人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

五井先生に遠慮しちゃいけません

2010-11-27 21:27:24 | スピリチュアル
人間の眼からみれば、実に不公平にみえることも、神様の心からみれば、

大きな大きな計画のなかの、御愛念から出ているということが沢山

あります。

だけど、人間の感情からすると、とっても納得出来ないなげきや、

かなしみが付随していることが多いのです。その歎きや、悲しみを、

みんな私があずかるために、ここにいるのです。

だから、五井先生に遠慮しちゃいけません。

生きるということ死ぬということ

2010-11-27 13:21:05 | スピリチュアル
生きるということ
 
死ぬということは
 
どういうことかということを
 
これから説明しようと
 
おもうんですが
 
先ず
 
いのちというものに
 
区切りがないと
 
いうこと
 
これをしっかり頭に入れておいて
 
欲しいとおもうんです
 

これはもう
 
ずっといってきたことですけれど
 
死というものが
 
我々のおわりなんだという
 
恐れがずっと
 
業想念になって
 
この地球世界に渦まいてしまった
 
ために
 
たとえば

世の無常ですとか
 
厭世観というものが
 
我々の想念の底に
 
ずっと沈んで
 
支配してきたわけです
 
それで
 
死ねばおわりなんだ
 
あとは闇なんだ
 
となった
 

死というもののこわさは
 
何かというと
 
自分という存在が
 
すっかり消えてしまう
 
ということに対する
 
恐さなのです
 

 
こんなに
 
一生懸命やっているのに
 
それが
 
あとかたもなく消えてしまう
 
そういった
 
無常感ですよね
 

ところが
 
生命というものは
 
そんなちゃちなもんじゃない
 
そう簡単に消えてゆかない
 
生命というものが
 
永生であるということと
 
人は
 
自分というものを
 
失わずに
 
生きてゆく
 
というのが
 
原則なんです
 
死というのは
 
となりに引っ越すのとかわらないん
 
です
 

それじゃあ
 
田中一郎は
 
むこうに行っても
 
ずっと
 
田中一郎で
 
生きていくのか
 
というと
 
そうじゃないんです
 
田中一郎というのは
 
この世で
 
その人を
 
呼びならわした
 
いわば
 
記号なんです
 

けれど
 
その人が
 
この世で
 
田中一郎として
 
田中一郎らしく生きた
 
その生き方、個性というものは
 
ずっとその人のなかに
 
入ってゆくんです
 
そうして進化してゆく
 
すきとおってゆく
 
それで
 
その人が
 
百生生きたとすると
 
百色その人らしさが
 
入るわけです
 
そして
 
それを全部
 
むこうで生かしながら
 
祈りのなかにかえしてゆくんです
 

 
つねに新しくされてゆくんです
 
生命というものは
 
こういうものです
 

我々は
 
つねに死んで
 
そして
 
死んだと同時に
 
よみがえりを果たしている
 
というのが本当のすがたなのです
 

無常というのは
 
常なし
 
ということでありますが
 
それは
 
ほろびにむかうものではなく
 
いのち
 
というものが
 
神の愛によって
 
つねに新しくされ
 
よみがえらされていることを
 
指すのであります
 
ですから
 
無常は
 
永生にむかって歩いている
 
人間の真のすがたを
 
しめしているので
 
あります
 

いのちというものが
 
いかに
 
生き生きと
 
働くものであるか
 
そして
 
その生命の働きを
 
たすけささえているものが
 
神の愛であり
 
また
 
守護の神霊の愛である
 
ということを
 
私は
 
はっきりと
 
知っているのであります
 

つまり

祈りの光によって
 
我々は
 
この生命のすがたを
 
しらされてゆくのであります
 
世界人類が平和でありますように
 
と祈ってゆくときに
 
我々は無限の感謝の光とともに
 
無限の愛にとらえられている自分自身を
 
しるのであります
 

そのとき
 
我々は
 
この世の区切りである
 
生死を越えて
 
存在している自分自身を
 
そして
 
神を
 
みることに
 
なるのであります
         

短 信

2010-11-27 12:21:00 | スピリチュアル
 お手紙拝見致しました。いつの世でも重たいのは家族であるようです。

 あなたは、嘘がつけないとおっしゃっておられますが、この場合、

自分に正直になればなる程、あなた自身も、家族も追い込むかたちに

なりはしないかとおもわれます。

 嘘をついてはいけないというのはそのとおりですが、昔から嘘も方便

という言葉があるように、優しさを発揮させるための嘘、調和させる

ための嘘というのは許されるものです。それは嘘にはなりません。真理に

近づくための一つの手段なのですから。

 何でもかんでも本当のことをいって、自分を傷つけ、人を傷つける

というのは、宗教以前に、人間としてあまり感心できることでは

ありません。

 どうぞもっとおおらかになって世界平和の祈りを唱えて

下さいますように。

                合 掌

                  昌 久