中国は古来、戦乱の絶えない国である。黄河中流域の中原とよばれる地域に殷(あるいは夏)が国家として成立して以降、数千年のあいだに何度も何度も政権国家が交代した。また国家として統一されずに分裂状態が続くことも珍しくなく、中国の歴史は戦乱の歴史そのものであり、民衆はその戦乱に翻弄され続けた。
中国では秦の時代以降に戸籍が整備されたため、おおよその人口動態の把握が可能である。それによると前漢末期の西暦2年に約6000万人であった人口が「王莽の乱」を経て後漢が始まったばかりの37年には1500万人まで激減したことがわかっている。また、その120年後の157年に約5600万人まで回復したものの、「黄巾の乱」を経て三国時代に突入した263年には十分の一以下の530万人にまで減った。
これは戦乱による死亡だけでは説明ができないほどの人口減である。伝染病の蔓延や火山噴火などの大規模災害が起こった形跡や記録がないのでそれらの要因ではないとすれば、大量の人民が戦乱を逃れて四方の国外に逃亡したということしか考えられない。そして、逃亡者達が逃亡先で生きながらえて生活するためには少人数では不可能である。少人数の場合、逃亡先においてよそ者として追い出されたり、死に至らしめられたり、十分な食料が獲得できずに餓死したり、生きていくことがままならない状態に陥ることは明白である。生きていく為には集団生活を維持することが必要条件であった。したがって、家族単位などではなく集落あるいは部族単位で国外へ脱出したものと考えられる。
北の山岳地帯へ向かった一族、西の砂漠地帯へ逃げた一族、南に逃れた一族、東の沿岸部から脱出した一族、朝鮮半島を経由して海を渡った一族などが多数存在したことは容易に想像できる。現代においてもシリア内戦を逃れてヨーロッパを目指して地中海へ漕ぎ出すボートピープルが後を絶たない状況があるが、その10倍以上の規模の難民が国外へ流出し続けた。
朝鮮半島経由で日本海を渡った一族の多くは対馬や壱岐を含む九州北部の日本海沿岸の各地、対馬海流に乗って山陰地方や北陸地方の各地に漂着したと考えられる。そもそも北九州をはじめとする西日本の日本海沿岸地域は朝鮮半島と交流あるいは交易が行われていたことから、そのルートに乗っかってきた集団も多かったことだろう。
一方で大陸沿岸部から東シナ海に漕ぎ出した集団は、対馬海流に乗って日本海に流れていったり、南西諸島から九州中南部へ流れ着いたり、また黒潮に乗って日本列島の太平洋沿岸部へ漂着したり、西日本の各地に辿り着いたことだろう。中にはどこにも辿りつかずに海の藻屑となった集団が多数存在したことも容易に想像できる。
静岡県立大学学長の鬼頭宏氏による日本列島における人口推移データによると、縄文時代末期に8万人程度であった日本列島の人口は約1000年後の弥生時代には59万人と7倍以上に増加、さらに約500年後の725年には450万人にまで増加したことを示している。人口爆発とも言える人口増大の最大要因は大陸や朝鮮半島から大量の人の流入があったこと、および彼らが稲作や製鉄技術を始めとする様々な先進技術を持ち込んだことで生活の安定化が進み、その結果さらに人口が増加するという循環につながっていったということであろう。
もともと日本列島に居住していた縄文人と、戦乱を逃れて大陸や朝鮮半島を脱出して様々なルートで日本列島に辿りついた数えきれない集団が次第に融合して弥生人になっていった。縄文人から弥生人へ、縄文文化から弥生文化へ、この移り変わりは大陸や朝鮮半島などからやってきた大量の移民によって成し遂げられたことは既に多くの方々が論じられている通りである。
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中国では秦の時代以降に戸籍が整備されたため、おおよその人口動態の把握が可能である。それによると前漢末期の西暦2年に約6000万人であった人口が「王莽の乱」を経て後漢が始まったばかりの37年には1500万人まで激減したことがわかっている。また、その120年後の157年に約5600万人まで回復したものの、「黄巾の乱」を経て三国時代に突入した263年には十分の一以下の530万人にまで減った。
これは戦乱による死亡だけでは説明ができないほどの人口減である。伝染病の蔓延や火山噴火などの大規模災害が起こった形跡や記録がないのでそれらの要因ではないとすれば、大量の人民が戦乱を逃れて四方の国外に逃亡したということしか考えられない。そして、逃亡者達が逃亡先で生きながらえて生活するためには少人数では不可能である。少人数の場合、逃亡先においてよそ者として追い出されたり、死に至らしめられたり、十分な食料が獲得できずに餓死したり、生きていくことがままならない状態に陥ることは明白である。生きていく為には集団生活を維持することが必要条件であった。したがって、家族単位などではなく集落あるいは部族単位で国外へ脱出したものと考えられる。
北の山岳地帯へ向かった一族、西の砂漠地帯へ逃げた一族、南に逃れた一族、東の沿岸部から脱出した一族、朝鮮半島を経由して海を渡った一族などが多数存在したことは容易に想像できる。現代においてもシリア内戦を逃れてヨーロッパを目指して地中海へ漕ぎ出すボートピープルが後を絶たない状況があるが、その10倍以上の規模の難民が国外へ流出し続けた。
朝鮮半島経由で日本海を渡った一族の多くは対馬や壱岐を含む九州北部の日本海沿岸の各地、対馬海流に乗って山陰地方や北陸地方の各地に漂着したと考えられる。そもそも北九州をはじめとする西日本の日本海沿岸地域は朝鮮半島と交流あるいは交易が行われていたことから、そのルートに乗っかってきた集団も多かったことだろう。
一方で大陸沿岸部から東シナ海に漕ぎ出した集団は、対馬海流に乗って日本海に流れていったり、南西諸島から九州中南部へ流れ着いたり、また黒潮に乗って日本列島の太平洋沿岸部へ漂着したり、西日本の各地に辿り着いたことだろう。中にはどこにも辿りつかずに海の藻屑となった集団が多数存在したことも容易に想像できる。
静岡県立大学学長の鬼頭宏氏による日本列島における人口推移データによると、縄文時代末期に8万人程度であった日本列島の人口は約1000年後の弥生時代には59万人と7倍以上に増加、さらに約500年後の725年には450万人にまで増加したことを示している。人口爆発とも言える人口増大の最大要因は大陸や朝鮮半島から大量の人の流入があったこと、および彼らが稲作や製鉄技術を始めとする様々な先進技術を持ち込んだことで生活の安定化が進み、その結果さらに人口が増加するという循環につながっていったということであろう。
もともと日本列島に居住していた縄文人と、戦乱を逃れて大陸や朝鮮半島を脱出して様々なルートで日本列島に辿りついた数えきれない集団が次第に融合して弥生人になっていった。縄文人から弥生人へ、縄文文化から弥生文化へ、この移り変わりは大陸や朝鮮半島などからやってきた大量の移民によって成し遂げられたことは既に多くの方々が論じられている通りである。
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