ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

反ユダヤ主義ゆえ、黙殺される画家・・・フォラン。

2011-04-14 20:11:33 | 文化
ジャン=ルイ・フォラン(Jean-Louis Forain)、本名ジャン=アンリ・フォラン(Jean-Henri Forain)。1852年ランス生まれ、1931年パリに死す。画家、イラストレーター、版画家。

ご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。しかし、東京の国立西洋美術館(『踊り子』、『聖アントニウスの誘惑』、『お目見え』)や東京富士美術館(『伊達男』、『傘を持つ女』)にはその作品が所蔵されています。美術展でも、ときどき印象派の作品に交じって、展示されることもあります。しかし、知名度は、高くない。しかも、日本でだけではなく、フランスでもそれほど有名という訳ではないようです。しかし、生きていた当時は有名で人気があり、多くの名誉にも浴しました。しかし、あることが理由となり、死後、反感を持たれ、人びとの話題に上ることが少なくなってしまいました。

まずはその人生を“Wikipédie”を参照しつつ振り返ってみましょう。

1860年代にパリに出て、画家のジャン=バチスト・カルポーや風刺画家のアンドレ・ジルなどに私淑した後、エコール・デ・ボザールに入学。画家・彫刻家で、芸術アカデミー会員のジャン=レオン・ジェロームの指導を受ける。

1870年の普仏戦争に従軍。その後ヴェルレーヌやランボーと交友関係を結ぶ。社交界にも出入りするようになり、マネ(Manet)の『扇を持った女』(la Dame aux évantails)のモデルとなったニーナ・ドゥ・カリアス(Nina de Callias)のサロンや第二帝政・第三共和政に影響力を持ったロワイヌ伯爵夫人(la comtesse de Loynes)の文学・政治サロンなどに足繁く通うようになった。そこで多くの作家たちやドガ(Degas)、マネといった画家たちの知遇を得ることとなった。

画家としてのスタートは印象派の一員としてだった。1879年から1886年にかけての展覧会には積極的に出品していた。当時オペラにのめり込み、踊り子やその常連たちを作品のテーマに選ぶようになる。

やがて、風刺画をさまざまな新聞に発表するようになるが、そこで類まれな皮肉の才をいかんなく発揮することになる。特に1887年からは“Le courrier français”(クリエ・フランセ)がフォランの風刺画を定期的に掲載するようになり、そして1891年からは“Le Figaro”(ル・フィガロ)と組むようになり、フィガロ紙上に35年に亘って風刺画を発表し続けることになる。

多くの新聞がフォランの辛辣きわまる風刺画を競うように掲載したが、1889年には毎日の生活を描き、その中で、苦しみに隠された可笑しさ、喜びの裏にある悲しみを表現したいと、自らの新聞(Le Fifre)を発刊した。

1891年には画家で彫刻家でもあるジャンヌ・ボス(Jeanne Bosc)と結婚。ベル・エポック時代の社交界のために多くのポスターを描く。この頃、カトリックへの信心に再び目覚め、ルルド(Lourdes)への巡礼をたびたび行った。

その後、ブランジスム、パナマ・スキャンダル、ドレフュス事件に遭遇し、社会的テーマ、政治的な話題についての風刺画を描くようになる。1898年に、同じく風刺画家のカラン・ダシュ(Caran d’Ache)とともに、新たな新聞“le Psst...!”を発刊。ドガや作家のモーリス・バレス(Mauris Barrès)らの積極的な支持を受ける。

第一次大戦に際しては、愛国心を称揚し、1915年1月9日には“―Pourvu qu’ils tiennent. ―Qui ça ? ― Les Civils”(彼らが頑張ってくれればいいのだが~彼らって、誰のこと~フランス市民だよ)という有名な台詞付きの作品を発表。戦場においても塹壕にまで兵士とともに赴き、デッサンを描き続けるとともに、士気を鼓舞した。こうした行動も相俟って、当時、フォランの人気は非常に高かった。

第一次大戦後、1920年の冬、ジョー・ブリッジ(Joë Bridge)、アドルフ・ヴィレット(Adolphe Willette)、フランシスク・プルボ(Francisque Poulbot)など芸術家たちとともに、「モンマルトル共和国」(la République de Montmartre)を創設した(慈善活動と文化活動を行う伝統の番人で、会員の服装は今でも、黒い帽子、黒いケープ、赤いマフラーというロートレック描くところのアリスティッド・ブリュオンの服装そのままです。モンマルトルの丘に残るブドウ園の収穫祭に、こうした服装で集まり、パレードに加わっていますから、ご存知の方も多いと思います。そのブドウ園は1933年にプルボが始めたものです。なお、モンマルトル共和国の設立は、日本語のホームページによると1921年5月7日となっています)。

その後フォランは芸術アカデミー会員(1923年)、「モンマルトル共和国」大統領(1923年から死亡するまで)、ロイヤルアカデミー会員(1931年)に推挙されるという、栄光に包まれた晩年を過ごした。

という人生を送ったフォランが、今なぜかつての輝きを失い、話題にすら上らないようになってしまったのでしょうか。3月12日の『ル・モンド』(電子版)です。タイトルは、“L’esprit antisémite”(反ユダヤ精神)・・・

ジャン=ルイ・フォランがあまり話題に上らないとしたら、その理由はいたってシンプルだ。ドレフュス事件の最中に、カラン・ダシュとともにドレフュスを攻撃する雑誌“Psst...!”を創刊したからだ。その雑誌で、ドレフュスを擁護する判事や作家のゾラ(Emile Zola)を醜い戯画で描いている。フォランの描く風刺画の多くが反ドレフュスだった。フォランは、当時としては情熱的なアヴァン・ギャルドな芸術家だった。しかし同時に、反ユダヤ主義の持ち主で、芸術家としての大きな功績も反ユダヤ的という罪を隠すことはできず、その罪のエクスキューズとなることもない。

展示の中でひとつだけどうもすっきりしない点がある(3月10日から6月5日まで、プチ・パレ(Petit Palais)で、“Jean-Louis Forain 1852-1931 : La comédie parisienne”というタイトルのフォラン展が行われています)。ベルトラン・ドラノエ(Bertrand Delanoë、パリ市長)がパンフレットの序文に書いているように、フォランとカラン・ダシュの二人だけが「嘘と嫌悪という影の部分を代表している」として断罪されている。しかるに、“Cassation”(『破棄』)という見るに堪えないデッサンはドガからの熱狂的な称賛の手紙をフォランにもたらした。ドガ曰く、フォラン、我が高貴なる友よ、あなたのデッサンはなんと美しいことか。ドガは反ドレフュスだったが、ルノワール(Auguste Renoir)、ロダン(Auguste Rodin)、セザンヌ(Paule Sézanne)、ヴァレリー(Paule Valéry)もそうだった(フォランとカラン・ダシュだけが反ドレフュスだったわけではない、ということですね)。

このリストは、何も目新しいものではない。1987年にアメリカの美術史家リンダ・ノックリン(Linda Nochlin)がその著書“Degas et l’affaire Dreyfus:portrait de l’artiste en antisémite”(『ドガとドレフュス事件:反ユダヤ作家の肖像』)でこのリストにある芸術家たちの名前を挙げている。彼女はその著作の中で、最も高揚した芸術家としての野心とユダヤ人への嫌悪という最も卑劣な感情がどうして美術史における巨匠であるドガやその同時代人たちの心の中で同居できたのだろうか、と問うている。フォランとは異なり、彼らは新聞で反ユダヤ主義者であることを公表しなかった。そのことが彼らを守っているのだ。

従って、2009年にグラン・パレで行われたルノワールの回顧展では、彼の反ユダヤ主義については一言も触れられなかった。この点を扱えば、ルノワールの全てをより正確に見ることになっただろうに、残念だった。

・・・ということで、いいぞ、その通り、頑張れ、と周りは囃し立てても、最終的に責任を取るのは、踊らされた人間、はしごを上まで登った人間。気がついたら、はしごを外されていた、なんていうことは、我々庶民の生活にも時々あることです。だから、賢い人は、必ず囃し立てる側に回る。決してはしごを登ったり、踊ったりはしない。もちろん、ドガを始め当時の芸術家たちが意識してそうしたという確証はありません。単に新聞等で自分の反ユダヤという主義主張を公表する機会がなかっただけなのかもしれません。

一方、新聞とのつながりが深かったフォランは、自分の主張であり、当時の芸術家仲間の傾向でもある反ユダヤを風刺画を通して繰り返し公表してしまった。そのために、今でも批判され、黙殺されることが多い。

「時代」とは恐ろしいものです。フォランが生きていた当時は、反ユダヤが幅を利かせ、結果として栄光に満ちた人生だったわけですが、「時代」の歯車が進むと、一転。反ユダヤを公然と表明することはタブーとなり、新聞に公表していたフォランが批判の対象となってしまった。

はたして、フォランは『ル・モンド』の記事が言う通り、心底、反ユダヤだったのでしょうか。それとも、時代の風を風刺画に凝縮させ、「時代」にサービスをしてしまっただけなのでしょうか。「芸術家」と「時代」、面白いテーマではあります。

2 コメント

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すげえ作家でした! (cocorococo)
2011-04-27 07:44:50
本日プティ・パレの展覧会に行ってきました。事前に貴ブログを知って、大変参考になりました。有難うございます!

人生も作風もあまりに奥の深い作家で、とても全貌を書ききれず、貴ブログのご紹介をちゃっかりさせて頂きました~。

しかし自画像を見る限りにおいては、なんだかペシミストの要素大だなあ、という印象。ダンサーやオペラピットの絵を見ると享楽的に生きていそうなのですが、実はどうだったのでしょうね。
プチ・パレ (take)
2011-04-27 09:11:31
cocorococoさん

貴ブログでのご紹介、ありがとうございます。

プチ・パレにはまだまだ多くの隠れた名作が所蔵されているんですね。次のパリ行きでは、プチ・パレのスケジュールも要チェックです。

また、プチ・パレと言えば、作品鑑賞もさることながら、カフェとしてもよく利用させてもらいました。懐かしく思い出します。

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