(問)水子の霊についてお聞きしたいんですが、
水子というのは菩薩行の魂なので、幽界みたいな
ものと違い、簡単に祟るというものにはならない
という話を聞いたことがありますが。
実際に水子の霊がついている方というのは、俗に
耳にするんですが、そういうものというのは、何が
そういう形になって、何を守護の神霊たちが
この本人に伝えたいのか、お伺い致します。
(答)水子の霊というのは、前にも言いました
ように、菩薩行なんで、自分は生まれない中途で
生命を絶たれてしまうんだということを分かっ
てる訳なんです。
分かっていますから、絶たれちゃっても、
そちらのところの子どもに生まれて、親なり
家族たちを栄えさせてゆく。
また、こちらが悪かったなと思って子どもの霊を
祈っていれば、その光が届いて、向こうからも
光が来て、両方良くなってゆくという霊体
ですけどね。
ところが、白光でも水子供養ということで
みたま祭りの中でやりますけれど、人間という
のは、神界にも霊界にも幽界にも肉体界にも
同時に存在していると言ってるでしょう。
幽界というのは、いろんな人間が、不調和の
想い、良くない暗い想いというのか、想いが
凝り固まって訳の分からない取りつく化物とか、
そういうものを生み出している世界、それが
幽界なんですね。
大体水子の霊、霊障といわれているものは、
だいたいこの幽界の、人間世界の方に何か隙が
あったら取り憑いてやろうという想いなのです。
想いというのは何処から来るかといったら、
これは神様が造ったのでもない、悪魔が造った
のでもない。
人間の中のいろいろな不安だとか、苛立ちとか
恐怖だとか。
はっきり言えば、人間の中で何が一番恐怖か
といったら、肉体の生命が70年80年で終わっ
ちゃったら、自分たちは一体何処に行くんだろうと。
何処から来て何処に流れて行くんだろうと。
もしかして肉体だけで終わりだったら、こんな
不安に満ちたものはないというので、いろんなものが
起きている訳ですね。
この不安を解消するために宗教があるんですが、
尚且つ家が火事になったとか、親が死んでいっちゃっ
たとか、子どもを流産したとか、そういうことが
続いてくると、何か神様、仏様というけれども、
そんな想いになれなくて、決してそんな良い光ばかり
受けているのではなくて、光をのみつくすような
闇があるんではないかという、そんな想いが
段々ふくれていって、それが例えば、幽界の
いろいろな生物たちの力を借りて、水子なんていう
想念の化物を生み出してしまっているんです。
そこのところが大事なんで、守護の神霊がそれを
もって何をするかというと、守護の神霊は何も関係
ないんです。
そういう想念には全く関係ないんです。
もし関係がありとしたら、そういう不幸とみえる
出来事に対して、じゃあどんなふうに生きてゆくべき
かという、一つの魂の鍛えとしての躓きの石を
わざと送っているのはありますよね。
そういう意味で、いろいろな世界を見回してみて、
ああこの人にとってここが一番弱いんだな、で、
このところでちょっと不幸とみえるようなものを
置いとかないと、この人は強くなってゆかない。
守護の神霊がそんなことを考えるのは、この世
だけの何十年の世界だけを考えているのでは
なくて、何十生何百生何千生後の、その人の天命の
入り具合、神様の懐への入り具合を考えて、
躓きの石を置く訳なんですよね。
だから、この世の中で、不幸続きで不幸続きで
それで死んじゃったという人があって、それだけ
見れば、神様は非常に不公平だということになって、
やっぱり水子もある霊障もあるということになって
しまうことになるんですが、そういう一生を送る
ことで、その人が前生の借りを払い落として、次の
生命の世の中で、全く明るい生命になって生まれ
変わるということは、いくらでもある訳ですね。
そういう意味で言うと、生命というのは決して
障りというものはない訳で、生命というものは
どんなに闇にみえてもお先真暗にみえても、
家の中はひっくり返って、息子と嫁がうまく
ゆかないとかですね。
あるいは、いろいろな家族の中でくっついて
離れたとかね、子どもがいうことを聞かない
とかね、そんなことも皆悩みですよね。
別に水子だけでなくても、それだけで闇に
見えちゃう。
でもそれがその人の一生というか、何十生何千生
生き通しの生命を、障りなくずっと輝かすために、
何千年先のために今必要なんだと。
そういうところから見てゆかないと、生命
というものは途方もなく大きいもんですからね。
そういう意味で言えば、水子というものは
全く存在しないんです。
想念の障りだと思っている部分、人間が不幸
だと思って見れば見るほど不幸の固まりに見える。
そこのところを利用して存在させられているという
だけの話なんです。
ただ、守護の神霊がそういうものを置く場合には、
ただその想念を利用するんじゃなく、必ずその
抜け道というものがある。
私が前に天が空いているよと言ったけれど、必ず
絶対に援軍があるんですよね。
闇があるところには光があるから、想念という
ものは全部消えてなくなっちゃうものなんですから、
消えてゆく姿でもって見てゆけば、水子も何も粉砕
されちゃうんです。
だがその辺が、どこでどうという区切りが
非常につきにくいんです。
でも一切は全部光なんですから、全部が永遠の
生命に溶け込んでくる。
そのための過程なんですから。
それは全然心配することはない訳です。
悲しむこともない訳です。
水子というのは菩薩行の魂なので、幽界みたいな
ものと違い、簡単に祟るというものにはならない
という話を聞いたことがありますが。
実際に水子の霊がついている方というのは、俗に
耳にするんですが、そういうものというのは、何が
そういう形になって、何を守護の神霊たちが
この本人に伝えたいのか、お伺い致します。
(答)水子の霊というのは、前にも言いました
ように、菩薩行なんで、自分は生まれない中途で
生命を絶たれてしまうんだということを分かっ
てる訳なんです。
分かっていますから、絶たれちゃっても、
そちらのところの子どもに生まれて、親なり
家族たちを栄えさせてゆく。
また、こちらが悪かったなと思って子どもの霊を
祈っていれば、その光が届いて、向こうからも
光が来て、両方良くなってゆくという霊体
ですけどね。
ところが、白光でも水子供養ということで
みたま祭りの中でやりますけれど、人間という
のは、神界にも霊界にも幽界にも肉体界にも
同時に存在していると言ってるでしょう。
幽界というのは、いろんな人間が、不調和の
想い、良くない暗い想いというのか、想いが
凝り固まって訳の分からない取りつく化物とか、
そういうものを生み出している世界、それが
幽界なんですね。
大体水子の霊、霊障といわれているものは、
だいたいこの幽界の、人間世界の方に何か隙が
あったら取り憑いてやろうという想いなのです。
想いというのは何処から来るかといったら、
これは神様が造ったのでもない、悪魔が造った
のでもない。
人間の中のいろいろな不安だとか、苛立ちとか
恐怖だとか。
はっきり言えば、人間の中で何が一番恐怖か
といったら、肉体の生命が70年80年で終わっ
ちゃったら、自分たちは一体何処に行くんだろうと。
何処から来て何処に流れて行くんだろうと。
もしかして肉体だけで終わりだったら、こんな
不安に満ちたものはないというので、いろんなものが
起きている訳ですね。
この不安を解消するために宗教があるんですが、
尚且つ家が火事になったとか、親が死んでいっちゃっ
たとか、子どもを流産したとか、そういうことが
続いてくると、何か神様、仏様というけれども、
そんな想いになれなくて、決してそんな良い光ばかり
受けているのではなくて、光をのみつくすような
闇があるんではないかという、そんな想いが
段々ふくれていって、それが例えば、幽界の
いろいろな生物たちの力を借りて、水子なんていう
想念の化物を生み出してしまっているんです。
そこのところが大事なんで、守護の神霊がそれを
もって何をするかというと、守護の神霊は何も関係
ないんです。
そういう想念には全く関係ないんです。
もし関係がありとしたら、そういう不幸とみえる
出来事に対して、じゃあどんなふうに生きてゆくべき
かという、一つの魂の鍛えとしての躓きの石を
わざと送っているのはありますよね。
そういう意味で、いろいろな世界を見回してみて、
ああこの人にとってここが一番弱いんだな、で、
このところでちょっと不幸とみえるようなものを
置いとかないと、この人は強くなってゆかない。
守護の神霊がそんなことを考えるのは、この世
だけの何十年の世界だけを考えているのでは
なくて、何十生何百生何千生後の、その人の天命の
入り具合、神様の懐への入り具合を考えて、
躓きの石を置く訳なんですよね。
だから、この世の中で、不幸続きで不幸続きで
それで死んじゃったという人があって、それだけ
見れば、神様は非常に不公平だということになって、
やっぱり水子もある霊障もあるということになって
しまうことになるんですが、そういう一生を送る
ことで、その人が前生の借りを払い落として、次の
生命の世の中で、全く明るい生命になって生まれ
変わるということは、いくらでもある訳ですね。
そういう意味で言うと、生命というのは決して
障りというものはない訳で、生命というものは
どんなに闇にみえてもお先真暗にみえても、
家の中はひっくり返って、息子と嫁がうまく
ゆかないとかですね。
あるいは、いろいろな家族の中でくっついて
離れたとかね、子どもがいうことを聞かない
とかね、そんなことも皆悩みですよね。
別に水子だけでなくても、それだけで闇に
見えちゃう。
でもそれがその人の一生というか、何十生何千生
生き通しの生命を、障りなくずっと輝かすために、
何千年先のために今必要なんだと。
そういうところから見てゆかないと、生命
というものは途方もなく大きいもんですからね。
そういう意味で言えば、水子というものは
全く存在しないんです。
想念の障りだと思っている部分、人間が不幸
だと思って見れば見るほど不幸の固まりに見える。
そこのところを利用して存在させられているという
だけの話なんです。
ただ、守護の神霊がそういうものを置く場合には、
ただその想念を利用するんじゃなく、必ずその
抜け道というものがある。
私が前に天が空いているよと言ったけれど、必ず
絶対に援軍があるんですよね。
闇があるところには光があるから、想念という
ものは全部消えてなくなっちゃうものなんですから、
消えてゆく姿でもって見てゆけば、水子も何も粉砕
されちゃうんです。
だがその辺が、どこでどうという区切りが
非常につきにくいんです。
でも一切は全部光なんですから、全部が永遠の
生命に溶け込んでくる。
そのための過程なんですから。
それは全然心配することはない訳です。
悲しむこともない訳です。