緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

韓国古典舞踊・ブッチム

2009年01月07日 20時48分39秒 | 民俗芸能
1月7日(水) 

街頭で舞われる踊りやギターの弾き語りなどを聴いていますと、街頭という大きな舞台、客の出入りも自由であり、木戸銭も懐具合、感激度合いで決まり、これが芸能の出発点だと納得するところがあります。沖縄三越に電話で問い合わせてみましたら韓国古典舞踊の若い四人の踊り子さん、国では本職は別に持っており古典舞踊団専属の踊り子さんではないとの事です。三日午后一時から舞われた演目は四つありました。












その一つが太鼓の舞、若い踊り子さんが一人で軽やかに踊る姿をカメラで追いかけました。演目も三番目になりますとカメラの焦点も合ってきて撮影場所も良いポジションを占めます。枚数にして四六枚シャッターを押しました。












こうして街頭舞踊を通してカメラの撮影訓練を兼ねます。それも沖縄の魅力、沖縄三越の担当者もおおらかに「大いにご披露して下さい」と電話の向こうから軽やかな声が響きます。今回の太鼓の舞は観客をのぞいた踊り子さん一人が無事にカメラに収まりました。この太鼓の舞は韓国語で「ブッチム」といいます。演舞時間は五分前後であったのでしょうか。街頭で見る異国の舞も正月気分に花を添えて、国際通りが一段とにぎわいます。













担当者によりますと正月には韓国古典舞踊を披露しているとの弁です。来年も正月は沖縄で過ごした気分が沸いてきます。街とは本来、芸能が披露される場でもあり、国際通りの三越入口広場で異国の舞踊を鑑賞できる気取りの無さが楽しくもあります。















銀鏡神楽は仮面劇

2008年12月15日 18時17分35秒 | 民俗芸能
12月15日(月)

星の神楽(午後七時七分~四三分):軽妙な笛の音と太鼓と鐘のリズムで全員が神楽舞台に登場、総勢三三名、神楽始まりの儀式でしょう、 祝詞があげられて「払えたまえ清めたまえ」とまおす。榊によるお祓いと水滴のお祓いが続きます。笛の音が心地よい、リズム楽器に板をバチで叩く楽器もあり、名称は何というのでしょう。厳かな神事です。神前に移動してなお神事が続きます。続いて猪の頭が五首と神前に供えられます。その後に御神酒と供え物が続きます。山への感謝か、一年が無病息災で過ぎた事への感謝か、祝詞が上げられて神事が続きます。礼に始まって礼に終わる神事です。



氏子代表アイサツ那須氏:郵便局で停年を迎えられて銀鏡神社の氏子総代になられて銀鏡神楽の保存に努められておられます。近年遠方からの見物客が増えてさまざまな点を改革しましたとの事です。本来は神楽も神事でした。最初、銀鏡神楽を鑑賞に来ました頃は見物客はあくまでもわき役であり、氏子と間には目に見えない境界線がありました。それが次第に外されて来たことの説明です。



式二番清山(午後八時一〇分~三〇分): 壮年二人でおごそかに舞う舞、右手にスズ、左手に御幣、白装束に烏帽子に白足袋、途中で舞人の歌もある。座を清める神楽か、人生には限りがあると思う年齢になりますとゆるやかに舞う舞に魅せられるようになります。舞人の穏やかな心が伝わってきます。終わりになりますとテンポがやや速くなり神楽の面白さを連想させます。



式三番花の舞(午後八時三三分~):小中学生八人で舞う舞、伝統教育を継続するために四名を八名に増やしています。銀鏡小学校生徒数十三名、銀鏡中学校生徒数同じく十三名、そのうち十名は外部からの山村留学生。
式四番地割:祝宴席で宮崎市の親子三人組と同席して神楽情報に花を咲かせます。今年は地元よりも遠来の観客が多いようで神楽競り唄もでません。どちらかと言いますと温和しくカメラに納めるか静かに鑑賞する人が目立ちます。



式五番鵜戸神楽:成人二人で舞う舞、扇とスズを手に持ち御幣二本を腰に差し頭に髪飾りをつけてテンポもゆるやか、舞人も穏やかな舞を舞う 。面をつけた神が登場して舞を舞う。初めての面舞。手には御幣と扇、楽のテンポはゆるやか。神は腰に小刀を差す。
式七番幣指(午後十時四二分~~): 舞人は成人二人、楽のテンポに長短の変化があらわれる。清山に似た雰囲気があります。観客席の照明が消されて、どうやらパソコン入力はこの辺が限界です。



ふいと目が覚めると朝の三時過ぎ、どうやら寝袋で三時間ほど仮眠をしたようです。神楽舞台では夜を徹して神楽舞が奉納されています。比較するのもやや異なった感はありますが十一月二三日曽於市住吉社の流鏑馬行事を思い出します。流鏑馬神事は射手と馬とが一体となり的に矢を放ち射貫いて一瞬のうちに神事の目的を達します。山人の神楽舞は穏やかでたっぷりと時間をかけて舞います。隼人族の末裔には馴れるまで時間を要します。



これからも銀鏡神楽とどのように付き合って行けばよいか?京都三十三間堂を例にとりますと、ここも人生観測点、ほぼ永久にあるものを定点観測点にして三十三間堂では仏像の表情がどのように見えたか?十九歳で始めて見物した時と娘の結婚式で見た仏像と印象の違いは何か?見るものは同じでも受け手の印象が異なる場合があります。銀鏡神楽は九州山間部状況をウォッチするポイントとして捉えます。新たなものが見えてきます。



今回も感じたことですが祭り見物はせめて現地二泊くらいの時間的なゆとりが大切です。神楽の源は何でしょうか。一つは祭りとは外来者も楽しむもの、宴が在り、唄や踊りがあり、ついでに温泉まであればなお結構、そんなくつろいだ時間を現地で頂ければこれ以上のものはありません。それは自分で探す以外になしか!

銀鏡神楽

2008年12月14日 10時08分29秒 | 民俗芸能
12月14日(日)

西都市銀鏡に着いたのが午後一時過ぎ、都城市の自宅から約百十キロの距離、時間にして東自動車道および国道二一九号線経由で約一時間五〇分、九州山地のやや南に位置する銀鏡社は海抜三百メートルの山腹にあり、銀鏡神楽は満天星空の下で午後六時頃から翌十五日の正午頃、三三番目のシシトギリで幕となります。





昨年に引き続き今年も一人旅、山道はかなり整備されて新トンネルも三本ほど貫通して車の運転もかなり楽になってますが、交通量が少なくて山地に住む人々が少ないことがうかがえます。現地にはすでに神楽舞台の準備がなされており、神殿の猪カシラはまだ飾ってありません。




社務所で受付を済ませて御札と宴席招待券をもらいます。宴席は午後八時頃から始まるとのこと。神楽舞台脇に観客席となる新装の神楽殿があります。舞台に近い前部はすでに鑑賞客の座布団や毛布で陣取りがしてあり毎年神楽にはせ参じる熱心な方々がおられます。




山の陽が沈むのは早く、まして冬至前ともなりますと午後四時にはすでに山影に隠れてしまいます。山村のたたずまいが静けさに拍車をかけます。観客席となる神楽殿は南と北が吹き抜けになっており山の冷たい風がときおり吹き抜けて行きます。



こうして、神楽鑑賞も思い切って自宅を後にしないとなかなか踏ん切りがつきません。午後五時十五分頃:神楽人が全員舞台に南向きに並び御神体六神を背負った神主達が神楽舞台へと上がって来て舞台に座します。そこで神楽人二人が迎え舞を舞います。その後に御神酒と備えが振る舞われます。そして全員がご神前へと向かいます。全員で食事を摂られるのでしょう。



姥石・住吉神社・流鏑馬

2008年11月24日 17時21分07秒 | 民俗芸能
11月24日(振替休日)

連休最終日は小雨模様、朝の散歩を済ませますと外出は控えて読書日と決めこみました。「農耕起源の人類史・ピーター・ベルウッド著」と同時購入の「ヒトゲノムマップ・加納圭著・京都大学学術出版会発行」が未読、何とか読破しようとしますが、著書にあります多くの遺伝学用語が分からない。どうも遺伝学の書籍は味付けが無いと読みづらい、そんな思いを抱いていましたら、「5万年前~このとき人類の壮大な旅が始まった~ニコラス・ウェイド著・安田喜憲監修・沼尻由紀子訳・イースト・プレス発行」に出逢い思わずニコニコなります。内容に関心を引く章節がある書籍はどこからでも読めるのが特徴です。


射手はいずれも地元中学生・高校生・小学生、射手に男女の差別がないのが時代を現しているのか、おおらかさが良かですな!

イギリス生まれの科学ジャーナリストが記載した「5万年前」の人類の話題で頭を柔軟にして、何故柔軟になったか?「アフリカを旅立った祖先たちの人数は、わずか一五〇人程度だった」と。さて、昨日の住吉神社の流鏑馬をもう一度掘り起こしてみたいと写真を広げてみました。中から出来映えの良い六枚を選び改めて眺めいりますと、三つの言葉が浮かび上がります。年代を古い順に列記しますと「姥石、住吉神社、流鏑馬」となります。これらを結ぶものがありますか。


御神域とは真実を申し上げる場所か、そういう場所が無いと集落は存続し得ないと思うようになりました

どの言葉も日頃は縁のない世界です。現地、つまり住吉山は曽於市末吉町東部にあり海抜二六七mあり、どちらかと言いますと丘に近い山。それなり大隅半島歴史の舞台にもなったでありましょうが、山頂にある姥石については末吉町教育委員会は掲示板で次のように説明しています。


こちらが西側の姥石、どんな役割を果たしたのか、昭和五年発掘前はどんな形状であったか、こうしてみますと発掘しないのも方策

掲示板説明文:「住吉神社のある住吉山の頂上にかまど形の姥石がある。姥石は二基あり一基はは頭部の石が失われている。昭和五年三月七日考古学者鳥居竜蔵博士によって発掘され現在の二基が露出したのであった。記録によると住吉山は一名姥ケ岳ともいい姥石は日向大隅二州の界石ともいっている。鳥居博士はこの姥石を立石(メンヒル)といわれた。ここでは古代の宗教的な殿堂御神体の安置所であったと考えられるという話であった。八幡一郎氏はドルメンの一種であろうと言われた。ドルメンというのは墓室をいう。鳥居博士は付近にストーンサークル(盤境)の形跡があるといわれたが現在はよくわからない」


発掘前山頂には小さな古墳があった!五千年を振り返ると天へ祈る場、死者の眠る場、戦の本陣跡と、時代を象徴する人々の姿が浮かぶ

この姥石がどんな役目を担ったのか、自分の考えに沿い判断して姥石の持つ意味を決めなければなりません。山頂にあるわけですから、天へは平地より近い、それなりに神聖な場所、聖地としてあがめられた場所か、もしくは霧島桜島と見通せる位置でもあり、分水嶺は日向灘と志布志湾に別れ、州境との意識が人々に残っています。永い歴史の中で山が果たす役割は時代を追って変化したと考えて差し支えない。但し、共通するものは人の心を高揚するもの、やはり主流は宗教に関係してくるのでしょうか。


この国の神域はやはり自然林がよく似合う、日本画家山内多聞が長命であったならアジアの風景人物を描いたと想像します

そんな遺跡を持つ山頂を背景にした住吉神社は南向き、志布志湾に向かって建立されています。創建はいつの頃なのでしょうか?境内には杉の巨木、ご神木が数本ありますが広葉樹は太古の雰囲気を残しています。神社の境内は多種の樹木におおわれてこそ神の庭になるものです。住吉神社、なんとも厳かな神社名です。人々の信仰を今でも保っています。いつの世になっても神のおわす御神域とは人々の住む集落に存在するものと教えて頂きます。


若者の晴れ姿、やはり地域社会でしっかりと大切に育てていると一目でわかる、嘘を嫌う世界です

娘子の真剣な眼差しと的を射抜く射手となった姿、人々の喝采には豊作への願いが込められており、娘子の一心不乱な姿は観客をも的の一点に巻き込んでしまいます。徹夜で三三番の演目が舞われる夜神楽と比較してわずか一時間の流鏑馬神事、祭りにも地域性があるのか、服装や装備を時代考証すればかなり訂正個所もありそうです。それは小事なりです。人の心を引きつけて放さないものには大河ともいうべき大きな流れがあるもの。なるほどこれからも住吉神社の流鏑馬は続き当分は足を運ぶことになりそうです。

末吉町住吉神社のやぶさめ

2008年11月23日 19時38分33秒 | 民俗芸能
11月23日(日)

朝から小雨模様、一時間遅れの朝の散歩に出かけます。散歩道で見かけた小鳥はカワセミ、タシギ、クサシギ、ジョウビタキ、コガモの群れは一羽しか確認できずに静かな水辺です。庭の柿木には早朝からヒヨドリとムクドリの群れが集まり残り少ない柿の実を突いて朝食の会場にしています。



さて、曽於市住吉神社の流鏑馬がいよいよ本日午後二時に開催、約一時間ほどの流鏑馬神事です。同じ大隅半島肝付町四十九ヶ所神社にも流鏑馬神事がありこちらも秋の十月に開催、いずれの祭りもまだ見聞したことが無くて内心ワクワクです。祭り一つで心が高揚するのは楽しい限り。



午後一時前には住吉神社に出むき本殿と姥石のある山頂を見物して回りました。信仰心の無さか本殿にむかって拝礼なしご無礼しました。さて山頂にある姥石、最初に見物におもむいたのは古代の石に関係する遺跡として何かの書物で知ったのがきっかけです。



改めて眺めますと、山頂も岩が地表から出ています。むきでた岩を台座にして姥石二基が鎮座しており、その周囲を石積みがしてあります。かってはこの山自体が神であった証しなのか或いは他の目的があったのか知る術も無し。石棺にしては石室の幅が死者を葬るにはやや狭い感じがします。



姥石をカメラに納めて、流鏑馬神事の行列を撮影しようとしますがシャッターが切れません。カメラの故障、どうやらレンズが二度目のトラブルを起こしたみたいで撮影が出来なくなりました。車に戻り予備の業務用デジカメを準備します。何とか撮影は出来ますが角度だシャッターチャンスだと細かい注文は出来ません。とりあえず流鏑馬を撮影できることだけでも良しです。



流鏑馬の騎手は三名、よく眺めますと二人は女子中学生と女子高校生です。そして三人目は小柄な小学生、二人の女学生はなかなか顔の表情に狩装束と弓を持つ手がさまになっています。しっかりとした指導を受ければ古式馬術もさほど難しいものでないこと、二人の女学生がこれから証明します。


恐れを知らぬ一途な娘子のすがた、射手の心意気に観客の心が一つになり、祭りはその役目を果たすときが近づきます

トウマイ袋またの名をアンペラを鞍代わりに馬の背に乗せてそれをワラ縄で縛りあぶみもない裸馬同然の騎乗とはわけが違います。あえて言えることは中学生の年齢ならば器用に短期間で乗馬と疾走が出来るようになります。境内の馬場の長さは三百mでしょうか、一の鳥居から二の鳥居までその間に射込む的が三つあります。四〇センチ四方の板が的になります。



物怖じもせずに二人の騎手は疾走して的を射込んでいきます。騎手に緊張もあります。それでも物怖じ一つするでなく疾走して的の矢の当たる乾いた音がしますと感激します。見物人が胸の高鳴りを憶えるくらいですから、騎手や神社世話役関係者はなおのこと祭りに対する思い入れはひとかたならないでしょう。



今日は住吉神社の流鏑馬祭り見物ですっかり満足してしまいました。連綿として続く祭りには何かのメッセージがあるものです。流鏑馬の行われた時間は一時間ですが緊張感と期待感が見物人の心を一つにします。終えた後は何とも言えぬ満足感です。曽於市の住吉神社、何でもない日には場所を捜す大変です。それでも祭りになりますとどこからか人々が集まってくる楽しさです。















神楽に酔って

2008年11月18日 18時27分38秒 | 民俗芸能
11月18日(火) 

はがき一枚で時間がたつに連れて夜神楽に酔っぱらった気分になってきます。想いが古に飛び秋の刈り入れを終えると冬に備えての準備も完了して笛や太鼓の音が耳の底に響いてきます。なるほど若者には嫁さんを探す季節にもなります。


はじまる前の緊張感が子供たちにも伝わり、それが見る者には絵となり頭に刻み込まれます

いつの頃に夜神楽と昼神楽に出逢ったのか古い日記帳を紐解いて見ました。一九八六年十二月十三日には真剣を舞に使う高原町祓川神楽に幼い娘三人を連れて徹夜鑑賞しています。と言う事は四〇歳代に人間の喜怒哀楽を表現する民俗芸能と言う人生のクッションを頂いた事になります。これでは夜神楽の音が耳に響いてくるはずです。師走十四日は日曜日、神楽鑑賞へ朝から準備が出来ます。



銀鏡へ東回りは都城市から東九州自動車道西都インター経由で銀鏡まで二時間でしょうか。西回りは九州自動車道人吉インター経由で湯前・西米良で三時間弱でしょう。西米良の温泉ユタートで昼風呂とランチを済ませて銀鏡神社に到着時間午後三~四時頃と見て日曜日を心豊かに神楽鑑賞に費やすもおつなものです。



現地へ出むいて感じることですが、九州山地広葉樹林の中は意外と心静かになるものです。故郷がただよう、何ともほっとする気分は太古を思わせるものがあるのか不思議な魅力です。想像力をふくらませると人間は森での暮らしが永かった。



十四日は銀鏡神楽で、前日十三日は高原町祓川神楽と、どちらも捨てがたく心が乱れます。祓川神楽で性を表現したのがありましたっけ?あれは眠気さまし!思い出せばどちらも夜中を過ぎて明け方近くに性表現の神楽舞の演目が出ます。その頃になりますと観客も舞手もおおらかな気分です。寒さにこと寄せて女性にすり寄るも良し、この辺はえびの市白鳥温泉上湯の混浴の天然サウナを思い出します。タオル一枚の中で男女が混浴する様は実に自然な振る舞いでした。



いずこも同じで客が増えだし外部から観光客が参入してきますと地元も変に気を使うようになりちぐはぐな雰囲気が出てきます。それはそれで、明けかた性表現の演目は三十三番神楽全体からしますとほんの一部です。それはその時に楽しむ話です。夜神楽とは何かと真剣に考えました。



永らく解らなかった!そもそも夜神楽との出逢いが不惑の歳を過ぎてから出逢うわけですから真剣に考えますわ。こんな問題は自分で納得するまで現地に出むき鑑賞して考えて自分なりに答を見出す以外にありません。答を引き出すには数年はかかります。諸塚村に出むいて、南川神楽でしてっけ、そこで振る舞われる酒、つまり焼酎が甲類焼酎でした。これも驚きました。乙類焼酎、芋焼酎しか知らない身には、同じ宮崎県内でも文化が異なるとはっきり認識しました。



今にして思えば狭い世界で満足していた自分を見ます。夜神楽の世界は人々を引きつけて放さない世界、永い年月を掛けて創造された三十三番の演目、あの何とも言えぬ神楽舞に出逢った人々は幸せです。




銀鏡神楽のいざない

2008年11月17日 18時01分13秒 | 民俗芸能
11月17日(月)

午後、訪問先より帰社しますと年賀はがきがとどいています。さて何かいな?と表をめくりますと日向国鏡、銀鏡(しろみ)神社例大祭の案内状です。つまり夜神楽への招待状、昨年十二月十四日に徹夜で銀鏡神楽鑑賞をしたおりに社務所に記帳しました。今年もどうぞお出で下さいとの誘いのはがき、年賀状を使うのが新しい試みでしょう。(881-1231西都市大字銀鏡五一八番地)


子供たちの打つ太鼓の音もすっかり神楽のリズムです

十二月十二日:門〆
同 上十三日:星の祭り


その人にとって神楽との出逢いも良い時期に出逢えば一生の宝物です

同 上十四日:前夜祭祭典式・・・午後七時より
同 上十四日:徹夜神楽奉納・・・午後八時より


まだまだ未知の世界が日本にもありますわ、それが初めて夜神楽と出逢ったときの印象です

同 上十五日:本殿祭猪とぎり・・正午三十分より
同 上十六日:猪場祭・・・・・・午後九時より



夜神楽鑑賞の本番は何と言っても十四日の徹夜神楽奉納が見ものです。十五日の本殿祭猪とぎりは古典劇を鑑賞している雰囲気です。夜神楽鑑賞を終えて正午までは時間がありますが、遠来客ならば猪とぎりまで鑑賞すべきでしょう。なぜなら笑いの世界に入っていきますし、朝の神楽は意外な光景が展開されます。何を表現しているのかオヤッと思う場面があります。



昨年の夜神楽を思い出して列記しますとまず正面に神殿があり、その前が神楽が舞われる青空天井の神楽殿が設営されます。神楽殿の左側が常設の建物で見物席となります。そして右側が社務所で前面は見物席にもなります。見物席の前列に席を取るには早めの訪問が宜しいでしょう。徹夜鑑賞は全てを鑑賞するわけでもありません。どうしても睡眠時間も必要で寝袋か床の冷たさを食い止める敷物がありますと楽になります。



銀鏡集落には民宿もあるみたいですが詳細は西都市役所へ。気づきましたことは銀鏡神社社務所で記帳するときに寸志も奉納します。この奉納金、出来れば五千円か一万万円をつつみますと御利益間違いなし。と申しますのは九時を過ぎますと社務所客間でご馳走や御酒が振る舞われます。良いひとときで、なかなか隣席の見知らぬ方とお話しするの楽しいものです。



昨年は隣席へ声かけた中年女性はニューヨーク在住絵本画家と名乗られておられました。奉納金を一万円奉納しても神楽の楽しさ御利益の方が勝ります。最近はすっかり有名な神楽になり各地からさまざまなお方がお見えになっております。世界が広がるのも銀鏡神楽の世界です。





鹿児島神宮初午祭

2008年02月24日 17時29分32秒 | 民俗芸能
2月24日(日)

春の息吹を馬の踊りで表現、霧島市隼人町の鹿児島神宮初午祭が参加ジャンカ馬踊り連二五団体人員二千人を越える人数で朝十寺頃から鹿児島神宮境内で開催されます。鹿児島神宮は車で五十分ほどの距離でJR日豊本線隼人駅で下車徒歩十五分、妻を伴なって西へ向かいます。天気もさわやか鹿児島湾の風は穏やかです。ソニーや京セラなど職場の多い霧島市には大学も三校あり急速に人口をふくらませた都市でもあります。



途中、友人のフォトショップに立ち寄り街情報をお聴きします。十五年前に比較しますと一段と街のにぎわいもふくらんだ感があります。農業と都市とが混在する街の構成ですがばらばらの感がする商店街も都城市の中央通りシャッター街に比較しますと遙かに活気があります。街から若者が消えると街は疲弊して沈んでいきます。若者の雇用の場がある企業誘致は今も昔も首長の大きな課題です。



ようやく駐車場に車を止めて祭り会場へ向かいます。露天商が客を呼び植木屋や手作り竹製品や刃物等鍛冶製品や海産物の店まで並んでいます。久しぶりに見る人の波です。踊り連二五チームは鹿児島県内が大半ですが宮崎県からも三チーム参加しています。馬踊り、ジャンカン馬踊りと呼び名はさまざまですが、春の息吹を感じる旧正月十八日に近い日曜日を初午祭(はつうまりまつり)の鹿児島神宮祭日として毎年開催されてます。



二月は宮崎県高原町狭野神社のベブガハホやこの初午祭は一度見物しますとどこか引きつけて放さない魅力があります。楽は三味線と太鼓と鉦ですぐ憶えられる節回しです。馬が踊る節回しですからそう複雑なものはありません。本殿前の広場で人馬一体となった踊りが披露されますと毎度の事ながら感激の涙がこみ上げてきます。何とも言えぬ感動を感じます。無心に踊る馬も馬ですが、同じ表情になる踊り連のニセ衆や婦人連の無心に踊られる様子を見ますと自分でも分からない感動の涙にあふれます。涙が流れたあとはさっぱりとします。これが祭りの良いところです。祭りの世界は別世界です。感動の原因はどこか心の深いところから湧き上がるのかもしれませんが、感動する事が祭り見物には大切です。一月は比木神社の師走祭り、二月は鹿児島神宮の初午祭り、三月はどこか?三股町カミヨネ公園の夜桜見物花見の宴、四季に祭りの有ること、毎月祭りを訪ね行く生活、なんとも言えぬ喜びです。


師走まつり・余韻

2008年01月28日 18時13分32秒 | 民俗芸能
1月28日(月)

一夜明けて師走まつりの余韻が残っており心地よい。何が心地よいか?比木神社と神門神社を取り巻く人々の純朴さ誠実さが、いろいろな場面を思い返して彼らの一挙手一動の中から伝わってきます。心の中に有るものは動作となり顔色となり表に出てくるものなのでしょう。



人は心の故郷、生まれ在所を探し求めるものなのでしょうか。同じ旅館で出会った男性二人組とお話しする機会がありました。二人とも酒はやらない北九州から車で祭り見物に来たと言います。若い方が自分は高句麗の末裔だと言います。へええ、好奇心が湧いてきます。かって、この神門神社にゆかりのある百済王族禎嘉王一族は百済から大和に難を逃れたが、新羅の軍勢が大和まで追いかけて来て、そこで再度の逃避行が始まり船で九州へ難を逃れて息子福智王は木城町へと別れ別れになったと。追っ手には大和の軍勢も加わったと言います。この辺になりますと伝説・物語の世界です。



日本史には記載されてない新羅の軍勢が朝鮮海峡を渡り瀬戸内海を東へ大和へと上り百済王族を追っかける様は原因が深く存在しそうです。氏族の争いは相手の子孫まで根絶やしにする。とことん争われる世界だと。大陸の影響が大いにある話です。たとえ話に源氏が平家を追いかけて椎葉の山奥まで征伐に出掛けたは有名だと言います。九州という未知の土地でどうして百済王族を捜すか?追っ手は高い山の頂に登り周囲を見渡し煙の立ち上るところに人ありと探し求めたと言います。して、高句麗末裔の証は何か?朝鮮の人々は自分の氏素性を明かす族符をそれぞれが持っており、死んだ生まれたの抹消追加の記載が氏族により少々異なるけど五年以内に一度は書き換えられると言います。



人様の思いは聴いて始めて分かること。祭りを眺める思いはそれぞれに異なり、されど何処かに史実とつながる部分が存在していそうです。もっとも今となっては史実そのものが古の世界に隠れてしまい探す術もなし?ご先祖様を慕う気持が祭りの場所へ心身を運んでくるのでしょう。



師走まつり・くだりまし

2008年01月27日 17時31分32秒 | 民俗芸能
1月27日(日)

祭りが継続するには様々な要素がキラキラと宝石みたいに光り輝いる事に気づきます。神門神社の東側に西の正倉院が建立されています。建築交渉に四年間、建築に四年間を掛けたとご年輩のボランティアガイド氏は説明します。同氏と正倉院の内部に入り神門神社より借用展示されています銅鏡や直刀や馬鈴や馬鐸それにブロンズ像が陳列されてあります。銅鏡には細かい文様が浮き彫りで鋳造されています。細かい細工というか丹念に創られた銅鏡、実用よりも授け物、勲章みたいな役目を果たしたのではないかと想像します。



西の正倉院の宝物はといえば、やはりこのブロンズ像が目に浮かびます。このようなブロンズ像が出来るまでにはそれなりの文化が存在したことを示しています。神社の歴史や百済王族の由来など口承に頼る世界では半分は想像の世界が入りこんできます。それでも古物が存在することは揺るぎがたい事実が内在しています。それが隠し味となり祭りを支えていると見ます。



さて、祭りは歌舞の次に御酒と肴はつき物、神様が喜ぶ以上に人様も喜びのお流れを頂戴する場面が随所にあります。お別れとなる第三日目、「くだりまし」の日は比木神社の方々と伴に山霧温泉で朝湯に身を沈めて祭りの疲れとあかを落として神事の催される神門神社へ向かいます。



神殿で神事が済み、両神社の神職氏子衆が夜神楽の舞われた御講屋にロの字整列正座して待ちます。お別れの御酒が神職氏子衆にオナゴ衆から振る舞われます。そして肴は神前に供えられていた鯛の魚が黒く焼かれて旨さ今が旬のさまです。一箸づつ神職氏子衆に振る舞われていきます。片面だけが男衆へ裏面は後でオナゴ衆に振る舞われます。お別れの杯が終わりますと、やおらオナゴ衆が神職氏子衆の顔にヘグロをつけて回ります。今までの厳かな雰囲気がこの辺から別離の時へお笑いと涙模様のひとときへと進んでいきます。



祭りには様々な要素が文様みたいに絡み合って祭りを盛り上げ継続させていきます。生きる喜びと憩いのひとときと見物人まで御利益を施される神々はこれからも様々な人々を引きつけて行くことと感じて家路は向かいました。

師走まつり・炎の出迎え

2008年01月26日 13時23分15秒 | 民俗芸能
1月26日(金)

車社会で無い頃の比木神社から旧南郷村神門神社までの道のり半分は山道です。九日ほどの神事であった聞きます。今にして思えば農閑期の楽しい旅では無かったのかと往時の人々に思いを馳せます。祭りには必ず人の琴線にふれる極めつけがあります。その極めつけにたどり着いた人は祭りから離れられなくなったと理解します。



さて、「のぼりまし」のハイライトは午後六時頃田圃の広がる平地に二〇基ほどの杉の葉におおわれた櫓に迎え火が順次に火が放たれて夜空に白煙と炎が舞い上がります。壮観の一語です。 櫓は旧村内の職場や親睦団体などで入念に仕上げられて周りには祝宴の準備がなされています。祭りは出逢いの場であり憩いの場でもあり祝宴はつき物です。



消防自動車も待機しています。それもありますが神門地区の大半の人々が参加して祭りを楽しむさまは何かホロリとなります。安堵感でしょうか。争いを考えずに助け合う人々の姿が見えてきます。瑞穂の国日本の原風景、和を尊ぶ、争いがあったり平和なひとときがあったり庶民は時代に放浪されて来たのでしょう。



火は人の心をも興奮させて燃えさせる。夜空を焦がす櫓に火に百済王族の逃避行が一千年以上経た人々にロマンを与えています。旅館へ帰り北九州市からやって来たという客人と話す機会が有りました。一人の方は自分は高句麗の末裔であるとロマンを語ってくれます。さらには百済王族を追っかけて大和まで進軍してきたのは新羅の軍隊であったと述べられます。延々と続く物語にこれからも祭りの連なって行く様子を思い浮かべます。


師走まつり・冬日に舞う人々

2008年01月26日 13時08分54秒 | 民俗芸能
1月25日(金)

どれほど人々の情熱が続いているのでしょうか、伝説では西暦六六〇年に滅亡した百済王族逃亡のさまを再現して一千年あまり守り継がれていると言われる祭り。車社会になってからは一月最終金曜日から日曜日まで開催される木城町比木神社の師走まつりを一昨年から追っかけて今年が三年目です。何に魅せられたか?朝八時に福智王一行神職始め十九名が比木神社を出発して日向市金ケ浜の海岸で海水による御祓をします。「のぼりまし」の一行です。



九時に金ケ浜に到着して神職始め五名が冬の海で御祓の様子は絵になります。その昔、百済王族が日向灘で難破して金ケ浜に命からがらたどり着いた。その伝説に基づき神と伴に人々も下帯つけて海水に身を清めます。祭り一行の心意気が伝わる場面であります。人の世は変われど神のご一行は今年も時空を越えて古の場面を再現します。



さて、御祓を終えますと次に目指すは同じ日向市卸児(おろしご)と言われる集落へ向かいます。かっては東郷村でしたが合併で日向市に組み込まれました。九州山地の西へ向かう国道四四六線添いに民家が所々に寄り添った風景が続きます。東郷道の駅から車で五分ほどの距離です。



すでに国道添いに多くのアマチュアカメラマンが待機しています。大半が熟年者でリタイアされた方が大半です。集落の人々は準備に余念がありません。そろそろ「のぼりまし」のご一行がたどり着きますと、集落の長老が野原に火をつけます。百済王族逃亡の再現です。追っ手に追われた王族一行は追っ手を振り切る為に野に火を放ち難を逃れたという伝説の再現です。



祭りの舞台となる記念碑前は清められビニールシートが敷かれて集落の人々が「のぼりまし」一行を迎え、厳かな神事が執り行われます。やがて神職の若衆二人によりしめやかに舞が舞われます。手には金と銀の扇を手にして頭には黒い烏帽子を頂き身には古式豊かな白装束をまとっています。



この場面にまず魅せられてしまいました。今日の仕事をほっぽり出して朝から魂はこの場面一色に染まっています。冬の日、日ざしの明るい真昼の太陽をあびながらしずしずと舞う人とはどんな心境か?ま、そう言う祭りが何故に続くのか?疑問を解決するには現地に赴く以外に術はありません。一回で謎が解けなければ二回目もあります三回目もあります。



必ず現地には回答があります。体で感じるのが回答を見つけ出す大きな入口です。冬の陽のもとで時間にして十分ほどでしょうか、優雅な舞です。なるほど師走まつりは百済王族の伝説を継承しているエキスが見えてきます。舞・楽は人が備えている本来の表現方法をすでに往時の王族は優雅に磨き上げていたと言うこと。一千年を経ても往時の王族が助けられた集落の人々へ感謝の舞を舞うさまは日向の国に似合います。



銀鏡神楽

2007年12月15日 15時52分30秒 | 民俗芸能
12月15日(土)

人生には六〇歳を過ぎてもまだたくさんの積み残した事柄があり、あれは何で有ったろうかと言う疑問をいつまでも抱えておくわけにも行かず、その中でも夜神楽でもう少し見聞してみたい事柄があり、仕事も放り出してのこのこと西都市銀鏡へ出掛けることになります。銀鏡神社の神事が師走十二日から十六日まで開催されて、その中で十四日午後八時ころから翌昼過ぎまで神楽三十三番が舞われます。



西都市銀鏡は都城市から九州自動車道西都ICで国道二一九号線経由で一時間四五分から二時間の約一一五キロ程の距離です。途中、国道二一九号線が工事のため通行の時間規制があります。山間部に入りますとカーブや道路幅に気をつけねばならないところがあります。



さて、積み残してきたものは何か?夜神楽とは何か?銀鏡神楽の特徴は何なのか?もう少し疑問に感じるものがあり、前回出向いてあれから五年か六年か、あの時に感じなかった事で今回感じるものは無いか?早めの到着で見物棟の神楽舞台に近い場所に陣取ります。左隣には大阪から飛行機レンタカー組の三人連れが陣取っておりご挨拶します。その内に右隣には佐賀県よりの男性二人組が陣取ります。



ちらほらと観客の中には知り合いの人もおられます。都城の友人もすぐ隣に陣取られます。あの方は誰だっけ?記憶の中でようやくたどり着く人もいます。その内に左隣大阪組が移動して別な女性三人組と入れ替わり、お話しますと木城町「えほんの郷」の関係者、その一人の方とつい社交辞令が一歩進んでお里はどちら?アメリカです。アメリカはどちら?ニューヨークです。市長さんはイタリア系の方でしたっけ?今は別人でかなり裕福な方が市長さんです。あなたは絵本の原作者ですか?I am Kazuko Stone. どうぞ宜しくと私も名刺を出します。



右隣の方は環境問題に詳しい方です。九州の環境問題で一番気がかりな点は何ですか?人工林による土砂災害です。その後、九州山地の厳しい自然災害になる原因のお話を拝聴します。当然に言われることは納得することばかりです。このように見物者は様々な土地から様々な職業の方がお見えになっていいます。



楽と舞が始まり夜神楽の世界へ入っていきますと、穏やかで緩やかな舞が単調で飽きのこない笛と太鼓と和製タンバリンと木叩きが奏でる神楽のリズム、これは何か?これは過ぎ去りゆく時の流れを場面、そうだ、太古より過ぎ去り行くひとときを楽しむ事の心豊かなことよです。この世の楽しみの一つに流れる時間を楽しむことほど高尚な遊びは無し。そうか、このことが今回悟った大きな一つです。


祓川神楽-Ⅳ

2007年12月12日 17時50分09秒 | 民俗芸能
12月12日(水)

今年もいよいよ残り少なくなりましたが、都城市議会の一般質問傍聴に出掛けました。午前中に二時間、午後に一時間、主な質問内容は児玉優一氏(民主)が・職員による業務上横領事件について。・南九州大学への市民会館無償貸与について。・都城島津邸購入計画について。宮元正文氏(輝翔)が・九州縦貫自動車道宮崎線高原IC・都城IC間のIC設置について。・都城クリーンセンター建設に伴う地元説明会について。・入札における最低限価格について。午後三時からは来住一人氏(日本共産党)・都城島津邸整備活用事業について。・妊婦健康診査について。・生活保護行政について。



今さらと言うのも質問者に失礼ですが、大いに勉強させていただきます。都城市は北諸県郡・旧四町と合併して面積も三〇〇平方キロから倍以上に増えて、高崎町笛水までは車でも約五〇分ほどの距離、農村都市の様相を表して来ました。今後の市政はどうあるべきか、当然に基本方針が必要であり、何を主眼に置くか様々な事が考えられます。内容についてはもう少し熟慮してから纏めて見たいと思います。



宮元正文氏(輝翔)の・「九州縦貫自動車道宮崎線高原IC・都城IC間のIC設置について」について大いに関心を持ちました。広域圏に於いて道路はやはり基幹動脈であるという事を感じます。中途半端ですが、これから祓川神楽のアップ作業に掛かります。残写真六〇枚ほどです。




































































祓川神楽-Ⅲ

2007年12月11日 16時55分52秒 | 民俗芸能
12月11日(火)

今日は都城市議会一般質問三日目です。朝十時から午後三時迄四名の質問を拝聴しました。速記もなく録音もないので全体的な印象を述べてみます。市議会傍聴という体験が少ないせいか、市議質問者と行政応答者のやり取りが新鮮に見える場面もあります。或いは都城市の現状をかいま見る場面も多々あります。そう言う点では議会とは地域社会を知る勉学の場でもあります。



私の偏見も有るのでしょうか、長峯誠市長の大きなビジョンを探そうとしますが、次世代はどんな世代が受け継ぐのか、三八歳の市長見解、今ひとつ見えません。当然に各部長の現状報告は判りますが、率先して市民へ何をどう対応するか、具体的な施策が各議員の質問により追究されますが、そこには現状から先に見えものは何なのか、当然に対応は後手後手になる様を見ます。



政治に携わる者は何を基本とすべき、いずれ、一般質問の感想はもう少し熟成してから書きましょう。それより祓川神楽が大切です。続きの写真掲載作業に掛かりましょう。