古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

南郷遺跡群(葛城・纒向ツアー No.7)

2019年12月12日 | 実地踏査・古代史旅
葛城山東麓の葛城一言主神社から名柄銅鐸出土地を経て、山麓バイパスをさらに南下すると金剛山の東麓に入ります。奈良盆地を一望できるバイパスあたりから東へ下っていく斜面はけっこうな急斜面で、標高140メートル~250メートルで100メートル以上の比高差があります。斜面一帯は一見すると段々畑が連なるのどかな田園風景が広がっていて遺跡を示す痕跡は何もなく、それとわかって来ない限り、ここに5世紀~6世紀の古墳時代の集落、葛城氏の拠点があったとは知る由もないでしょう。
 
 南郷遺跡群は東西1.7㎞南北1.4km、面積にしておよそ2.4㎢の広大な範囲におよびます。本格的な発掘調査の開始は、平成4年の橿原考古学研究所による県営の圃場整備事業に伴う事前の調査で、それ以降、圃場整備の事業地を中心に調査がおこなわれました。したがって遺跡はすべて埋め戻され、一帯には整備された圃場が広がっているばかりです。

南郷遺跡群の全体。左(西)から右(東)に向かって傾斜しています。

20か所以上の遺跡が密集しているのがわかります。中心が御所市の大字南郷に位置することからこれらを総称して南郷遺跡群と呼びます。(今回は極楽寺ヒビキ遺跡と南郷大東遺跡を訪ねました。)

上の図を航空写真で見るとこんな感じ。
山麓に段々畑が広がる様子がよくわかります。そして遺跡の痕跡がないのもよくわかりますね。

 調査を担当した橿原考古学研究所によると、この古墳時代の集落遺跡は主として5世紀前半~中葉の前半期と5世紀後葉~6世紀の後半期に内容が大きく分かれるそうです。
 前半期の遺跡は、祭祀儀礼関連の施設(極楽寺ヒビキ遺跡や南郷大東遺跡など)、朝鮮半島からの渡来人が推進したと考えられる鉄器生産を核とした手工業生産関連施設、それらに従事したと考えられる集団の居住施設などが見られます。
 後半期は、大壁建物が各所に樹立されて、技術者系ではなく知識人系渡来人が主導する集落へと大きく変貌したようです。高所に大型倉庫群、低所に居館状遺構が造営され、中間層の知識人系渡来人の居住区や一般層居住区が各所に配置されています。

 これらのうち、今回は極楽寺ヒビキ遺跡と南郷大東遺跡を訪ねたので、以下にそのときの様子を報告します。

極楽寺ヒビキ遺跡

 石葺きの護岸を持つ濠に囲まれた古墳時代中期(5世紀前半)の大型掘立柱建物跡が見つかりました。建物跡は約15m四方の高床式で四面に庇があったと考えられ、柱の太さが約40cmであったことなどから、高さが10メートルほどの2階建ての楼閣のような建物と考えられています。いわゆる豪族居館と言われる建物ですが、葛城氏の首長が祭祀と政治を行った中心施設と思われます。柱跡に火災での焼失を示す痕跡があるため、日本書紀に次のように記される葛城円(つぶら)大臣の居館ではないかとも考えられています。

 眉輪王(まよわのおおきみ)の父である大草香皇子は第20代安康天皇によって罪なくして殺害されます。これを知った眉輪王は父の仇として天皇を刺殺します(眉輪王の変)。葛城円は逃亡してきた彼を屋敷に匿うものの、大泊瀬皇子(後の第21代雄略天皇)の軍勢に攻め込まれ、屋敷もろとも焼き殺されたといいます。葛城円は葛城襲津彦の直系三代目であり、ここに葛城本宗家は滅亡したとされています。

 この極楽寺ヒビキ遺跡は奈良盆地を一望する標高240メートルの高台に立地しています。金剛山から流れ出る小川が西側から北側を囲むように深さ10数メートルから20メートルほどの谷を形成し、南側および東側もその支流によって数メートルから10メートル近い深さの谷で囲まれ、2つの川は東北部で合流しています。つまりこの建物に近づくためには南西部の一本道を行くしかないのです。

地形図を見るとよくわかります。

東側から発掘時の写真。(橿考研による現地説明会のときの資料から)
左上が南西部になります。遺跡全体が木々で囲まれていますが、これは谷川の両岸に茂る樹木です。

南西部から。(同上)
奈良盆地に向かう眺望が開けています。

葺石で護岸された建物を囲む堀。

 実際に行ってみると葛城氏がなぜここに屋敷を構えたかがよくわかりました。攻めてくる敵を発見しやすい眺望、侵入を許さない四方を囲む谷、さらには屋敷を囲む堀と塀。まさに天然の要塞に設けられた防御を主目的とする城のような施設であったことがわかります。5世紀の葛城の地にこのような施設を建設するのはやはり葛城氏以外には考えられないですね。では、その要塞に近づいてみましょう。

ナビの設定ミスで少し離れたところに車を停めて歩きます。
帰りに撮った写真なので岡田さんと佐々木さんは車に向かっています。林の向こう側が遺跡です。すぐそこに見えているのに谷に阻まれて行くことができないのです。
ぐるっと遠回りして金剛山に向かって登って行きます。

ここを右に曲がります。結構な高低差がありますね。

ここから一本道です。この上でさらに右に曲がります。

この奥で再び右に曲がります。

突き当たりを左に曲がります。この向こうは谷になっています。

右側は谷です。

遺跡に通じる唯一の道です。

いよいよこの道の先です。


見えてきました。

一本道を抜けると目の前に田んぼが広がっています。



 説明板も何もないので、ここが遺跡だとは全くわかりません。遺構はこの田んぼの下に保存されているらしいのですが、どういう方法で保存されているのでしょうか。単に埋め戻しただけ、ということかな。大阪府和泉市にある日本最大級の環濠集落である池上曽根遺跡は遺構の上に道路を敷設する際に鉄板をかぶせて保存したと聞きましたが、ここは田んぼなので水を通さない鉄板はないだろうな。

 実際に行ってみると、本当にこのルート以外では近寄れない場所でした。そういう意味で攻めにくい場所ではあるものの、それほど広くない場所なので大量の兵を待機させておくことはできそうにない。したがって、一本道といえども圧倒的な人数で攻め入れば屋敷を囲んでしまうことは簡単にできそうだし、実際に大泊瀬皇子はそのようにしたのでしょう。そうなれば兵糧攻めでも焼き討ちでも何でもできてしまう。案外もろい要塞と言えますね。

南郷大東(おおひがし)遺跡

 南郷大東遺跡は極楽寺ヒビキ遺跡を少しばかり東に下っていった坂道の途中にあります。斜面を流れる幅6mほど、深さ1.2mほどの小川を石積みで成地造成してせきとめて水を溜め、そこから木樋で小屋に導水して水の祭りをした全長25mの導水施設と考えられています。

 柵で囲まれた小屋の中で何らかの祭祀が執り行われたことが想定されます。小屋周辺から木刀・弓・盾・琴・サルノコシカケ・桃の種などの祭祀用具や多量の「焼けた木片」が見つかり、祭りが夜に行われたことがわかっているそうです。当初はトイレ跡という考えも出されて議論があったようだが、現在では導水施設との考えが定着しているようです。

 ここも極楽寺ヒビキ遺跡とならんで南郷遺跡群を代表する遺跡だと思います。学会では祭祀遺構かトイレ遺構か本気で議論されたようですが、どう考えてもトイレであるはずがないと思います。ここにトイレがあるくらいなら、ほかでも見つかっているでしょう。仮に5世紀にはトイレが一般的でなく豪族だけに許された設備であるとするなら葛城本宗家の屋敷である極楽寺ヒビキ遺跡にあるべきでしょうし、ここが葛城氏専用トイレだとするなら極楽寺ヒビキから歩いて15分は遠すぎます。そもそも、藤原京で初めてトイレ遺構が出たときには寄生虫や様々な食物に含まれる種子や骨などが見つかったことなどからトイレ遺構と判断されたのであって、ここはそういうものが出ておらず、逆に琴や桃の種が見つかっていることから何らかの祭祀遺構であると考えるのが妥当です。

 ただ一方で、その位置関係から極楽寺ヒビキ遺跡との何らかの関連を考える必要がありそうです。今は答えを持ち合わせていませんが、ここで行われた祭祀が葛城氏の管理下での儀式であったことだけは間違いないでしょうね。

斜面を下る農道の左側で遺構が見つかりました。



岡田さんがガイドブックを見ながら確認しています。


自作のガイドブックに載せた写真と比較してみました。


農道わきの細い側溝には今でもきれいな水が流れています。

この遺跡も完全に埋め戻されているので遺構が埋まっているとは気がつきません。ただし、現在は棚田になっていますが、ここにあった導水施設は斜面に沿って水が流れるような施設だったので、古代には棚田はなくて自然の傾斜のままであったと言えるでしょう。とすると、この周囲は木々が生い茂っていたのか、それとも草原のような状態だったのか、少なくとも今のような開放的な雰囲気はなかったのではないでしょうか。

事前学習で見学した古代オリエント博物館での展示です。

稲刈りの終わった棚田の中に立って、目に入ってくるのは青い空と金剛山地、そして眼下に広がる奈良盆地。十分に古代を感じることができました。以上、南郷遺跡群のレポートでした。


 
 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 名柄銅鐸出土地(葛城・纒向... | トップ | 高鴨神社(葛城・纒向ツアー... »

コメントを投稿

実地踏査・古代史旅」カテゴリの最新記事