古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆神武天皇の即位と論功行賞

2016年12月14日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀によると、南九州の日向を出てから6年、苦難の末に饒速日命を従えた神日本磐余彦は橿原の地で初代天皇として即位し、その翌年に東征の論功行賞が以下の通りに行われた。

 ・道臣命(大伴氏の祖)     築坂邑の土地、宅地
 ・大来目(久米氏の祖)     来目邑の土地 
 ・椎根津彦(珍彦)       倭国造に任命
 ・弟猾(菟田主水部の祖)    猛田県主に任命
 ・弟磯城(黒速)        磯城県主に任命
 ・剣根             葛城国造に任命
 ・八咫烏(葛野主殿県主部の祖) 不明
  
 道臣命に対してはその功績が大きかったので特に目をかけた。熊野から大和まで八咫烏の先導により大来目を率いて菟田(宇陀)まで一行を導いた。道臣の名はそのときに神武から賜ったものだ。また、兄猾が神武に罠を仕掛けた際、道臣は兄猾に向かって「おまえが作った屋敷には自分で入るがよい」と言って剣を構え、弓をつがえて追い込み、兄猾を死に追いやった。国見丘では神武の命に従い、大来目部を率いて八十梟帥の残党を討ち取った。その前には、神武自らが高皇産霊尊を斎き祀るときにその斎主に任じられ「厳媛(いづひめ)」の号を授けられた(道臣命は男性であるが、媛という女性の名をつけたのは神を祀る役は女性であったことの名残であろう)。このように道臣は戦闘や祭祀で大活躍をみせた。築坂邑は大和国高市郡築坂邑のことで現在の橿原市鳥屋町がその伝承地と言われている。

 大来目はその道臣に従って戦闘に参加した集団で、大来目が賜った来目邑(現在の橿原市久米町)は築坂邑のすぐ隣である。神武東征時のみならず、書紀の一書では大伴氏の遠祖の天忍日命が来目部(久米部=久米氏)の遠祖である天クシ津大来目を率いて瓊々杵尊を先導して天降ったと記されていることからも、久米氏は大伴氏の配下にあって軍事的役割を担っていたと考えられ、そのことから両氏は隣村に居住することになった。

 椎根津彦は神武が東征を開始して宇佐に到着する前に一行に加わり、航行の先導役を担った珍彦であり、倭直の始祖である。論功行賞として倭国造に任じられたことによるものだ。また、武内宿禰を生んだ影媛の父親である菟道彦(うじひこ)と同一人物であると考える。椎根津彦は大和での戦闘においても、神武が見た夢のお告げを実行するために老人に変装して敵陣の中を通り抜けて香久山の赤土を採りに向かったり、その赤土で作った御神酒甕を丹生川に沈めて魚を浮かせるという占いのようなことをしたり、兄磯城を討つために立てた作戦が見事に的中したりと、祭祀や戦闘において道臣命に引けを取らない功績があった。このことから倭国造という大役に任じられることになった。

 弟猾は兄猾とともに菟田の地(現在の奈良県宇陀市)を治めていた土着の豪族であったが、兄猾を裏切って神武側について神武を勝利に導いた。その功績から猛田邑を与えられ、猛田の県主に任命された。この猛田邑の場所は今一つ定かではないが、弟猾が菟田主水部(うだのもひとりべ)の遠祖であるとされていることから弟猾が住んだ猛田邑は菟田のどこかの一帯を指すと考えられる。主水部とは飲み水や氷を調達する役割を担った集団である。宇陀の芳野川沿いには宇太水分神社があり、天水分神(あめのみくまりのかみ)、速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)が祭神として祀られている。いずれも水に関わりのある神である。この神社があるあたりが猛田邑であろうか。

 弟磯城は兄磯城とともに磯城の地(現在の奈良県桜井市)を治めていた土着の豪族であった。弟猾と同様に神武側について勝利に貢献したために賞に与かり、磯城の県主として引き続き磯城の地を治めることを認められた。兄猾・弟猾の話、兄磯城・弟磯城の話のいずれもが兄ではなく弟が功績をあげて新しい役割を担うことになっているが、これは神武を含めてその後に続く天皇の後継が長子以外の子であることの正当性を主張していると言われている。

 書紀は続いて剣根を葛城国造に任命したと記しているが、剣根なる人物についてまったく触れることがない。また、葛城氏に関する記載の中にも葛城国造は登場しない。葛城氏、葛城国造とも同じ葛城の地を拠点にしていたはずなので、何らかの関係があったと思われるが残念ながらそれを検証する術がない。

 最後に八咫烏も賞をもらったとあるが、その内容については書かれていない。「八咫烏と日臣命」のところでも書いたが、「新撰姓氏録」の記録などから八咫烏は賀茂建角身命(鴨建角身命)であり、賀茂県主(鴨県主)の先祖である。したがってここで八咫烏の子孫であるとされる葛野主殿県主は賀茂県主(鴨県主)と考えられる。葛城に出自を持つ鴨氏はその後に山城国に移って賀茂氏を名乗った。八咫烏が授かった賞の内容を明示せずに葛野主殿県主が子孫であると触れるにとどめたのは神武即位時には勢力範囲に入っていなかった山城を拠点とする賀茂氏が山城国を治める正当性を暗にほのめかそうとしたのではないか。



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