∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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A-4 >御林方奉行所跡

2005-10-19 15:02:00 | A-4>影俊系水野氏




御林方奉行所跡
  愛知県瀬戸市水北町(現地番では300番地付近) Visit :2005-10-12 15:30

 尾張初代藩主 徳川義直は、狩猟を好み上水野北脇(愛知県瀬戸市水北町)に行殿(御成御殿)を建てて、水野山に鷹や鹿狩りなどの折、宿泊の場所とした。
寛文元年(1661)、二代目藩主光友は、この行殿を役所と官舎に改造し、春日井、愛知両郡の山林を管理する役目を水野権平正勝に命じた。ここを御林方役所と称し、初代奉行に正勝が就き、代々世襲で明治維新まで九代続いた。

役所の組織は、奉行を手代数名が補佐し、その下に組頭、締役二十数名、同心百十余名を配し、五組に分けられていた。各組には日を定め山林を警らさせ、それぞれの訓練を行わせた。所轄の山林における陶土発掘、薪木伐採、築窯などに関する申請および届書類は、御林方奉行を経由して藩丁に提出されたが、状況に応じては奉行が直接決済する権限を持つこともあった。

初代奉行水野正勝は、入尾城主致高七代の孫に当たり、幼名を久之丞、諱を権平と称し、これより代々権平を襲名した。
正勝は学者であり庶民の生活の実情や人情に通じていたことから、司法と人情を兼ね備えた行き届いた人物で、山廻りをするという前日には、百姓たちへ「緊急布告」を出すことを忘れなかった。
 「明日は、何の時刻に、何々林を乗馬で巡回するが、馬蹄の音を聞いたら、討伐違反の者どもは、直ちに物陰に隠れよ。馬蹄の音の聞こえぬ者は、大きな咳払いを一度するから直ちに逃げよ。二度咳払いを聞いても隠れざる者は容赦なく召し捕る」と申し渡したので、その日には一人も討伐に来る者はなかったとある。


☆旅硯青鷺日記
 奉行所跡には、以前は「御林方奉行所」と書かれた白く塗られた案内杭が立っていたが、経年の風雨により朽ち果てたことで、既に無くなっていた。地元の人に聞いてようやく写真の陶芸所を尋ね、当所とその東・西の家の三軒がもとの奉行所跡と知れた。
この陶芸所の裏(北)には林が残り、前(南)には当時は堀が廻らされていたと聞かれた。また敷地南西角には低い石垣が辛うじて、当時の面影を唯一残していると知れたので写真撮影した。この石垣まで当所奥さんが仕事を中断して先に立ち案内してくださったことに、あらためて謝意いたします。
採訪時は、日が西に傾き始めた頃で、写真は赤みを帯びてしまった。掲載の写真は陶芸所と石垣、全体のほか、参考までに跡地を地図上に赤いピンで四角く囲った。



御林方奉行水野権平家系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7cd38a1915a44c061bbade3fa364eaef

桓武平氏水野氏系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/777ff67bab506fc94b32ecf3b04681f4







地図上に赤いピンで四角く囲った所が「御林方奉行所跡地」矢印で示したところは、水野代官所跡である。




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