古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

條ウル神古墳・條池古墳群(葛城・纒向ツアー No.12)

2019年12月24日 | 実地踏査・古代史旅
 室宮山古墳から條池古墳群へは東へ5分足らずで到着するのですが、その途中、京奈和自動車道の下をくぐります。そのすぐ北側に御所南インターチェンジと御所南パーキングエリアがあるのですが、この工事の最中にたいへんな遺跡が見つかっています。中西遺跡と秋津遺跡です。

 秋津遺跡からは古墳時代前期(活動の中心期は4世紀初頭)の方形区画施設、いわゆる豪族居館跡と呼ばれるような大規模な遺構が見つかっています。すぐ近くにある室宮山古墳の築造が5世紀初頭、南郷遺跡群が5~6世紀とされているので、それらよりも前の時代ということになります。2キロほど北にある鴨都波遺跡が弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡で、鴨都波1号墳が4世紀中頃の築造であったことからすると、秋津遺跡はむしろ鴨都波遺跡との関係で考えたほうがよさそうです。つまり、葛城氏に関係する遺構ではなく、鴨氏に関係する集落遺跡であったと考えられます。

 その秋津遺跡のすぐ南に広がるのが中西遺跡です。ここからは弥生時代前期の大規模な水田跡が見つかりました。2009年から継続的に実施された調査の結果、水田跡は延べ約43,000平方メートルにも及び、3メートル四方ほどの小さな区画の水田が3,000枚以上も確認され、弥生前期の水田跡としては全国最大規模となります。このあたりは現在も田畑が広がる地域ですが、遺跡は洪水による土砂に覆われていたことから一度は耕作を放棄したと考えられます。

 ここにこんなにも重要な遺跡があるのは知っていたのですが、京奈和自動車道がすでに利用が開始されていることから、もはや遺跡の確認はできないと思い込んで行程に入れなかったのです。しかし、ツアーを終えたすぐあとに橿原考古学研究所による現地説明会があると知ったときは少なからずショックでした。なんと、供用が開始された道路の東側では調査が続けられていたのです。しかも、これが広域調査の最後の機会だというのです。行程に組み込んでおけば調査中の遺跡を垣間見ることができたかもしれません。本当に残念。いずれの遺跡も3年前の記事「◆古代の葛城地方」に登場させていますのでご覧ください。

前置きが長くなりましたが、話を戻します。

 條池古墳群も條ウル神古墳もアザレアホールで学習したばかりなので親近感を持ってやってきました。企画展を見学していた地元のおばちゃんからは「すぐ近くには車を停めるところがないのでここに停めるといい」という場所まで聞いていたので、なんだか一度来たことがあるような気持ちにさえなっていました。

 車を停めて最初に徒歩で向かったのが條池古墳群です。ここには條庚申塚古墳、條池北古墳、條池南古墳の3つの古墳があります。一番手前の條庚申塚古墳はすぐにそれとわかります。



條池古墳群の説明です。

ここには巨勢山古墳群の條池支群として書かれてます。いずれも破壊が進んで正確な墳形や大きさは不明のようですが、6世紀以降の築造と考えられています。

墳丘の左手から踏み込んで墳丘に上ると小さな祠が建っていました。








 この祠があることから庚申塚古墳の名がついたそうです。アザレアホールではこの古墳の石室を確認するためにどうすればいいかを観光協会のおじさんと係員のおじさんがそれぞれの考えで教えてくれたのですが、観光協会のおじさんによると「墳丘を越えていけばいい」と言い、係員のおじさんは「右側から回り込めばいい」ということでした。

 今から思うと「墳丘を越えて」というのが、この祠の後ろの断崖を降りるという意味だったのでしょうが、怪しい風貌の観光協会のおじさんの言うことを鼻から聞くつもりはなく、係員のおじさんの言葉に従おうと思っていたので、このときにはここを降りる発想はまったくありませんでした。そして、墳丘を降りて右側から回り込もうとしたのですが、大変な茂みが行く手を阻みます。すぐにあきらめて左手に墳丘を囲むような小道があったのでそちらに進みました。しかし、ぐるりと墳丘を回り込むだけで肝心の石室がどこにあるかは全くわかりません。

右手に墳丘を見ながら進みます。




ついに墳丘を回り込んで反対側にある條池の堤防に出てしまいました。

堤防の斜面はおじさん達には少し危険な斜面です。そろりそろり、慎重に降ります。


これでほぼ一周したことになります。むこうに堤防が見えます。この左に墳丘があるのでこのあたりから藪の中へ入っていけないかトライしましたがダメでした。

ひっつき虫をとるのが大変。これでもかなり取ったあとです。


 このとき、冷静に観光協会のおじさんの言葉を思い出してよく考えていれば、さっきの祠の下に石室があるということが思いついたはず。もういちど祠に戻って裏に降りればよかったのですが、結局、難儀して墳丘を一周したものの、石室を発見することができずにあきらめることにしました。苦労したのに報われず残念でした。しかし、ここは自宅から1時間ほどで行けるので、近いうちにリベンジしたいと思います。




 條庚申塚古墳から歩いてすぐのところにあるのが條ウル神古墳。石室の穴に神様がいるという伝承から「穴神→ウル神」と称されるようになった、というのはアザレアホールで聞いた話。残念ながらここは私有地のために立ち入りができません。





 條池古墳群は南の巨勢山丘陵地に広がる巨勢山古墳群に属しています。御所市観光ガイドには次にように書かれています。

 この丘陵全体が巨勢山古墳群の範囲と考えられ、総数約800基により構成される、我国最大級の群集墳であり、前方後円墳4基と多くの径十数メートル前後の円・方墳から成っている。
 五世紀前葉、大形前方後円墳、室・宮山古墳の築造を端緒として背後(南側)の巨勢山丘陵に点々と古墳が構築され始める。五世紀代は木棺直葬墳を主体に築造され、徐々に群形成が活発化し、六世紀中葉にピークを迎える。六世紀前葉には横穴式石室を採用する支群が出現するが、その採否は支群により一様ではない。七世紀初頭に至って、群形成は若干沈静化を見せるが、古墳造営は継続され、七世紀中葉に、横口式石槨墳が323号墳として構築される。


 巨勢山古墳群はその名の通り、巨勢氏の墓域と考えられていますが、葛城氏の首長墓である室宮山古墳からすぐのところにあるため、むしろ葛城氏との関係で考えるのが妥当かと思っていたのですが、丘陵の東側に拠点をもつ巨勢氏が、葛城氏の勢力が衰えてきた6世紀以降に丘陵を越えてこちらの方に進出してきたと考えれば納得がいきます。條池古墳群が6世紀以降の築造とされていることがその傍証といえます。「宮山古墳の築造を端緒として」とする御所市の説明はいかにも葛城氏との関係を連想させるため適切でないように思えます。



 かなり陽が傾いてきました。次の目的地は東へ車ですぐのところにある日本武尊白鳥陵です。



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