人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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統一ということ

2010-11-01 11:25:33 | スピリチュアル
 統一会や祈りの会とか、支部でも集会でも、今ではWPPMも

ありますしね。世界中に世界平和の祈りが広がっていって、だんだん

大がかりになっていってる。


 統一ということも、なかなか難しい。本質を言えば非常に

難しいんですね。けれども又、あんまり難しく考えすぎてもね、統一

というものの姿が見えなくなっていくということはありますね。


 統一ということは何かというと、言葉は何でもいいんですが、神様に

寄りそって神様を呼んで、そうして、神様の愛と一体になっていく

ということですね。

 言葉で言うと非常に難しいんだけれども。さっき申しましたように、

私の柏手とか口笛とか印だとかいうもので、流れというものを引き出す

といいますかしらね。皆様が、私に唱和して、世界人類が平和で

ありますようにと祈って下さる。その瞬間から、皆様の中の神の子

としての、光の子供としての、そういう光の流れというものが出て

まいりましてね。そして、私の柏手のひびきと一体となって、あるいは、

五井先生の祈りそのものと一体になって、神様の方へずっと昇ってゆく。


 その流れというものは、普段日常の中でゴタゴタ動いている時には、

なかなかねえ、そこへ波動はいかないんです。霊妙な細かな波動という

ものはずっとあるんです。あるんですよ。だけどもそれに気がつかない

ようになってる。何時に電話しなきゃなんない、何時に人が来る、

誰と会う、誰と契約する、どういう仕事をする、今日は飲み会だとか。

 そんな時に、神様とおもう、何かそういうゆとりが人間にないでしょう。

 で、祈る場所も祈る対象もね、一緒に祈る人も会場も、そういう設営と

いいますかしらねえ、そういう場づくりをして、自分の中にずっと

流れてるんだけれども、普段はなかなかそこまで降りてゆきにくい。

 そういう霊妙な波動の中に自分を放り込んでね、本来の(自分の)

明るい自分の発見というものを、祈りの中でしてゆくと。それが統一

ということですね。


 禅をやってる坊さんたちでも同じことです。自分の中に仏がいるんだと

いうとね、皆自力本願になっちゃって、何か傲慢無礼のように思います

けれどねえ。

 あれだって一つの真理でしてね、自分の中に仏がいるんだってことは、

自分は小宇宙なんだということと一緒なんです。その宇宙というものを

自覚して、その宇宙の広がりといいますか、もっと言葉をやさしく言えば、

自分がその神様からいただいている宇宙の光でもって、皆さんに少しでも

やわらいでいただくということ。

 例えば、自分の笑顔とか、あるいは、自分の作った料理を食べて

もらって喜んでもらうとか、そういう、要するに人に仕えるということ、

奉仕ということなんです。奉仕というものは、ただお金を出すとか、

何十万何百万献金するとか、そういうことではないんです。

 霊妙なやさしい愛の波動でもって、どれだけ人に接してゆけるか、

それが奉仕であり、大きく言えば、それが統一なんですね。


 だけども、なかなかそういう風には、人間は聖人じゃないから、

なりにくいでしょ。だから、統一会とか実践会とか色々な会の名前を

つけますけどね、勉強会とか、何とか道場といってそこへ行くのは、

自分の中の本来の心の朗らかな所へ降りて、そこで光を出して洗って

もらってね、そうして高められて又帰る。


 これは、言葉で言ってますからね、こんなご大層な言葉になるけれども、

やはり、我々というのは何で存在できてるかというと、神様のひびきに

よって存在できてる。そのひびきというものは何かというと、神様の愛

である。だから、愛深い人になるということが一番大事なんです。

 この世の中に生きていく為には、知識・知恵も要ります。常識も良識も

要りますが、一番大事なのは愛ですね。多少礼儀がどうだこうだ言っても、

そこに本当に労わりの気持ちというものがないことにはね、これは宗教も

祈りも何にもあったもんじゃないんです。例えどこの宗教に入っていても

いなくてもね、愛深く人に接することが出来た時に、その人は本当に

やさしく強い神様に愛される人なんですよ。おろがむ心といいますかね、

天地万象拝む心、そういうものがその人にはもう備わってるんですね。

 備わるというのは、何も天性というものではなくって、その人が、

自然な自分の心の流れに従って生きていった結果、そうなる。

 だから、その人だけに出来ることじゃなくって、皆そこを目指して

祈っていくでしょう。


 キリスト教だろうと仏教だろうと、白光真宏会だろうと何だろうとね、

みんなそうなんですけどね。

 我々は、世界人類が平和でありますようにという、神様のひびきから

出たこの大光明の言葉によって、祈りによって、愛深くならせたまえ

というその祈りを、この言葉の中に深く感じとって、そして祈っていく

訳です。我々はこれを梯子にする訳です。エレベーターにする訳です。

 だから、統一というのはね、何も難しいことじゃないんです。有りの

ままの自分自身をそのまま持って来られていいんですよ。病んでいれば

病んでいるまま、疲れていれば疲れているまま、言葉が出なきゃあ、

それでいいんです。別に守護霊さんや守護神さんもいるんだしね。

 あなた一人だったら大変だけど、その人たちが助けてくれるんだし、

五井先生もいるんだし、皆いるんだから。私がしなければと思っちゃうと、

私が私がの我になっちゃうから。その時そのまんまの有りのままの、

憂い辛いそのままの気持ちでね。ただ祈れる時には祈る。それ位の

つもりで統一会に出ていただけたらね、ふんわり出来ましょう。


 やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。神様と向かい合うのにねえ、

カチンコチンになって緊張してね、もうどうしましょうなんて思ってると、

それだけでこっちはくたびれるよね。神様とはふんわりしたもんなのよね。

 愛情も深いし、受けとめる器も深く大きいし、これはもうたいしたもん

なんですねえ。神様自体がふんわりしてらっしゃるんだから、神様の子供

である流れであるあなた方も、ふんわりして下さらないと、神様の流れ

というものが、いやにしゃっちょこ張ってこっちに映ってくるんですよね。

 こういう風にいきなければならないというように映って

しまっちゃあねえ、統一も何もないんですよ。


 だから、テープにあるでしょ。私は統一できなかったとか、

色々湧いたとかね、何か変なものが見えたり聞こえたり、雑念が湧いたり

することだけに皆把われちゃうけれども、そういうのはみんな通過点

なんですよね。

 そこを通り過ぎて、その人が意識するしないにかかわらず、皆

それぞれの本心にたどり着くように、統一というものはもっていくもの

なんですよ。それは、神様の側でもっていって下さるもんなんです。

 だから、どういうものが見えても聞こえても、雑念が浮んでも

構わないんです。それは本質そのものじゃない。それは贋物か本物かと

いわれれば、本物じゃない訳ですからね。それが神様じゃない訳

ですからねえ。贋物だとは言わないけれど、そこを通り過ぎて行った時に、

やっとといいますかね、神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれる

ことが我々はできる。


 人というのはね、見える人も聞こえる人も感じる人も色々あるけれども、

色々な能力をもってればもってる程、不自由ですよ、逆にね。ちょっと

持っちゃうとね、把われちゃって、大変なことになるんだけども、

そういうものは全部、必要があるからこそ見させる、聞こえさせる

ものでね。そんなものは、生命に全然関わりがない。永世の生き通しの

生命というものは、見えるとか聞こえるとか、どんな才能があるかないか

とか、お金も地位も、何にも役に立たない。ただ素直な生命になる。

 それだけでしょ。神様に素直になる。それだけですよ。


 そこへ目指してゆくんですからね。そこが大目的だから、そこへ

向かって、我々色んな想いを抱いたままでいいから、お願いしますと

いって統一に入っちゃうと、いつの間にか気持ちが良くなって、何だか

訳わからなかったけど、先生の口笛にのって気持ちよかったと。

 ああ良かった良かった、それが一番いいんです。そうやっていく内に、

何だか憂さがとれる、何だか憂うつな気持ちがちょっと明るい方へ向いて

いくと。それでいいんです。
 

 人間の想い煩い、業というものはね、習慣のもんですからねえ。六十年

生きてりゃあ、六十年の分があるんですよ。前生の分から言えば、

何百年の分がある訳ね。その塵を払い落とす祈りではあるけれど、

その想い習慣というものもしっこいからね。だから、自分の中に、

ああ高められなかったと思えば、それが業になる。高められるかどうか

というのは、神様の方でちゃんとして下さるもんでしょ。

 だから、それはそれで任せておいて、任せるというのは楽なんですよ。

 任せるというのは、こんな楽なことはないのね。神様に任せたら、

いつ死のうが生きようがいいんですよ。もう任せちゃったんだから、

何にも言うことないでしょ。ね、仕事の心配もいらない。将来の心配も

いらない。お金の心配もいらない。本当はそういうものなんですね。


 だけど、世の中に生きている以上、そういう訳にいかないから、色んな

煩いが出てくる。本当はそうですね、だからそこを見透して、神様と

いうのは我々を愛して下さる。聖書にあるけど、一日の煩いは一日で

充分だ、もうあんまりくよくよするなという、そういうイエスの言葉が

あるけれど、あれと一緒なんです。ずっと引きずっていけば、それが業に

なるの。だから、業にならない内に消していただいてね、ああ消えてゆく

姿だと思ってね、ああ消えました、ありがとうございますと言って、

そういうおもいで統一をふんわりなすってらっしゃれば、そうすれば、

いつの間にかあなた方の光が益々輝いてね、そして、自分の為にも人の

為にもなっていく。そういう人にいつの間にかなっていただくように

なるんです。

 分かりましたね。それじゃあ。