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想いと言葉

2010-11-03 14:36:39 | スピリチュアル
 想いということ、それから言葉ということ、これは人間である限り、

想いも言葉も、人間からは死ぬまで離れていかない。

 あるいは死んでも離れていかないものなんでありますが、

この言葉というものも、想いというものも、どちらも自由自在に

自分の中でこなしてゆく、あるいはこなれてゆくというのは、非常に

これは難しい。実に想いも言葉もやっかいなものであります。


 私はよく想念とか想いとか、想いのスイッチを切り換えるとか

申しますけれども、この場合の想いというのは、実はあまり良い

想いではない。どっちかというと、この人間商売をやっていて、

もう止めたいなと想う様なことが連続してきてどうにもならなく

なって、にっちもさっちもいかなくなって、暗い想いが出てきた時に、

想いなんてあるから、こんな気持ちがあるから人間止めたくなるんだ

とか、そっちの方へ行く想いであります。

 あるいはそれに付属してですね、言葉というものも明るくは

なっていかない。ところが、じゃあ想わなきゃいい、言葉を出さなきゃ

いいということになって、それを望んでも、人間というものは想いから

あるいは言葉から切り離されてはゆかないのであります。

 仮りに想うことを禁じてあるいは言葉を出すことを禁じて、

一日でも暮せと言われたらですね、これは、人間というのは

非常に生きにくい。もう息がしにくくなってしまう。そういう

存在である訳です。


 そして、それは何かというと、想いとか言葉とかいうものは

本来は神様の方から出てくるエネルギーだということなんであります。

 この神様の方からくるエネルギーだということをわきまえて

おりませんと、非常に想い違いをしてしまう。想いを軽くするとか

想いが沈んでいく重くなるというのは、これは自分の中にある人間の我、

ここで想いという言葉を使ってしまうとその想いという言葉で皆

雁字搦(がんじがら)めになって何が何だかわからなくなってしまい

ますから、ここでは我という言葉を使いますが、その我の方へ

引っぱられた想いに皆今なっている訳であります。

 ところが、もともとの想いというのはどういう想いであったか

というと、人間生まれた時のその瞬間というのは、むこうからこちらへ

出て来た時の瞬間の想いというのは真白なんです。

 その真白の想いというのは神様のふところから入って出て来たその

想いでありますから、本当にこれは無垢の、純粋無垢の想いで、このまま

大きくなってゆけば、その人から出てくる想いも言葉もこれは

光そのものの想いで、あるいは、何をやっても光明化されていく想いに

なっていく訳でありますけれども、人間の生活の中に我というものが

ありますから、肉体というものを纏ってしまったその想い癖というものが

ありまして、その我の生活の中から出てくる言葉なり想いなり

というものが年々不自由さを、実は纏わせていくものなんであります。


 ところが、昔から言霊とか申しますように、本当は言葉というものも

想いというものも、両方ともこれは自分が出すもんではない。むこうの

世界、守護霊さんなり守護神さんなり、あるいは神様なり、我々を

生かしめているエネルギーの元という風(ふう)に考えても

いいのであります。

 そこのところがですね、今逆転してしまっているんです。

 あいつはこんなこと言いやがったとか、こんなこと言われたら

俺だまっちゃいられねえーとかですね。そんなことを考えるから、

そこでその憎たらしいとか悔しいとかいう想いが飛んでいって、

又争(あらそ)いが大きくなる。憎いという想いが飛んでいきゃ憎いに

なります。愛(いと)しいという想いが飛んでくりゃ、やっぱりこっちも

愛(いと)しいとなるんです。

 それがつくづく分かるのは死んでからなんですね。死んで、自由な

体になっちまったら、むこうへ行けばですね、想いというのは、

そのまんま実現する訳ですから。

 ですから何にも無いんです。全く想いのまんまの世界が自分の

目の前に出てくる。こんなたまらない世界はない訳ですね。
 

 だから、今何でそれが実現されないかというと、人間が肉体の世界の

この不自由な世界の中で、色んな物を物質化して、そして、肉体の波に

合うように、固い鉱物だとか何だとか色んなものがまわりにあって、

なかなか、その想いというか想念そのままの世界を実現するには、

ちょっと時間がかかる様に出来ている。ところが、むこうはひびき

そのままなんですね。

 人間の想いの奥底にあるもう一つ奥の想い、そこへ合わせたひびきが

出てくるから、そのひびきがどういう流れのものであるかということに

よって、その想いが浄められもすれば言葉もやわらかくなるという

ことになっていく訳です。


 実に、この世の中で、想いほど言葉ほど、自由で不自由なものはない。

 こんなものがあるから生きにくいと想っても、これを離れるという

ことが出来ないということになれば、じゃあこれをどうすればいいか。


 想いを浄めていかなければならない。あるいは、言葉を高めて

いかなきゃなんない。それは何によって浄められるかと

いうと、やっぱりこれは、祈り言、祈り言葉、祈って浄めて

ゆける。あるいは、祈り心によって浄めてゆける訳であります。

 ということはどういうことかと申しますと、神様から来た想い、神様

から来た言葉であるということを、もう一度見つめ直して考え直して、

それを神様の元へ一回かえす。かえして生命をいただき直す。


 私共は、頭の先から爪先まで見ましてもね、何一つ自分で造った

ものはないんですね。生まれて来た時も、我々が製造して持って来た

手だとか指だとか、そんなものはあり得ないんですね。

 全部借りてきた生命なんです。貰ってきた生命なんですね。どっから

貰ってきたか、神様から貰ってきた。でも神様から貰ってきたけれども、

その神様が下すった生命を支えている光の流れというものは、神様と

等しいものな訳ですね。

 そして、神様の本質、本体、本心というものは、ただただ深い愛念な

わけですね。ですから、この深い愛念と等しくなってしまうと、

想いとか言葉とかいうものが、だんだんだんだん色々な余分なものが

とれていって、角がとれていって丸くなって、そして柔らかくなって、

そうして、ただ溢れるばかりの愛念、光、祈り、そういうものに一致

していって、ついに調和の世界の方へもっていける様になる訳ですね。


 しかし、長年長年長年、この地球世界というものは、業で汚れ切って

汚れ切って汚れ切っておりますから、ですから、その汚れ切った世界の

中でいくら人間が頑張って愛念を出しても、祈っても、ちょっとや

そっとのことでは清くなっていかない。

 何しろ、汚れの方の歴史が長いんですから。むこうの方が

古いんですから。ですから、それを浄めるというのは、本当に

並み大抵のことじゃない。並み大抵のことじゃないけれども、

今それをやらなかったら、この地球世界はともかく、もっともっと

広い宇宙そのものの調和も本当には完成していかないんだという

この視点に立ちますと、やっぱり我々は、汚れ切って汚れ切っている

この中でも、祈って愛して、そうして言葉も想いも神様から来たもの

であるということを大事にしながら、やっぱり出来るだけ愛念の言葉を

想いを出していかないといけない。


 出しても出しても何にもならないという想いも又、これ消えてゆく姿で、

消してもらって、そうして、段々段々、徐々に徐々にでもいいから、

この地球世界のひびきというか流れというかね、そういうものを光明化

していく。


 その為には何が一番いいか。それは世界人類が平和でありますように

というこの祈りなんですね。これを想わない人はないんです。自分だけが

平和でありますようにといったって、これは自分だって世界人類の一人

なんだからね。

 ですから、それを想わない人は一人もいないわけです。

 例えば、こういう祈りを知らない人でも、世界の平和が保てなかっ

たら、自分はもう核爆発で死んじゃうだろうと。

 そういう何か一触即発の危ない世界の状勢なんだということは、皆、

今子供から大人まで分かってる訳ですから。

 そういう危ない世界の中に私達はいる訳です。生きてる訳ですね。


 で、これをどうすればいいかということで、今、米国もソ連も

ヨーロッパも皆苦労してる。レーガンとゴルバチョフだって今必死に

握手しようとしている。あれはもちろん、それぞれの国益もまだまだ

持ってるし、まだまだ真の世界平和のところまで想念そのものはいっては

いないけれども、しかし、まず現実世界の中で握手をして、そうして、

世界平和の為に戦争の手段のものをどんどん減らしていくという現実

そういう政府間の協議がなければ、まず障害というものは取り除かれては

いかない訳ですね。


 それで、それを支えるものは何かというと祈りなんです。


 祈りというのは非常に消極的にみえて、実は一番威力がある。

 何故かというと、目に見えない世界の守護霊さんとか守護神さんとか

あるいは霊団とかいうものが働いて、この世界平和を祈る時には、

一人について何十人何百人の人が、もう雲霞のごとき人達が一緒に

なって、霊人が一緒になって祈るんですね。天上も天下も一緒になって

祈る。天地貫いて祈る。だから、この祈りというものの威力という

ものは、それこそミサイルの弾(たま)の方向も変えさせる。

 変えさせるのみならず、途中で止まらせちゃう、世界平和という

ものは、完全平和というものは、絶対できると私はいつも言いますのは、

それこそ想いを浄めて祈りに高めていって、そして祈りが本当に愛一念に

なった時には光になります。

 光になった時には、闇は光に勝ちませんから、そこで、どんな武器で

あろうと人を損う想いであろうと何んであろうと、そういうものを全部、

もう闇のものを全部光に変えちゃう訳です。

 ですから、そこで武器というものは無くなってしまう。あっても無用の

ものになってしまう。

 そういう現実が来るんです。その現実を来たらせる為の世界平和の祈り

なんです。


 そうして、もっと言えば、一人一人が本心を開発していって、

一人一人が神様の器なんだということを本当に自覚できた時には、

皆の心が平和になってくる訳です。平和になるということはさっきも

言いました様に、祈りが消極的なものではないというのと同じように

平和であるということは何であるかというと、どうなるかというと、

自分の中のさながらの生命が生き生きと生きづいて、根本の自信が

出て来まして、そして、意欲に満ちて働いていきます。そして、自分の

後に守護霊さん守護神さんというものが守っている、神様というものが

いる、あるいは五井先生というものがいて、そうして、世界平和が

実現する、ということが本当に自覚されて来ますと、自分が動いてるん

じゃない。生かされてる喜び、生かされてる充実感というものに満ちて

動いていきますから、今までの何十倍もの力が出て来る訳です。


 そうやって一人一人が持場持場で動いていって付き合ってく。色んな

人と付き合ってく。話をしていく。仕事をしていく。

 ということになると、もうそれが一部の宗教家だとか

政治家だとかいう方面の人達だけのものではなしに、皆の心が開発されて

いって、そこで平和というものが段々段々広がっていって、世界平和と

いうものがついに完成していく訳です。それが私には見えている訳です。


 幽界なんぞというものは今でもあります。そうして、人間の

そういう本質、本心、本体というものの光を遮ろうとして、色々な

障害をもってまいりますけれども、しかし、何をもってこられても、

先程申しました様に、我々の心、気持ちというものが揺らいでも、

本心本体というものは揺らがないのでありますから、寧ろ我々の

本心本体というものは完全平和を目指して生きる器でありますので、

光というものを受けている時というのは、そういうものを受けつけ

ません。そうして、そういう想いを包んで愛念にかえて、そういう想いを

持たされた人達を本当の意味で呼び醒まして、仲間にして、今度は一緒に

共々に世界平和を祈る仲間にしてですね、何十人もの何百人もの仲間を

増やしていく訳です。


 今、世界平和を祈る運動というものに白光真宏会がつき進んでおります

けれども、これは、世界人類、どんな国の人も、民族の人も、世界が平和

であるようにという共通の想い、それを祈り言葉にすることによって、

その言葉を想い浮かべることによって、自分の本心が神様の愛と合致

して、そして、光となって一体化していく。その本心開発の運動を今

私共の会が先達となってやっていってる訳であります。


 こういう地球規模の運動をしてまいりませんと、とてもではない

けれども、この地球の想念の汚れというものは、一朝一夕(いっちょう

いっせき)に拭いされるものではないのであります。


 我々の生命というものは、いつも申しております様に、生き通しの生命

であって、それはずーっと天命にまで流れ込んでおりまして、ただ、

魂の覚醒というものがどこで世界平和の祈りに会うかということ、

これが大事ないわゆる時間というものであります。


 法然も親鸞も時期相応ということを考えておりまして、

その時期相応の祈り言である南無阿弥陀仏に出会うまでに、彼等は

随分学問も致しました、悩みました。

 あるいは、宗祖の釈迦でさえも苦行を六年致しました。その苦しみ

というものは無駄ではありませんでした。苦しみを通して、ただ一部の

人だけが救われるもの、魂が救われて自分が救われていくものであれば、

これは小乗なのであります。大乗の祈りではない。人類の祈りではない

のであります。人類の宗教ではないのであります。愛ではない

のであります。
 

 人類の、我々共通の、なる程と想えるものというものは、誰もが納得

できるものでなくてはならない。しかも、易しいものでなくては

ならない。そして、誰もが出来るものでなくてはならない。そして、

任せられるものでなくてはならない。この三つ四つの条件が、全部

今の状勢の中で出来るといったら、これは、世界人類が平和であります

ようにというこの祈り言をすすめていく、目にふれさせていく、

それしかないのであります。


 祈りというものは、強制できるものではございません。それは、その

国の人々の民族性や信条や、あるいは宗教や習慣や風土、その違いが

ございますので、これは何も強制できるものではない。ただ我々は、

その人々の中に眠っている、あるいは気付いてはいても弱い気付き方

である、世界人類が平和でありますようにという、元々の根元の祈りの

芽を、あるいはピースポールによって、あるいはステッカーによって、

あるいは白光誌を手渡すことによって、それを呼び醒(さ)ます。

 その役割りをするのであります。ですから、その手渡すということは、

すでに私がそこで働いて、その人を通して一番いい、その人が生き易い

やり易い方法で、この祈り言がその人の生命の中に生活の中に生き方の

中に入っていく様に、守護霊守護神さんと倶(とも)に私が働いていくと

いうことでありまして、その点で皆さんは、本当の意味において

繋(つな)ぎの役を、後は五井先生がしてくれるから大丈夫だという

その位の軽い気持ちで、しかし、本心開発の為にこの祈り言が絶対に

人類の為に必要なんだという、そういう自信と覚悟をもってこの運動を

広めていっていただきたい。


 そうすることによって実は、想いとか言葉とかいうものが、

その想念の汚れというものが浄められていくのであります。

 想いとか言葉とかいうものがどうしようもないやり切れない暗い

ものだという歴史が、そこで段々段々縮められていくのであります。

 実は、言葉の光明化、想いの光明化ということをやっていかなければ、

我々本心本体の一体化というのは出来ないのでありまして、この身

さながらに神様の生命である、神様から流れ来たっている真理、愛と

一体なんであるという、その遠大な目的というものを達成する為には、

やはり、この世界人類が平和でありますように、日本が平和であります

ように、私達の天命が完うされますように、守護霊様守護神様

ありがとうございます。というこの完全な愛と平和のお祈りを唱える

ことによって、我も他人(ひと)も一体になる。そうして、神様の生命と

すこやかに一つになる。ということを信じていくことによって、我々

個人の想いも苦しみも、又救いとられていく訳であります。


 もう私共の生きているこの時代は、私が良ければ、私達さえ良ければ

いいという時代ではない。たとえ白光真宏会に入っていない人達の中

でも、この本心開発がなされていかなければ、この地球の浄化あるいは

大きく言えば宇宙全体の調和というものは在り得ないんだと。だから、

白光に入れる入れないではなくて、その本心開発の芽を我々がどれ程

無になって、それぞれの持場持場、立場立場でやっていけるか、

その為に自分をむなしくして祈る。祈って、そうして今かかえている

課題や悩みや嘆き、そういうものを全部私に預けて下さる。

 そういうことが今一番必要なのだと思います。
       
                     五井昌久