古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

葛城一言主神社・綏靖天皇葛城高丘宮趾(葛城・纒向 実地踏査ツアー No.5)

2019年12月08日 | 実地踏査・古代史旅
 葛城一言主神社は葛城山の東麓、ここから下は傾斜が緩くなって田畑が広がるという山と里の境目に葛城一帯を見下ろすように東面して鎮座しています。木々が社殿に覆いかぶさるようにすぐ裏まで山が迫っています。ここは佐々木さんが是非行ってみたいと言っていたところです。
 鴨都波神社から車で10分ほど、南に向かう山麓バイパスを降りて突き当りを右折、西にまっすぐに伸びる道がそのまま参道になっています。鳥居を過ぎたところにある駐車場に車を停めて歩きます。

参道の途中に立つ鳥居。


神武天皇が東征の折にここで土蜘蛛を討ったという伝承に基づく蜘蛛塚が鳥居のすぐそばにあります。






 石段を上がったところにある境内はそれほど広くない、というよりも狭いです。その狭い境内に、由緒ある神社にしては小振りだけど立派な社殿がデンと構えています。






祭神は葛城之一言主大神と幼武尊(第21代雄略天皇)の二柱で、以下は神社のパンフレットにある由緒です。

本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。
一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。
当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、全国各地には当社に参拝するための講があり、現代にも篤い信仰を集めています。


 ここにみえる説話は前回の鴨都波神社の報告で紹介した通りです。神社の創建は不詳ですが、鴨都波神社の創建とそう変わらない時期ではないでしょうか。鴨氏あるいは葛城氏が葛城一帯に睨みを利かせるためにこの葛城山東麓の地に祖先神を祀る社を建てた、と考えられなくはない。



境内に生える推定樹齢1,200年の大イチョウ。

たくましい生命力を感じずにはおれません。

 さて、参拝を済ませた後、境内を出て少し歩きます。さきほどの参道が神社の右手からさらに山側に入り込んでいくのでそれに従って進みます。向かう先は第2代綏靖天皇の葛城高丘宮趾です。実は3年前にこの神社を参拝した時、この宮趾の石碑が見たくて同じ道を車で行ったところ、すぐに行き止まりになって進むことができず、石碑を見るのをあきらめて引き返した経験があったので、今回は何としてでも見たいと思って岡田さん、佐々木さんに付き合ってもらいました。20分ほどの葛城古道散策は秋晴れの青空のもと、たいへん気持ちのいい時間となりました。

古道からの風景。






遠くにこれから行く室宮山古墳が見えます。


宮趾の石碑。これが見たかったのです。




 日本書紀によると、第2代綏靖天皇は初代神武天皇の第三皇子で、母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)となっています。事代主神(=一言主神)が祀られる葛城一言主神社のすぐ近くにその孫である綏靖天皇の宮があったとしても不思議ではないですね。



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