緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

住吉社流鏑馬二ノ射手

2009年11月25日 16時30分34秒 | 民俗芸能
11月25日(水) 

今朝は深い霧、柳川原川のコガモは人家の直ぐ近くに定住し始めたようです。川藻も多くて餌には事欠かないようでアオサギが同じように近くで定住しております。河川に流れ込む家庭雑排水が減少してきたのか透き通る流れで川底が見えており、百年前は町水路源流として六〇年前は水田用水路として、三〇年前は下水道として、現在は盆地伏流水の水路として河川の役目も時代と伴に変化していきます。野鳥が身近に生息しているなんてサマになります。河川を清掃する人々、河川にゴミを投げ込む人々、水辺にもう一工夫ありますと街が落ち着いて見えるのかな?水辺は街の住環境に彩りを添える天からの贈り物。





午前中は書類作成ですっかり時間を取られて身動き出来ません。朝から夕方までぎっしりと予定が詰まってしまい住吉社の流鏑馬に想いを馳せる時間がありません。一時間ほど空いた時間で二ノ射手を務めたうら若き娘さんの写真を調整して上手く仕上がりました。射手の緊張した気持をどのように伝えるか写真と動画とでは感覚が異なります。やはり写真の一瞬の美しさに心惹かれてしまいます。動画はやはり映画をイメージして映画監督の世界だなと独りで納得してしまいます。動画に打ち込むには時間のセンスと英知が必要だな。片手間では上手く表現出来ないだろうと勝手に想像します。



今は流鏑馬について何も詳しいことは知りません。むしろ曽於市住吉社の流鏑馬が入口で射手の緊張した表情、鏑矢が的を上手に射当てた瞬間の感動か!射手と観客が一緒になる瞬間です。流鏑馬が南九州では知る範囲ですが宮崎市宮崎神宮・肝付町四十九所社・曽於市住吉社と比較的多いのも起源は何であろうと?五穀豊穣、悪疫退散、国家安泰と人々の暮らしのやすらけきを願う事が時代と伴に変化して行ったのだろうと想像します。




流鏑馬をインターネットで調べますと社団法人大日本弓馬会まで存在しており、かなり流鏑馬とは奥行きがあることが分かります。今年は時間の都合がつかずに肝付町四十九所社の流鏑馬見物は敵いませんでした。とりあえずは近くの住吉社と四十九所社の流鏑馬をたっぷりと堪能するのように心掛けます。どうやら住吉社の射手は女性が務めるのは臨時ではなくて昔からなのかもしれません。それなりに根拠があるのでしょう。




また、社務所前にテントを張り甘酒とコンニャクが振る舞われます。なんとも素朴な味で寒さのの中でひととき暖まります。後から声を掛ける男性がおり振り向きますと同じSG21会メンバーで曽於市は私の故郷と流鏑馬見物に来て頂いた事に嬉しげです。晴れの日は外から来て頂くことが何とも嬉しいものです。これは幼い日の記憶かな。



こうして地域社会で流鏑馬神事を含めた民俗芸能が次世代へ継承される事は子供に大きな影響を与えます。核家族時代、親が子に掌を返してどうするのだ?と思う時があります。子供教育は言葉だけではありますまいに。まるで動物を躾けるような言葉の連続で子供の拠り所は何処にあるのでしょう。射手の真剣な眼差し、危険は隣り合わせ、射手と観客が一体となる場面、何とも言えない故郷の郷愁を感じます。

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