∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >刈谷城跡

2005-09-05 22:34:27 | C-1 >小河氏系水野
刈谷城跡
   愛知県刈谷市城町1   Visit :2005-09-01 13:40

 刈谷城は、天文2年(1533)、水野忠政(徳川家康の外祖)によって築かれ、亀城とも呼ばれた。忠政は、それまでの居城尾張緒川城へは嫡男信元を置き、自らは刈谷城へと移り、刈谷城をはじめ大高・西尾などの六城主となった。

忠政の死後、水野信元が当城も含めた二代目六城主を継いだ。信元の幼名は忠治、小字は籐七郎といい、後に四郎左衛門と改め、下野守と称した。始めは駿河の今川義元に属したが、天文十三年(1544)九月、義元との関係を絶ち織田信秀に従った。信秀の後継信長にも引き続き従い、信長の命により岡崎城を攻め家康と戦うが、信長と家康の和解を講じ、清須同盟を締結させた。永禄三年五月十九日(1560年6月12日)、桶狭間の戦いの際、今川義元の敗軍により、当城は焼き討ちを掛けられ焼失した。天正三年(1575)十二月二十五日、信元は、佐久間信盛の讒言に伴う信長の命により、家康により誅殺され、当領地は一旦信盛に与えられたが、信盛は人柄に癖があり、後に石山本願寺攻略の無策を咎められ、高野山に追放、大和の十津川で病疫した。
 水野信元の重臣は退散し、領地は没収されたことで、宗家小川水野家は途絶えることとなったが、信元の弟忠重が当領地を継ぐこととなる。

 水野忠重は、幼名籐十郎または總兵衛と称し、早くから徳川家康に仕え戦功があった。天正八年(1580)八月、織田信長の命により、兄信元の旧領三河刈谷を継ぎ、同十二年(1584)三月、嫡男勝成(かつしげ)と共に豊臣秀吉に従い、石川藪正と共に武者奉行となる。同十五年(1587)七月、豊臣の姓を賜り、従五位下和泉守に叙任する。同十八年(1590)九月、伊勢神戸城に四万石で移封されたが、文禄三年(1594)再び刈谷に転封され、慶長五年(1600)、忠重により刈谷城が再建された。忠重はその後、再度家康に近侍し、同年(1600)七月十九日、池鯉鮒(愛知県知立市)で堀尾吉晴(出雲隠岐両国領主)と酒を飲み、その際、石田三成の郎党加賀野井秀望により殺害された。享年六十歳と伝わる。

 忠重の嫡男水野勝成は、小字は國松、後に籐十郎または六左衛門と称した。始め徳川家康に仕えしばしば戦功を立てるが、ある事情で亡命し、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政等に歴任し、慶長四年(1599)、再び家康に仕え、関ヶ原の合戦では大垣城を攻め落す戦功を立てた。同五年(1600)、父忠重の跡を継いだ勝成は、同十五年(1610)五月、従五位下日向守に叙任し、さらには大阪両役においても殊功があった。同八年(1603)二月、江戸幕府開府に伴い、勝成が三万石で幕藩刈谷の初代となるとともに、結城水野家の祖となった。元和元年(1615)七月、六万石に加碌され大和郡山藩に移封された。

刈谷藩は、勝成の後を上野小幡城(名古屋市守山区西城二丁目)から、勝成の弟水野忠清が二万石で入封後、三河吉田へ移封された。忠清は、その後信州松本藩に転封され、嫡男忠職が同藩を継ぎ、沼津水野家の祖となる。二男忠増は、鶴牧水野家の祖となった。

 当藩は、その後、松平(久松)家、松平(深溝)家、稲垣家、阿部家、本多家、三浦家、土井家の各譜代大名が藩主となる。明治四年(1871)の廃藩置県後、刈谷城は政府の所有となり、城郭の建物は取り払われた。大正二年(1913)になって大野介蔵に売却され、亀城殖産合名会社を創設し、旧城跡を永久に保存するとことになった。昭和十一年(1936)になって当時の刈谷町から旧城跡を公園にしたいと意見書が出され、同町に売り渡され、昭和二十五年(1950)には都市計画公園に指定され、亀城公園となり現在に至る。




☆旅硯青鷺日記

採訪時は、9月の始めとあって日差しもきつく、じりじりと焼け付く中を亀城公園に入った。人影はほとんど無く、真昼の静けさが漂う。あまりにも整備された城跡に趣はなく、西面の石垣にわずかに城の面影を残すのみであった。
 写真は、刈谷城跡の図面と本丸跡の石碑である。



小河水野系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95








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