∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >大高城跡と大高山春江院 (新訂版)1/2≪考証≫

2005-10-02 18:21:43 | C-1 >小河氏系水野




大高城跡と大高山春江院 (新訂版)1/2≪考証≫


§大高城
  愛知県名古屋市緑区大高町城山 Visit :2005-05-30 13:00

 室町時代の永正年間(1504~1520年)、知多半島の脊梁山地の末端近くに、西側が開けた丘陵地があり、その小山上に山城が築かれた。標高20mで、『寛文村々覚書』には、東西五十九間(107m)、南北十八間(32m)の規模と書かれており、『大高村古城絵図』(蓬左文庫蔵)には、本丸・二之丸・四方をめぐる二重の堀・土居などが描かれている。築城者は花井備中守で、築城後は、同氏が居城したが、戦国時代の天文元年(1532)から永禄元年(1558)の二十六年間は、水野近守父子(*1)が居城した。
天文十七年(1548)、西三河の支配をめぐって今川氏と織田氏が争った、第二次小豆坂の戦い(*2)が起こり、織田氏が総崩れとなったことで、その勢力は三河は疎か、尾張国内の鳴海城(愛知県名古屋市緑区鳴海)、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯までもが今川氏の支配下となった。水野近守は初め今川氏に属していたが、後に織田氏に就いたため、大高城もまた今川方の鳴海城主山口左馬之助に攻められ、今川義元の家臣鵜殿長照の配下となった。しかし、織田信長(1534-1582)は、次第に逆襲に転じ、これら三城の内、最も織田領に食い込む鳴海城の周囲を取り巻くように、丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築き同城を圧した。更に大高城を、鳴海城や沓掛城との連絡を遮断し孤立させるため、鷲津・丸根の両砦を城の北東と南東に築いた。
永禄三年(1560)桶狭間の戦いの時、今川義元は、松平元康(後の徳川家康)に大高城を守る鵜殿長照を支援するため、当城に兵糧を運び入れることを命じた。元康は直ぐさま於大の方の住む坂部城(*3)を訪ね母と再会し、大高城に搬入する兵糧米の調達や、それを運搬する人夫の確保などを依頼した。於大の再婚した夫、久松俊勝は、織田氏と今川氏の狭間にあり、大方の見方は少勢の織田に勝利はないとみていたことで、俊勝も於大と同様に元康の頼みを快諾し協力した。元康が率いる岡崎軍は、直接大高城に向かわずに、織田軍の丸根砦と鷲津砦を攻めた。この奇手に慌てた織田勢は、城を包囲していた軍勢を、両砦に兵を分散し援軍として差し向けた。元康はその間隙を縫うように、坂部の民衆が荷駄で運搬してきた兵糧を城の南方より運び入れ、無傷で大高城入場に成功し、そのまま当城を守った。これが有名な「大高城兵糧入れ」である。
その翌日の戦闘で今川義元が討たれ今川方が敗走すると、城兵は引き上げを勧めたが元康はきかなかった。伯父の水野信元が浅井道忠を使いとして義元の死を告げ帰国を促した(『武徳編年』)。これにより今川兵敗走の情勢が明らかになったことで、午後十一時過ぎ、月の出を待って道忠を道案内として織田軍が包囲する大高城を突破、一路知多半島を南下し坂部城に到着した。母子で無事を喜ぶが、束の間の休息の後、再び闇の中を南下し、坂部勢の手引きにより、成岩浜より舟で三河大浜に渡り、翌日には祖父の城である三河岡崎に帰城できた。
その後大高城は戦略的な価値を失い廃城となったようだが、水野大膳はその後も邸を構えて織田信雄に仕えていた。(『大高町誌』)
元和二年(1616)、尾張藩家老の清水忠宗が城跡に館を構えたが、明治三年(1870)廃止された。
 現在は、本丸・二の丸とこれを分ける内堀がよく残っているが、外堀土塁などの急斜面の地形を有するものは、安全上の理由により改変され、昔の面影は薄くなっている。当城跡は、丸根・鷲津の両砦とともに昭和十三年(1938)、国の史跡に指定された。



§大高山春江院
  愛知県名古屋市緑区大高町西向山5番地 Visit :2005-09-10 11:00

曹洞宗。大高山と号し、弘治二年(1556)、大高城主水野大膳(*4)が、父和泉守(春江全芳禅定門*5)菩提のため、横須賀村長源寺(*6)四世峰庵玄祝を開山とし、位牌祠堂として創建した。本尊は多宝如来。現本堂は文政十三年(1830)再建。鐘楼は慶応元年(1865)の再建であり、書院は明治十二年(1879)、有松絞りの開祖、竹田庄九郎宅、脇本陣を移築したものといわれている。
本堂は間口九間(16.36 m)、奥行七間半(13.63 m)、入母屋造本瓦葺、前面向拝(*7)一間(1.818 m)。向拝では絵様、彫刻を派手に使っている。客殿は、玄関に続く廊下に面して建ち、床、棚、書院付き十畳間と、隅に押板床(*8)を設けた十五畳の次の間からなり、矩方(角方向)に幅一間の広縁が廻る。天井は棹縁天井で、床の間天袋や室境に襖絵があり、広縁に杉板絵が残っている。

 当院ご住職に尋ねたところ、当院には、位牌のみが安置され城主や諱(いみな)などは一切不明であり、詳細については宇宙山乾坤院(*9)に聞いて欲しいとのことであった。
後日、改めて、位牌に記された法名を照会したところ、位牌には「春江全芳大居士」と記されており、行年は記されていない。当院においては、この外の資料はないと聞かれた。

<2/2につづく>



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2 コメント

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Unknown (foxblade)
2006-09-16 09:31:36
「元康は直ぐさま於大の方の住む坂部城(*3)を訪ね母と再開し、」の「再開」は「再会」。

「元康が率いる岡崎軍は、直接大高城を攻めずに、織田軍の丸根砦と鷲津砦を攻めた。」の「大高城を攻めずに」は「大高城に向かわずに」の間違いではないでしょうか。
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感謝>foxbladeさん (∞ヘロン)
2006-09-16 11:36:44
foxbladeさん

 ご指摘の「再会」は変換ミスでした。また元康が向かった「大高城」は「今川方の城」であったわけですから、味方の城を攻めるという表現は、明らかに誤りでした。早速訂正いたしました。どうもありがとうございました。

 当ブログ記事には、色々と不備な箇所が多々あると思われますので、これからもご指摘くださいますよう、どうかよろしくお願いします。

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