∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >成道山松安院 大樹寺

2005-09-03 10:39:06 | C-1 >小河氏系水野
成道山松安院 大樹寺
  愛知県岡崎市鴨田町広元5-1  Visit :2005-09-01 09:00

〇水野信元と嫡男信政殺害の地(『修羅の器』澤田ふじ子著 より抜粋)

 岩村城(岐阜県恵那市岩村町)は、源頼朝の重臣加藤景廉(かげかど)が文治元年(1185)、遠山庄地頭に補せられ創築されたものであり、戦国時代には、東は甲信の武田信玄、西は濃尾の織田信長、南を三遠の徳川家康といずれも天下を狙う武将達に囲まれ、各々の重要な前線地となっていた。元亀三年(1572)十一月、岩村城主遠山影任は、武田軍の秋山信友に攻略され討死にして開城したが、影任の妻で信長の叔母つやは、城将についた秋山信友の妻となり、子のない遠山夫妻の養子としていた信長の子於坊を、武田方に差し出し、人質にしてしまった。これに信長は激怒し、嫡子信忠に岩村城奪回を命じ、城を包囲させた。天正三年(1575)十一月、武田勝頼は岩村城救援のため甲府から出兵し、城外で信忠軍と戦い千余の兵を討たれた。しかし勝頼は、同年五月二十一日の長篠設楽原合戦の雪辱を期して陣を一歩も退かなかった。こうなると信忠軍だけでは防ぎきれないと判断した信長は自ら出兵した。

 包囲は五ヶ月間にも及び、岩村城の土倉の糧がつきながらも、なお秋山信友が交戦していることに信長は不審を抱き、水野信元が足利義昭から内書をうけ、武田勝頼と密約を結び、武田軍の後詰めがくるまで、食料を密かに岩村城に運び入れていたという噂を詮議した。その噂の証拠として、食料に窮した岩村の城兵達が、城中の財宝や鎧、馬具、太刀の類を間道からこっそり外に運び、信元の領民に渡していたことがあげられた。信元の支配地、尾張緒川や刈谷は、岩村城からさして遠い距離ではない。緒川水野家の領民が、勝手に城兵との交換に応じたものだと弁護する人々もあったが、時の勢いは信元を不利に導いた。
「領民の恣意だといいまするが、信元は人目を眩ませるため城中の品々を買い取らせたのでござる。水野信元の武田方への内応は、もはや疑いがございませぬ。一日も早く誅さねば、お家が危のうございまする」と、以前より信元と反りの合わない佐久間信盛が、悪い風説の先鋒となり信長に進言した。信長は直ぐさま、国目付大塚清兵衛などを西三河や東濃に派して真相を探らせた。すると佐久間信盛がもらした風説が、信憑性の高いことが解ってきた。緒川水野家は、古くは織田家に敵対したが、信元は信長の父信秀に臣従し、織田家のために長年尽くしてきた。また家康の伯父である信元は、信長と家康の和解を斡旋した清須同盟(永禄5年(1562))の功労者でもあることから、信長は狐疑を深めながらも、なお躊躇する気持ちがあった。そこで信長は、大塚清兵衛に国目付としての見解を求めた。「されば申し上げまする。てまえは、風説の真相よりも、信元殿が知多と碧海両郡で十八万七千石を領され、併せて六城の主であるところに、重きを置いて考えたいと存じます。これだけの領地を持つ大名が、ひとたび武田方と結託すれば、いかがなりますやら。まして徳川殿とは伯父、甥の間柄。取り越し苦労かも知れませぬが、用心に過ぎたるはございませぬ」と述べた。清兵衛の真意を見抜いた信長は、直ぐさま家康に信元の仕手を勤めさせる旨の使いとして、国目付の大塚清兵衛を遣わした。清兵衛は、予想された家康の抗弁を最後まで信長の意向として弁護を取り次ぐ態度を見せなかった。家康は、仕方ない仕儀ととらえたが、伯父、甥としての信義や外聞を憚り呻吟がはじまった。伯父を討たねば、自分が疑われる。伯父を討てというのは、信長が自分の本心を確かめているのだと、家康は既に気づいていた。一晩中、まんじりともせず考えた家康は、翌朝、鳥居忠元を、緒川城代の久松佐渡守俊勝のもとへ使いを出した。俊勝は信元の重臣であり、父広忠に離別された家康の生母於大を、妻にしていた。信元とは義兄弟になり、家康は生母を通じて、ただならぬ間柄となる。鳥居忠元は久松俊勝に、主人は信元様に対面して真意を確かめたい。誠でなければ、ご一緒に申し開きの労を執りたいとおっしゃっていると一部始終を語り、俊勝は尤もな分別と頷いた。

 すぐに事情を明かされ驚いた信元は、同三年(1575)十二月二十五日、家康に会うため数十人の供を従え、対面の場所に決めた岡崎の大樹寺にやってきた。家康は信元を討つため、寺内に兵を配した。信元と嫡男信政は、何の不審も抱かず、案内されるまま客間に入ってきた。待ちかまえていた平岩親吉と鳥居忠元が、二人を一刀のもとに切り伏せた。異変を知った供回りにも、岡崎衆が殺到した。この事件のことを、世間では、徳川様がご宗家水野様とご対面、真意を質され信長様にお取りなしをとおっしゃった直後に親子が果てたと伝わっており、佐久間信盛の讒言によるものと噂されている。家康は伯父を岡崎に招いたことで、世間体を繕ったことになる。しかしこの四年後に家康は信長から、同じ嫌疑を受けた正室築山殿ばかりか、長子の信康まで自らの手で討つことになるとは、夢想だにしなかったであろう。その後、水野信元の重臣は退散し、領地は佐久間信盛に与えられたが、信盛は人柄に癖があり、後に石山本願寺攻略の無策を咎められ、高野山に追放、大和の十津川で病疫した。
こうして、宗家緒川水野家は途絶えたが、信元の娘妙源尼が第四代河和城主戸田孫八郎守光に嫁ぎ、嫡男戸田光康をもうけ、家康の意向により、後の河和水野租水野光康となり、信元の名跡を嗣ぐこととなる。


〇大樹寺の草創
成道山松安院 大樹寺は、安城城主松平左京亮親忠(法名大胤西忠)(*1)が、真蓮社勢誉愚底上人を開山として、文明7年(1475)2月22日創建した浄土宗の寺院である。創建のいきさつを寺伝は次のように伝えている。
 応仁元年(1467)8月23日、尾張品野(*2)、三河伊保(*3)の軍勢多数が井田野(*4)に攻め寄せた。親忠は5百余騎で伊賀村の東いらご縄手(*5)で迎え撃ち、一夜と半日の戦いでこれを撃破、細川(*6)、大沢まで追撃して潰走させた。このときの戦死者を葬った塚を首塚とも千人塚とも呼んだが、その後9年を経た文明7年(1475)になって、戦死者達の亡霊が騒ぎ出し、塚がしきりに鳴動してときの声がたえることなく、近辺に悪病が流行することになった。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建て、碧海郡宇祢部郷福林寺(*7)の住職勢譽愚底を招いて7日間の別時念仏を修し、その功力で亡霊を鎮めた。この念仏堂は後の鴨田西光寺(*8)で、その後親忠は勢譽を開山とし菩提寺として大樹寺を建立し、徳川三百年の最も崇敬された寺となった。
 もつとも、この寺伝には異説が多い。大樹寺そのものが亡霊を鎮めるためのものと言い、あるいは鎌倉時代以来大寿寺と言う浄土宗の草庵があったという説もある。

 徳川家康は、19才の時、桶狭間合戦(永禄3年(1560)5月19日)により、今川義元が倒れたことで身の危険を感じ、大高城から大樹寺へ逃れ、十三代住職登誉上人に先祖の墓前で自害すべく覚悟のほどを表わすと、上人の言葉は「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)の経文―戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目―と訓し、悩める家康を翻意させ、家康はこの八文字を終生座右の銘とした。
                  (『大樹寺の歴史』『大樹寺のしおり』より)

[註]
*1=別称 安祥城、森城(愛知県安城市安城町赤塚) 永享12(1440)和田親平築城 、
   歴代城主 和田、織田、松平、織田信秀、 形式 平城
   松平四代親忠は、家康より六世の租
*2=愛知県瀬戸市品野町
*3=愛知県豊田市伊保町
*4=愛知県岡崎市井田
*5=愛知県岡崎市伊賀町
*6=愛知県岡崎市細川町
*7=阿弥陀院福林寺 愛知県豊田市畝部東町寺裏5
*8=愛知県岡崎市鴨田町字向山38-1


☆旅硯青鷺日記
 長い長い夏休みを終え、9月初日から採訪を再開しました。
 手始めとして夏休みに読んでいた、常滑水野家の水野監物の事を書いた長編歴史小説『修羅の器』澤田ふじ子著に、水野信元の最後の経緯が詳しく載っていたので、これを引用し他の資料と併せて採訪記としました。
 夏休み中に、既掲載記事の下に記事に関連した系図へ「リンクする文字列(クリックするとリンク先にジャンプする文字列)」を追記しました。これは、以前よりブロガーからのご要望があったのですが、私の知識・技量不足により延び延びになっていたものが、『できるブログ』を読んで、ようやく実現できました。
掲載の写真は、大樹寺の山門と座敷です。

小河水野系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95







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6 コメント

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清洲同盟について他 (巴々佐奈)
2009-01-18 09:21:06
水野青鷺様
 お世話になっております。巴々佐奈です。ブログ記事拝読させていただきました。
 天正三年の水野信元の死につきましては、永禄五年に結ばれた清洲同盟の変質というものがあると考えております。以前、歴史雑誌に掲載された平野明夫氏の論文を読んだことがありまして、そこには長篠合戦の前後で徳川家康から織田信長への書札礼が同盟者のそれから、主従のそれに近いものに変わったという興味深い指摘があります。
 清洲同盟は織田信長と徳川家康の二人だけの関係を規定したものと考えられていますが、私はその中に水野信元と石川数正も対等の同盟者として含まれていたのではなかったか、と考えています。その後、信長は岐阜に、家康は浜松に根拠地を移し、家臣達を移住させて専業武士団を形成しましたが、水野信元と石川数正はそれぞれ本拠である知多半島と矢作川流域に勢力を保っております。信元を讒言した佐久間信盛の所領のありかた(信長の折檻状にそれは記されています)は知多半島の利権を握る水野信元のそれとは対照的ですね。家康が信長に家臣としての礼を取るようになった結果、これらの地域のありようにもしかるべき処分が取られるようになったのではないかと推察しております。
 大樹寺については、松平信光の死後も岩津宗家の後継者が在京だった中、庶家出身の親忠が一門の家政を見るために、出家の体裁をとる必要があった。その為に建てられたものではないかと拙稿にて書かせていただいております。大樹は将軍の唐名であり、大樹寺を建てた親忠の子孫が徳川将軍家となったことは本当にすごい偶然であると思います。これだから歴史は面白いですね。
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歓迎> 巴々佐奈さん (∞ヘロン)
2009-01-18 16:33:41
 ようこそお越し下さいました。(^o^)
当ブログでも、貴サイト「川の戦国史」をブックマークにリンクさせていただきましたので、多くのブロガーさんのご利用を期待しています。
 拙記事に関する精緻なコメントを頂きまして、誠にありがとうございました。コメントいただいた直後に外出いたしましたので、ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
 
>清洲同盟は織田信長と徳川家康の二人だけの関係を規定したものと考えられていますが、私はその中に水野信元と石川数正も対等の同盟者として含まれていたのではなかったか、と考えています。
この件に付きましては、しっかりと確認はできていませんが、「水野家文書」に信元が信長と家康との仲介を謀ったと記されているそうです。出典はハッキリしませんが、「今ヨリ水魚ノ思ヲナシ、互ニ是ヲ救ン事聊モ偽リ有ベカラズ」という起請文を交わし、『牛』という字を記した誓紙を三等分に分けそれぞれが飲み同盟が成立した」という記事がありますが、もしこれが事実だとすると、巴々佐奈さんがおっしゃるように石川数正はさておき、信元は同盟に加盟していたことになろうかと思います。もし、この出典をどなたかご存じでしたらご教示下さい。
 
それから、巴々佐奈さんは、大樹寺において水野信元が織田信長の命により家康の手のものにより誅殺された事件についても、感心をもっておられるとのこと、これについては拙ブログに記したように、信元は自刃したのではなく一方的に殺害されたのだと考えています。
>信長は、大塚清兵衛に国目付としての見解を求めた。「されば申し上げまする。てまえは、風説の真相よりも、信元殿が知多と碧海両郡で十八万七千石を領され、併せて六城の主であるところに、重きを置いて考えたいと存じます。これだけの領地を持つ大名が、ひとたび武田方と結託すれば、いかがなりますやら。まして徳川殿とは伯父、甥の間柄。取り越し苦労かも知れませぬが、用心に過ぎたるはございませぬ」と述べた。
この出典も明らかではありませんが、佐久間信盛の讒言は表向きの口実であって、真相は「信元殿が知多と碧海両郡で十八万七千石を領され、併せて六城の主であるところに、重きを置いて考えたい」のが本筋で、信長の天下統一には、直臣になりきれていない年長の信元は、統治に邪魔な存在であり排除したものと考えています。
この信長の手法は、この後も佐久間信盛らを追放するなど、さらに顕著になっていきますね。
この時期の西三河地方の動向を巴々佐奈さんが解明して下さることを期待しています。

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Unknown (巴々佐奈)
2009-01-20 00:37:30
水野青鷺様
リンクありがとうございました。こちらもリンク貼らせて戴きました。よろしくお願いいたします。清洲同盟関連の諸資料は時間があれば調べておきたいと思います。
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リンク御礼 (∞ヘロン)
2009-01-20 01:50:17
巴々佐奈さん
 早速リンクいただきありがとうございました。また清洲同盟のこともお調べいただけるそうで、楽しみにお待ちしております。
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巴々佐奈さんへ追記 (∞ヘロン)
2009-01-25 12:47:13
巴々佐奈さん
先に、「今ヨリ水魚ノ思ヲナシ、互ニ是ヲ救ン事聊モ偽リ有ベカラズ」という起請文を交わし、『牛』という字を記した誓紙を三等分に分けそれぞれが飲み同盟が成立した」という記事の出典について、昨日失念していたことに気付きました。
 これは、『新訂寛政重修諸家譜』巻第三百二十八「清和源氏 満政流 水野」の「信元」の項に――
「[前略]其後信元右府(織田信長)いひけるは、東照宮(家康)はちなみ(因縁)ありといへども、信元私なくしばしばこれとたゝかへり。今氏眞と隙ありて、織田今川両家の敵をう(受)く。しかれども武勇すぐれたれば和をこ(請)ふ事あるまじ。はやく和議を結ばれば、國家の利ならむと。右府大いによろこび瀧川一益に命じて和をこ(請)はしむ。信元もまた使いをまいらせ、西三河は代々の御料(領地)なれば、今右府と好を通じ、舊(旧)領の地をおさめたまはゞ、祖先への孝なるべしとすゝめたてまつる。これにより東照宮御許容ありて右府も西三河の城々をみな岡崎にかへし、和議とゝのひしかば、東照宮尾張國清洲にいたりたまふ。信元御先に候し、右府と會盟(諸侯が集まって盟約を結ぶ)あるのとき、信元も血判を加へ、また小き紙に牛の字を書きて三にきり、三人あひ共にこれを呑せたまふ。[後略]」


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修正 (∞ヘロン)
2009-01-27 02:30:33
前記の「[前略]其後信元右府(織田信長)いひけるは、」は「[前略]其後信元右府(織田信長)にいひけるは、」の誤りにつき修正します。


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