祈りの生活のなかでどういうことに気をつければよいかという、
御手紙の御趣旨かとおもいます。
祈りというものは、私達を自由にするものであります。本来、肉体
ではなく、光そのものである人間の自由自在身であることをしらせて
くれるもの、それが祈りであります。つまりは、すべてのとらわれから
離れ、また放たれるのであります。
祈っている私達は、実は祈らせていただいているのであります。
神様が、守護霊守護神が、私達が眠っている間にも、一瞬もやすむ
ことなく守りつづけて下さっているように、私どもの本心本体は、
ずっとずっと祈っている。祈らずにはいられない。祈りを生命として
いるもの、それが、人間であります。私ども一人一人なのであります。
ところで、先程申しましたように、祈りは、私どもを自在身にいたら
せるすこやかな光そのものでありますので、祈って参りますうちに、
祈っていることをも意識しない、朗らかな自分自身に出合うことになる
のであります。
朝の九時と午後の三時、それに夜の九時がお祈りの時間だからと申し
ましても、日常のなかで、どうしても出かけなければならないとか、人が
たずねてきて、統一のテープがかけられなかったとか、さまざまなことが
起きるのが当然でありまして、そうした時に、祈りの時間が守れなかった
と思ってイライラしたり、クヨクヨしたりするのは間違いなのであります。
実際、あなたが祈れない時には、守護霊守護神が祈っているので
ありますし、守護霊守護神が辛い時には、これまで申して参りました
ように、私が祈っているのであります。
現実生活というものを、馬鹿にしてはなりません。大切なその場に
その人がいなければみんなが困るという場を放たらかしにして、
統一会にかけつけるなどは、本末転倒であります。
こういうかたよった、人の立場、また自分の立場をかえりみない
やり方で、祈りに没入し、宗教に没入することは、断じて間違っている
のであります。人を犠牲にした上での祈りは、光を放つ筈がありません。
祈りは、神のみこころであります。人間を愛し、人類の進化と、宇宙の
大調和とを実現させるという深い神のみこころが、世界平和の祈りの
なかにはこめられております。否、このみこころそのものなのであります。
どうぞ、寛やかな、ゆたかな心で、祈りをなさって下さいますように、
神の愛、神のこころは、森羅万象のなかにみちみちているのであります。
素直に、のびやかに広く広く、いのちを生きて下さいますように。
合掌
昌久