∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >大高城跡と大高山春江院 (新訂版)1/2≪考証≫

2005-10-02 18:21:43 | C-1 >小河氏系水野
 室町時代の永正年間(1504~1520年)、知多半島の脊梁山地の末端近くに、西側が開けた丘陵地があり、その小山上に山城が築かれた。標高20mで、『寛文村々覚書』には、東西五十九間(107m)、南北十八間(32m)の規模と書かれており、『大高村古城絵図』(蓬左文庫蔵)には、本丸・二之丸・四方をめぐる二重の堀・土居などが描かれている。築城者は花井備中守で、築城後は、同氏が居城したが、戦国時代の天文元年(1532)から永禄元年(1558)の二十六年間は、水野近守父子(*1)が居城した。 . . . 本文を読む