古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

條ウル神古墳企画展(葛城・纒向ツアー No.3)

2019年12月04日 | 実地踏査・古代史旅
葛城市歴史博物館をあとにして車で10分ほど走ると御所市役所前にあるアザレアホールに到着です。ここで條ウル神古墳に関する企画展が開催されていることを知ったのはツイッターでした。ツイッターでは古代史や考古学に関連するたくさんの方々をフォローしているのですが、その中のどなたかのつぶやきを見て「これは行かねば」と思った次第です。実は前週に記念講演会が開催されるのを知っていたので聴きに行きたかったのですが、どうしても都合がつかずにあきらめたので、せめて展示は見ておきたいと思って行程にねじ込んだのでした。

 「條ウル神古墳 ~巨勢氏との関係を探る」と題した企画展がホール2Fのオープンスペースで開催されていました。ちなみに條ウル神は「じょうウルがみ」と読みます。條はこの古墳がある御所市の町の名前です。


 葛城氏の本貫地である葛城一帯はその東南部において巨勢氏の本貫地と接しています。そして條ウル神古墳はその巨勢氏の墓域と考えられている巨勢山古墳群がある丘陵地帯の北端に位置するため、巨勢氏との関係が説かれています。
 條ウル神古墳は全長が約70mの前方後円墳とされ、築造は6世紀後葉と考えられています。墳丘には蘇我馬子の墓といわれている石舞台古墳に匹敵する日本最大級の巨大な横穴式石室と、長辺側に3対、短辺側に1対の計8個の縄掛け突起(通常は4個あるいは6個)を持つ特異な家形石棺が見つかっており、被葬者は大和政権を支えた豪族である巨勢氏を率いた首長クラスの人物とみられています。







 出土品が少し展示されていましたが、基本的には解説パネルと写真が中心の展示になっていました。「ウル神というのは何ですか」と佐々木さんが係のおじさんに質問しました。記憶が定かではないですが「この古墳には大きな穴があり、昔からそこには神様がいるとされた。地元の人は穴神様と呼んでいた。穴という字を分解するとウとルになるでしょ」というような回答だったと思います。穴とは石室のことなのでしょう。そして「穴=ウ+ル」ということでウル神。この説ともうひとつの説を教えてもらったものの忘れてしまいました。どちらにしても「へえー、ホンマかいな」という感じ。

條ウル神古墳(6世紀後葉)だけでなく、市尾墓山古墳(6世紀初め)、市尾宮塚古墳(6世紀中頃)、権現堂古墳(6世紀中頃)、新宮山古墳(6世紀後半)、水沼北古墳(6世紀後半)、水沼南古墳(7世紀初め)、條庚申塚古墳、條池北古墳(6世紀後半)、條池南古墳(6世紀中葉~後半)など、近隣の古墳もパネルで紹介しています。條池北古墳、條池南古墳がもともと行くことにしていた條庚申塚古墳のすぐ南にあることがわかったので、そこにも行くことにしました。この3つを合わせて條池古墳群といいます。
またそれとは逆に、市尾墓山古墳と市尾宮塚古墳は当初は行程に入れていたものの、この企画展や新沢千塚古墳群を組み込んだためにやむなくカットした古墳でした。このふたつの古墳は巨勢山古墳群の東側、まさに巨勢氏の本貫地とされる巨勢谷にあることから巨勢氏の首長墓とされています。








 この企画展では、條ウル神古墳およびそのすぐ近くにある條池古墳群はその石室や石棺の特徴が巨勢谷にある巨勢氏の首長墓とよく似ていることから、これらの古墳が造られた6世紀後半には巨勢谷と一体の地域、すなわち巨勢氏の勢力範囲にあったと理解することができる、と解説されていました。

 この結論は一理あると思う一方で、直感的には受け入れることができないものでした。というのも、地理的に見れば條ウル神古墳や條池古墳群は、巨勢山丘陵上というよりも奈良盆地南端の平坦地、葛城襲津彦の墓とも考えられる室宮山古墳から数百メートルのところに位置していることから、むしろ葛城氏の勢力範囲にあると考えられるのです。実際に現地に行ってみるとそうとしか思えないのです。
 しかし、ここに時間軸を設定すると見方が変わってくる。葛城氏は5世紀の襲津彦のときに全盛期を迎えますが、その後に起こった眉輪王の変(456年)などによって本宗家は滅亡します。巨勢氏は葛城氏の勢力が弱まったのに乗じて巨勢谷から葛城地域へ進出して自らの勢力範囲に取り込み、6世紀以降はこの地に楔を打つように古墳を築くようになった、と考えることは十分に説得力があります。

 係員と親しそうに話をしながら見学しているヒッピー風の変なおじさんがいました。風貌は怪しいのですが、なんだかこのあたりの遺跡や歴史に詳しそうです。別の係員にこっそり聞いてみると観光協会の人だということです。ふたりの話に無理やり割って入って係員に「條庚申塚古墳の石室を見ることはできますか」と質問をしてみました。
 係員によると「墳丘には自由に入れますが、この季節は藪が茂っていて石室まで行くのが無理だと思う。でも見ようと思えば見れます。右手のほうからぐるっと回っていけば見つかると思います」という。一方、変なおじさんは「墳丘を越えて藪を踏み分けて降りていけば見つかるよ」といいます。それに対して係員が「いやあ、今の時期は無理でしょう。右のほうから行くのがいい」と返します。さらに変なおじさんは「大丈夫、大丈夫」と。う~ん、よくわからんけど、とにかく行けば何とかなるのかな、と思って「今から行ってきます」と言い残してホールをでました。岡田さんと佐々木さんはとっくにいなくなっていました。
 
 このレポートを書くにあたって再度調べてみるとよく理解ができるのですが、残念ながら展示を見学しているときにはあまり深く考えずに解説を読むので、点の情報が頭に入るだけでそれらが線や面になってつながりません。事前学習も一応やるのですが、これも点を集めるだけなので全体感がわかりません。やはり勉強というのは復習がいちばん大事ですね。私の場合は「ガイドブック作成→見学・実地踏査→ブログでレポート」というのがまさに「予習→授業→復習」ということになっています。

 さあ、次は鴨都波神社です。


 
 

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