みんなの幼稚園

ひぶな幼稚園での子どもたちの様子
モンテッソーリ教育について紹介いたします。

『子ども達に生かされた私の三つの青春』(3)戦争と長女の死

2019年11月20日 | キミヱ先生

(3)戦争と長女の死

 

近衛首相と東條陸相との意見が対立、遂に内閣が総辞職、東條内閣が成立しました。

東條は現役陸軍中将として首相、内相、陸相を兼任したのは昭和16年10月18日のことでした。

 

米、マッチ、砂糖、衣類等々が切符配給制になり、小学校は国民学校に替わり、大学、専門学校、実業学校修業年限が短縮、長髪は禁止となりました。

兵役法が改正され、丙種合格者も召集されることになりました。 そして

 

12月8日、遂に日本軍はマレー半島に上陸開始、ハワイ真珠湾を攻撃、戦線は東西南北に拡大し、連戦連勝のニュースが国民を酔わせました。

マイクロホンに立つ東條は「皇軍は各地に転戦連勝、まことにご同慶の至りであります。」と。

 

この分なら「大東亜」に日本が支配が確立するのも時間の問題、もう少しの辛抱と思っているうちに東京が空襲され、ミッドウェーで日本艦隊は大敗を喫したのです。

また、アッツ島では守備隊2500人が全滅、大都市の国民学校の生徒の集団疎開が始まりました。

 

日本軍は、各戦線で敗退に転じたのですが、報道が制限され国民はその事実を知らなかったのです。

人々はだんだん追い詰められ、住む家はなく、飢えに苦しみ、老人や赤ん坊の病気など見捨てられたようなものでした。

 

そんな中で、昭和19年、母が逝き、兄も逝き、そして長女も1歳3ヵ月のかわいい盛りに、とうとう逝ってしまったのです。

9月15日未明のことでした。

 

次々と大事な肉親を失い、更にまた、幼いわが子を亡くして涙も枯れ果てて、生きる気力を失ってしまいました。

子どもを亡くして、子どもは親の分身であることを心の底から悟った時、子どもの心も親の心も理解できる教師に再度出直そうと、この時決意したのです。

 

私は戦争を憎みました。勝っても負けても異常なことに違いありません。

1日も早くこの戦いが終わることを誰もがひたすら願ったのです。

 

昭和20年7月14日、釧路根室に大空襲が起こりました。

B29が五機の編隊を組み、それが五組で低空にうなりを立てて思うがままに転回し、爆弾を投下して去りました。

市内は地獄と化したのですが、我が軍の飛行機の姿は何もありませんでした。

 

そして8月6日、世界に初めての原子爆弾が広島に投下され、続いて8月9日、長崎にもこの恐ろしい原爆が投下、両市とも全滅の報に驚くばかりでした。

遂に1945年(昭和20年)8月15日、沢山の犠牲者のうえにたっての終戦だったのです。

戦争は兵士だけではありません。女の子どもも老人も、一木一草に至るまでを破壊し、焼土と化して終わるものなのでしょうか。

 

次回は(4)敗戦後の生活


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