人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

天命を祈る

2010-11-20 14:51:49 | スピリチュアル
 一体、人間が偉いとか、偉くないとかいうおもいは、どこから

出てくるのでありましょうか。


 神様の前に、人間は一切平等であり、みんなが神様の分生命なのだ

ということが、頭ではわかっておりましても、今一つ心では、からだでは

なっとくしていないというのが、人間の想念の世界であり、何千年と

つづいてきた我々の思いグセなのであります。


 現世的にみれば、偉いとか、偉くないというのは、ある高い位置に

あるかどうかということですとか、その人のまわりに人が沢山あつまって

くるかどうかということなど、何かその人のまわりが、にぎやかで、

はなやかで、つねに社会的に注目の的であるということが、一つの目安

となっているようであります。

 それでいながら、やっかみ半分、ひがみ半分でその人のことを

語ります時には、そうした地位や、社会的なはなやかさなどを、無理に

はぎとりまして、その人自身の中身が、いかに世間の評価とはちがった

ものかという点から、みようとするわけであります。


 私などが、いい人、悪い人。また偉い人というような言葉をつかい

ます時には、その人の心の澄み清まった状態をみていうのであります。


 心を純にする。素直にして生きるということほどむずかしいことは

ありませんが、むずかしいと感じますのが、自分が素直になろう純に

なろうとするから、むずかしいのでありまして、そのまま神様に

投げ出して、預けてしまえば、自分がなるもならないもない

のであります。


 私が偉いといいますのは、こういうお任せのこころ、お任せの

いのちになっている人に出会った時であります。

 このお任せを一分でも一時間でもつづければ、その人はその間、覚者

ということができるのであります。また、そうなるように、私は光を

おくって祈っているのであります。


 ところで、その人の中味そのままをみようとするという姿勢は、

間違ってはおりません。ただ、そこに光をおくるか、ねたみやそねみ

などの業想念を送り込むかというちがいなのであります。


 人は、誰でも、神様のみこころをあらわすべく、この世に存在している

ものでありますので、心をむなしくして、己れをみ、相手をみる時に、

おのずから光が入ってゆく筈なのであります。

 それが、そうなってゆきませんのは、自分と相手という意識のなかで、

しっかりと相手をつくっているからであります。


 神様からいえば、相手などというものは一切ありません。あるのは

ただ、愛と光ばかり天命ばかりなのであります。

 それぞれの立場、それぞれのおもい、何が苦しく、何が辛いかを神様は

よく御存知であります。


 そうして、私どもを動かしている真実は、本心の座にすすませるための

神の愛なのであります。

 どうぞ、一人びとりの天命を神に求め、神に祈りながら、世界平和の

祈りを通じて、祈りを深めていただきたいものであります。

印について

2010-11-20 14:22:56 | スピリチュアル
 (問)講師、(常任幹事)、フェローにそれぞれお浄めの印が授与

されており、皆さんから求められれば、積極的にお浄めしてお上げなさい

と言われております。お浄めの印をいただいたものは、神を信じ

愛一筋に、その人にかわって祈らせていただく限りにおいて、入信10年の

人も20年30年の古い先生方であっても、そのお浄めの効果には軽重なし

というつもりでお浄めさせていただいてよろしいですか。私如きがという

気持ちはやめて。


 (答)それでいいんです。印というのは何かというと、天から流れて

くる神様の愛の気というものをですね、ある人にはいやしの形で、

ある人には法則の形、又ある人には違う形でその時々に応じて流すもの

なんです。それが印なんです。


 今、白光が色々分けてる、フェロー印、講師(常任幹事)の印、

宇宙子科学の印と。

 何で分けているかというと、人間というのは本来一つの神様から

流れてきている生命でして、今あなたが言ったように。

 本当に真心こめて、神様お願い致しますと言う時には、皆軽重は

ないんですよ。守護霊さん守護神さんが後で働いてね、こう上に

いくんです。それは間違いないんです。


 ただ、印というのは無心に使えば使う程いいんですが、無心に

使おうと思うと、例えば、印というのはね、私が統一会でこうやってる、

昌美がやってる、あるいは村田さんがやってるのを見ていると、何か

特別なものに皆思うんですよ。で、自分があんなに使えるかしらと思う

から、例えば、フェローの印などもらっても、あれは基本形であって、

フェローの変形なんかあるんですよ本当はね。だけどもらっても、

自分はその印の形を組むだけで精一杯だと思うから動かないだけ

でしてね、あれはこちらから観ていると、肉体的には動かしてない

けれども、霊体はずっと全部動いちゃって、すごく複雑な印を皆

切るんですよ。みんな動かしていない様に見えるけれど、皆それぞれ

個性個性に応じて、フェローならフェローの800人居たら、800種類の

印がその人の個性に応じて切れるんです。

 それは何故切れるかというと、守護霊守護神が付いていて、その人の

世界に合った、世界に合ったというのは世界が皆違うというのでは

なくて、その人の霊界というのかな、その人が帰る魂のふるさと、

そこに応じて、この人だったらこの天地の住人だから、こういう印が

この人には一番伝えやすいな流しやすいなと思うと、上からその気が

降りていって、それで全部が印を切り出すんですよ。


 で、如来印を組んで私を呼んで下さっている時でも、如来印から

ずっと如来印の変形が出来てですね、100人居たら100種類の印で皆五井

先生を呼んで神様を呼んで、一つに流れていっているんですよ本当はね。

 だから、印を組むも組まないもなくて、これが印ですよと、はいっと

いって与えられたら、肉体は動かなくても、霊体神体はそれで自由自在に

切っているんです。そう考えて下すっていいんです。


 ただそれがね、今みんな動かしてもらっておりますけれど、あれなんて

いうのもね、今本部で、ここでやっているようなことをやればね、

ものすごくパニックになりますよ。

 何故かというと、生前五井先生や昌美とかね、その人達だけしか切れ

ないようなものが何で切れるかということになって、それだけで真偽

どうしようかということになって、くだらない話になるんです。

 結局、先程○○さんが言った、とっても自分にはまだまだ切れない

という想いね、それが一つ邪魔をしているということとね。霊体は自由

自在に切っているのに肉体の想いというものは、自分はまだまだとか、

あの人は偉いとか、とてもあの人には及ばないとか、そういう余計な

想いがあるもんだから、肉体と霊体が一致しないんですよ。霊体は自由

自在に動いているのに、肉体は中々それについてゆかない。

 だから、肉体と霊体は、自分が本当に使わせていただく時というのは、

例えば○○○○ではなく、つまり神様の愛が流れ込んで、神様の一つの

器になって、神づまりにつまって、自分が言うんじゃなくて、後で守護の

神霊が言って下さっているんだ、五井先生が言って下さっているんだ、

神様が私に言わせて下さってるんだという想いになればですね、○○○○

という肉体的な個性とか肉体の生命とかいうものは越えてしまって、

素直に天から言葉が流れてくるんです。


 言葉というのは神様の光ですからね。本当に言葉の中に生命があって

光があるということに気がついていれば、みんな喧嘩なんかしなく

なるんですよね。だけれども、言葉というものは容易に口から出そうと

思えば出てゆきますから、それほど皆考えずに出していって争いになって

ゆく訳です。


 とに角、そういう印を組んで、はいやって下さいという時には、

積極的にやっていいんです。その積極的にやる時には、私がやるんじゃ

ないんだという想いでやれば、どんな人でもやっていけるんですよね。

 講師あるいは宇宙子科学が一本指だとか何だとか、そういうことに

決して把われることはない訳で、皆一緒なんです本当に。ただその人の

住む世界、その人の魂を支えている世界によって、霊人の種類が違い

ます。それから、霊人の応援の種類が違います。ですから、ある人に

弁財天がついてある人に寿老人がついているというのと一緒でしてね。

 守護霊さんの格が上とか下とかいうのではなくて、その人の

この世の中での働き、向こうへ行っての働きの違いを現わす意味で、皆

それぞれに分かれているという区分だけの意味ですよね。


 ですけど、違う働きが全部一つになって、神様は愛である、神様と

いうのは無限の愛のゆるしの方で、我々から見たらあの人に何か役割が

あるんだろうかと思われるような人でも、こちらからは分からない

けれども、神様の方から見れば、大いに用いてゆこうと思っていらっ

しゃる訳で、人間が肉体の目から見て、あの人は役立たずだなあと

思っても、神様の側から見たら、こんなに素晴らしい器はないという人が

ある訳なんですよね。

 決して印なんか切らなくても、宗教なんか入らなくっても、目が

きれいな人でも口のきけない人でも、何でもいいんです。何でも

いいんですと言ったらいけないけれども、とに角、その人の想いが

気持ちが心が光輝いているかいないか、そこなんですよ。


 だから、印というのもいかに素直になるかということ。ただそれだけ

なんです。印を切らせていただく時には、その辛い悲しみそういう

想いを捨ててね、どうにも神様と呼んでるだけでは駄目です。だから

何とか柏手を打ってお浄めをして下さいという時には、私が中に

入ってますから、その人の天命が完うされますようにと祈って、そこで

柏手を打ってお浄めをしてゆけば、その人自身も空っぽになる、打った

人自身も浄められるという、両方いいんです。ですから、軽重なし

誰かれなしと考えて下さればいいんです。たださっきも言ったように

区別はあります。

 しかし、区別というのは、大きな働きを、大調和という一つの大きな

目的の中に、その流れの中に入れ込む為の仮の区別ですから、あくまで

仮の区別ですから、全く誰がどうの誰がどう偉いとか、フェローは

良くって幹事はどうのこうのということはありません。全くありません。

 ただ人間というのは、やっぱり一つづつ段階を踏んで、あなた七年

来ましたよ、この印を上げますよと言っていかないと、誰も彼も平等

ということになれば面白くないし、人間の癖というか想い癖というか

習慣というか、そういうものを神様はよくご存じですからね。


 そういう人間の人間らしい良いところも悪いところもひっくるめて、

それをとったら、とに角人間は一所懸命にならないということをよく

御存じですから、七年経ったらフェローの印をもらえるんだとかね、

くだらないことですけど、何かそういう目標というものを持たないと。

 実は休んでる時にも休んでいない時にも、印なんて切り切りに切って

いるんですよね。切りっ放しなんだけど、そんなこと肉体人間は判りま

せんからね。で、息をするのと同じように印を切ってる、印を切ってる

ということは神様に想いが流れていると。

 想いが流れているというよりも、神様の方から人間に対する想いが

来て、そして、本心の奥の奥の方から神様ありがとうございますという

流れが想いが、神様の方に流れ込んでいって、それで生命というものは

成り立っている訳ですからね。


 だから、自分は意識するしないに関わらず、神仏の光と人間は交流を

して生きているものです。感謝しながら成り立っているもんですから、

その生命の成り立ちが判ってくると、自然に祈り心が湧いてくるし、

祈りが出てくるし、あるいは印が組めるようになる。そうなって

ゆくんです。本当に何事にも無駄ということはないんです。


 例えば、フェロー印の七年目というのは、七というのは完全数

でしょう。一・三・五・七というのは全部完全数なんですよ。七と

いうのは全部の一つのまとめなんです。東洋も西洋も完全数は七

なんですよね。元をたぐってゆけばね。七は一つの目標ではある

けれども、それぞれの霊体幽体神体というものに対しても、完全数に

近づいた所で、一つの神界からのサインというんですか、気の流れと

いうものを受けとめる、あなた器になりましたよという許可が出た

ことで、その人の霊位というのか、そういうものを喜んで、私は一所懸命

やりましょうと、本当に輝いて一段二段と昇るんです。


 そういうことで、神様には無駄がないんですよ。全くこんなのは

くだらない事じゃないかと思ってることでも、それは人間の想念の方で

くだらないと思うだけでして、向こう側からすれば、全く人間という

ものを深く深く考えて捉えて、人間がいかにしたら深く愛し合えるように

なるか、赦し合えるようになるか、認め合えるようになるか、調和できる

ようになるかという、そこだけを考えてやっている。それがすべての

現われなんです。

 ですから、不満や不平、不安や怒り、そういうものも一体どこから

来ているものかということを、一回考えてみて、とに角祈ってゆくという

ことが大事だと思います。