∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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R-4>水野郷の背景

2005-10-11 09:56:05 | R-4>水野氏諸他参考資料







水野郷の背景

 当ブログの主題「水野氏」発祥の地である、平氏系桓武平氏水野氏の故地・水野郷(愛知県瀬戸市)について、最近色々と資料が入手できたことから、それらを参照し編集したものを、今後の関連記事の参考資料として掲載する。

 『尾張太古之図』が示すように、太古における「水野」の地は入海の底にあった。
 古代、尾張は東部山地とそこから伸びた複数の半島により形成されており、現在の尾張の殆どが入海の中にあったことが伺える。古地図の文字が滲んで読みづらいが、愛知県北部は、丹羽郡、犬山市、小牧市、春日井市の一部が陸地で、中南部の一宮市、津島市、名古屋市西区枇杷島、および三重県長島の一部はその名が今も残るように、まさに島そのものであった。他の地域は現在の木曽三川と称される、北北東から南に流れる木曽川、揖斐川、長良川の大川と東から西に流れる庄内川のほか、その支流の幾多の川々が、境界もなく流れ込み、南からは伊勢湾の海水が潮の満ちる毎に、入海の奥深くまで入り込んできたと推測される。その後は、長い年月をかけて上流から土砂が運ばれ、泥沼が次第に原野と化していったのであろう。

 瀬戸の地は、その西にある東谷山の山並みが西に延び更に竜泉寺山と連なり、長母寺付近(名古屋市東区矢田町)までが半島を形成し、その南部低地の東止まりとなる瀬戸山麓にあり、相対する陸地が接近して、海が狭くなっている所、つまり狭い海峡で、「狭門(せと)・迫渡(せと)」と同意である瀬戸と称されるようになったと伝えられている。

 往時瀬戸山の北から西にかけては広大な沼地であったが、歳月を経て沼は枯渇し草木を生じ、現在も地名として残る、品野、曾野、玉野、水野と呼ばれる原野に変じていったものと推測されている。その中でも水野は其の昔「水沼(みずぬ)」と言われたほどの沼沢地帯であり、アシ・オモダカ・ハンノキなどの沼沢植物が生い茂り、南の瀬戸川、北の水野川がこの水野盆地の排水路となっていた。この「水沼(mizunu)」が後に「mizuno」と語尾が訛り「水野」となったものと考えられている。

 水野村の生い立ちについては、往時は沼沢地帯であったことから、少数の人家が辺りより少し高くなった場所に、所々邑を形作っており、このとは畦のような細い道で結ばれ、あたかも島と島を往還する笹舟の航路のようなものであったと伝えられている。この名残としてのことを「島」と呼び、地蔵島とか郷島(本郷町)などのように古い呼称が固有名詞となって残っている。当初は山田庄に属する一郷であったが、室町時代前期頃(1350)に上、中、下の三郷に区分され、上の郷、中の郷、下の郷と呼んでいた。結婚縁組みも概ね内で行われ、子供が成人すると付近に新家を建てたり、養子に出したりして、永い間には他の地域の村々と同様に、が皆親類続きで血縁の網となっていった。

 東谷山(旧称東国山)は古墳や遺跡に富んでおり、当地域の地名ともなった尾張氏は、遥か昔から東谷山を中心として活躍し、同氏の先祖を祀る尾張戸神社は、成務天皇五年(135)、尾張國造乎止与命の女、宮簀姫命の勧請により創建されている。また小金(おがね)神社(金神社)は、天香語山命十五世の神孫である尾治金連をり、両神社ともに水野村に在った。こうしたことで、水野郷は、隣接する志段味郷(名古屋市守山区)とともに、早くから開発され、土地も豊かで景色も良く平和な村であった。当郷の変遷として時には平家の所領となり、時には斯波氏の領有に皈したこともあったが、後には織田氏や豊臣氏の勢力下に入り、さらに徳川氏の親藩尾張公の支配するところとなり、明治まで続いた。

 桓武平氏水野氏の出自については、大治四年(1129)、鎮守府将軍 平 良兼の子孫で、水野氏始祖となる滝口影貞が尾州師桑村(*1)から入郷し、姓も水野と改め、下の郷入尾(瀬戸市鹿乗町)に居を構えたことに始まる。
 治承・養和・寿永の頃(1177-1184)、二代影俊の子の高家が志田見・水野郷の郷司職に任ぜられた。承久三年(1221)「承久の変」では、高家の子で水野城主となった高康、孫の有高、高康の弟で志田見(志段味)城に住んだ高重、行高らは、山田重忠に属し、朝廷方(後鳥羽上皇の院宣)に応じて起ち、吉野で幕軍二十万と対戦しほぼ全滅、重忠は嵯峨で自刃した。高康の嫡男有高が戦死したことから、高康は弟の高俊を養子として京都に隠棲した。
 かくして入尾の本家は途絶えたが、志田見(志段味)城に居た高重の弟高俊(滝口四郎)の子高致(たかむね)が水野氏に復して入尾の城主となった。建武二(1335)、その子致国(*2)は中の郷大平山に築城して転居した。致国の兄致氏、致顕(致秋)父子は、いずれも足利氏に従って戦功を立て、致顕の子致高は、応永十九年(1412)、備中守に任ぜられたが、その年十二月二十八日城中で病死し、上の郷感應寺に葬られた。法名は「義雲院仁峯宗智居士覚位」で、位牌は今も当寺に安置されている。後年江戸期になって、致高から六世の末が水野村で水野権平を名乗り、尾張藩の御林方奉行となり明治維新まで代々続いた。また、近在の志段味、新居(愛知県尾張旭市)などに点在する水野氏も多くこの一族と伝えられている。

 水野郷には、この桓武平氏水野氏とは別に、源氏の流れを汲む源氏系小川水野氏がいた。小河氏祖小川三郎重房は、当水野郷に移住したが、その子又三郎重は、ほとんど小河に在したものの、姓を水野と名乗っていた。天平十五年(1360)、重房から七代後の子孫、水野又三郎中務丞が、仁木義長に味方し、将軍足利義詮の臣、土岐直氏と戦い、攻められて小河城は廃滅したことから、一族は再び水野の郷に入り込んだのである。また、諸説では長野県の小川村をはじめ全国各地に流浪したとも伝えられおり、その真相は不明である。その後数代を経て、文明年間(1469--)、水野蔵人貞守(*3)が、小河城を修復し転居した。貞守の子孫が後の源氏系小川水野氏となる。

 このように、桓武平氏瀬戸水野氏と源氏系小川水野氏の二派が存在するが、どちらの水野氏が瀬戸における水野姓の本流なのかは、今となっては判然としない。尾張藩の碩学天野信影は「知多郡の水野も皆一律なり」と説いてはいるが、清和源氏系とする小川水野氏には、清房の父源重遠は、義父源重宗の女婿で直系の血脈はなく、重房の子である重(*5)は、子が早世して跡継ぎが無かったことで、右大臣藤原道経子、経村(*4)を養子として迎えたことから、ここにおいても血脈は途絶えたことになる。この後の小河水野氏は源氏を名乗るとともに「藤原」を称しているが、藤原経村を祖とすれば納得のいくところではある。別系統の水野太郎左衛門家もまた藤原を名乗っている。ただし、「註釈3」に記したように、実質小河水野の祖とも捉えられている、貞守自体が果たして平氏系なのか源氏系なのかといった大きな疑問が残されており、数代後の重要人物「忠政」についても領主交替の疑惑がからみ、こちらもまた昭々としない。
 瀬戸在住の水野氏については、『東春日井郡誌』には「子孫は永くこの地に蕃衍(はんえん=子孫の多く盛んなこと)した」と書かれている。

  ともあれ、水野氏のルーツ採訪は、まだまだ緒についたばかりであり、この先解明できるものもあるのではないかと想見されることから、疑問は疑問として残し、まずは結論を急がずに息長くゆっくりと続けていきたいと思っている。


 ここで再び『尾張太古之図』に戻ると、当時になるとこの図よりは、かなり原野化が進み陸地が多いと推察されるが、「瀬戸」と知多半島の東付け根にある「小河」は、三河との境界線沿いにほぼ真っ直ぐに結ばれており、また水路を辿れば途中には、水野氏が所領した井戸田(名古屋市瑞穂区)や戸部城址があり、大高城跡の近くも通ることになる。
熱田から東に向かう鎌倉街道が発達する以前は、京から東へ下るには、美濃を迂回する陸路に比べ、美濃や伊勢の海岸から海路で大野(愛知県常滑市)に渡る船旅が主流であったことが推知されておもしろい。


[註]
*1=『水野氏系図並古状』昭和二十七年十二月東春日井群小牧町(愛知県小牧市)津田応助氏所蔵書写に「尾州府志云―(中略)―経家ハ致経二男ニシテ尾州師(リ偏)桑ニ住ス故ニ師桑平次と称スル」とあり、この経家の子が滝口影貞である。
この古い地名は桑山氏が産土神とする尾張国海東部諸桑村(現愛知県愛西市諸桑町郷城76)に鎮座する「諸鍬神社」付近と考えられる。この神社は、桑山一族の移動に伴い但馬国、紀伊国、奈良県葛城市などに勧請、遷座した。
*2=鎌倉建長寺の高僧覚源禅師に帰依し、暦応三年(1340)、定光寺を開山している。
*3=(1437)生まれで、水野郷において、仏道に帰依し感應寺に香華堂を建立したと記録にある。貞守についても諸説あり、一説には平氏系桓武平氏水野氏である影俊の弟影清の子孫、雅樂頭宗國(うたのかみむねくに)の弟とも云われている。
*4=水野近範経村。源実朝に仕え、京都西嵯峨の水野邑長でもあったが、重の養子となり、後に清房と改めた。将軍藤原頼経執権北条泰時の時「小河地頭職(じとうしき)」に補任される。 
*5=『尊卑分脈』では重までしか記していない。


☆旅硯青鷺日記
 これまでの投稿は、主に小河水野系と水野太郎左衛門に関連した記事が多かったが、愛知万博も終わり、道路の制約も解除されたことから、ようやく桓武平氏水野氏についての投稿に注力できるようになった。手始めに「瀬戸市水野公民館」を訪れたところ、同館のご厚意により、思い掛けずも、沢山の貴重な資料の貸出が叶った。この記事上で改めて感謝の意を表したい。
 当記事については、その内の『水野のあゆみ』梶田義賢著(非売品)等から抜粋させていただいた。著者の梶田氏は感應寺前住職で、一般的には『平姓水野文書』と称される御林方奉行 水野権平家所蔵の古文書の研究家としても著名であった。



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