶力に自信のない私でもそれなりにストーリーを思ひ出せる作品だ。特にピーター・フォークが實に愉しさうにリメリックを「歌つて」ゐたのが懷かしい。
◎「リメリック」は5行の滑稽詩で「aabba」と脚韻を踏む。1800年代中ごろに出たリアのこの本が世に弘めた詩形らしい。アイルランドに「リメリック」といふ地名がありそれとの關係をいふのが一般的ながら、譯者の柳尚紀は解説でそれに疑問を呈してゐる。原著の構成はどのやうなものか知らないが、この譯書では各ペイジにリメリック1篇とそれに付けられた繪を配してゐる。中央に繪があり、その下段に原詩、そして上段に日本語で「aabba」の脚韻を採用した「譯詩」がある。それも1音だけではつまらないから2音以上で韻を踏むといふ徹底ぶりで、この譯者ならではの翻譯になつてゐる。かうした外國語の「詩」の翻譯の場合、日本語でも詩として通用する「作品」を目指すべきか、あるいは原詩を竝記して譯詩はその理解を助けるための散文的なものに留めるべきか、人により意見の分かれるところ。英語なら後者でも充分なやうにも思へるものの、この譯書の場合は譯者が譯者だけにその「ちから技」を期待して手に取る人もゐるはず。ただし原詩が荒唐無稽な滑稽詩であるために、脚韻にこだはつた譯詩はその「押韻」の技巧だけがいたづらに目立つものでしかないことが多い。私としては各ペイジにもうひとつ解説的な翻譯も加へておいて欲しかつた。
◎リアの原詩そのものの発想は奇想天外で大變に面白い。しかし脚韻については案外と單純な構成でややガッカリするやうなところもある。「aabba」のうち「a」の押韻で地名といふ固有名詞を利用してゐることが多いのだ。さうでないものもあるのでそれが詩形の約束だといふことではない。1行目を地名で終はり2行目はそれに脚韻を踏む、そして5行目はその同じ地名で締め括つてゐる。つまり2行目がまづあつてそこへ脚韻の合ふ適當な地名を探して1行目を作り、その段階で5行目も卽決定。結局「a」に關してはほとんど何の工夫もしてをらず、あとは「b」の2行だけでそれもナンセンスなのだから意味には關係なくただ「韻」だけが目的の單純な言葉遊び。譯詩ではその點を考慮して固有名詞部分を日本語での押韻には利用しないやうに努め、特に5行目の地名の繰り返しはまつたく無視してゐる。このあたりはさすがこだはりの翻譯で納得できる。「詩」に比べると「繪」は150年も前の作品とは信じがたい輕妙さで驚くほどに新鮮だ。このエドワード・リアといふ人物は本來は畫家であり、鳥の細密畫で有名な人らしい。この本の插繪は細密畫とは逆の卽興的な滑稽畫だが、その愉しさはただただ見事といふしかない。この繪を眺めるだけでもこの本を手元に置いておく理由にはなるだらう。
◎他に、短歌を作つてゐる私としてはこの「aabba」といふリメリックの詩形にひらめくものがあつた。短歌も「57577」の5句であり、その5句に「aabba」の脚韻を踏ませれば何と「リメリック短歌」が出來るではないか、といふわけだ。しばらく考へてみたが、もちろんすぐ正氣に返つて諦めた。「57577」の定型だけでも大變なのに脚韻にまでこだはつてゐては全く何も作れなくなるのは明らか。定型の世界の狹さだけで充分に苦勞してゐるので、これ以上餘計なことは考へない方がいいやうだ。