∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >尾張高野山総本山 岩屋寺

2006-05-31 04:31:51 | B-1 >水野太郎左衛門系


尾張高野山総本山 岩屋寺
  愛知県知多郡南知多町山海間草 109    Visit :2006-05-25 15:30


  『岩屋寺誌』から抜粋
♦沿革(岩屋寺蔵古文書による)
1.開基
 霊龜元年(715)乙卯十一月十八日、
天正天皇の御宇、勅使として鸞(オシ)小路中納言實直卿を差遣され、行基菩薩を導師として、仝十二月十八日開眼供養したと伝えられる。
其の後、壱千弐百六十餘星霜を経た(*1)。
2.弘法大師の来山
 平城天皇の大同三戊子年(808)に来山、清浄無垢な此の仙境を愛し、己が弘通(*2)の本山たらんとせられたが、僅かに一谷一峰を闕(カ)く爲とて思い止まれたと云う。
其の後、弘仁七年(816)、高野山に金剛峯寺を創建されてより再び諸国遍歴の途、此の霊域捨て難く三河国より知多郡大井に上陸、須佐を経て再び当山に留錫(*3)、遂に巌窟を穿って百日の護摩を修行された。その護摩の灰を以て一寸八分(5.4cm)の千首観音の尊像を作り、行基菩薩の御作聖観音の御光の中へ奉安されたと云う。是が今の奥之院本尊である。時に天長八年辛亥(831)四月。
3.親鸞聖人の来山
 平治元年乙卯(1159)十二月二十九日、佐馬頭[源]義朝[は]公京軍の爲惨敗し、当国野間庄に至り、庄司長田忠致の家に滞在した。然るに翌年正月三日逆臣長田の爲に最期を遂げさせられた。
其の後、親鸞聖人[が]関東北国化導(*4)の砌、三河国柳堂(*5)に逗留の節、其の墓が野間にあることを聞かれ、それより野間の里義朝の墓に詣でさせられた。その節、当山観音の由緒深きを慕い参詣せられ、而して斯かる霊地へ我が門徒の輩を詣でさせんと心労あり、弘法大師七井の井の水を汲み、自ら阿弥陀如来の一尊を書き納めせられたと云う。今の阿弥陀堂の本尊が是である。
4.佐治盛光来る
 寶徳三年辛未(1451)九月、大野城主佐治右衛門尉盛光が一切経寄進の爲、来山した。5.岩屋寺の呼称
 元天台宗(総本山比叡山延暦寺)にして大慈山千眼寺とも云い、又本字は長護宮寺とも呼び、通称は岩屋山、一名尾張高野山と称えられ、又本字は巌窟寺と書く。昭和二十四年(1949)、尾張高野山宗総本山岩屋寺として独立本山となる。


♦梵鐘
  大工山田荘 藤原法家 銘 (初代水野太郎左衛門)
永正五年(1508)十一月十九日
高さ   :二尺九寸(≒880cm)
龍舌下まで:一寸五分(≒455cm)
龍舌高さ :六寸(≒180cm)
全長   :三尺六寸五分(≒1100cm)
口径   :二尺二寸五分(≒680cm)
口唇厚さ :二寸六分(≒8cm)
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[銘文]
   尾州智多郡
   大慈山岩屋寺
   永正五戊辰十一月十九日
大工山田荘藤原法家
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初代 水野太郎左衛門範家(法家)の作


♦鰐口
  大工藤原宗近 銘 
  永禄八年(1565)九月
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[銘文]
   大慈山岩屋寺本堂常住本願長慶榮範
   永禄八年乙丑九月吉日大工藤原宗近
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 作者の藤原宗近については、本貫(本籍・出身地)が記されておらず、どこの住人かは特定できない。また下記に参考として記載した水野太郎左衛門との関係についても不詳ではあるが、同時代の鋳物師で藤原姓を名乗っていることから、その繋がりに興味を覚える。
 初代 水野太郎左衛門範家    天正二年(1574)死去
 二代 水野太郎左衛門(則長?)     元和三年(1617)死去


♦半鐘
  冶工加藤忠左衛門氏兄 銘
天明八年(1788)五月再鋳
全長:二尺一寸(≒64cm)
口径:一尺一寸(≒33cm)
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[銘文]
   尾張知多郡 大慈山岩屋寺
   元禄十一戊寅歳十二月建立有之及破損今
天明八戊申歳五月爲再建者也
    名古屋住
     冶工 加藤忠左衛門氏兄 
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作者の加藤忠左衛門は、水野太郎左衛門家と供に藩許の鋳物師であった加藤久左衛門と同族の加藤一門であったと考えられる。初代加藤久左衛門は、五代嘉佐衛門庸貞(忠三朗)の時尾張藩主から御釜師の称号を与えられ当十二代まで続いている。


[註]
*1=2006年5月現在は、1291年
*2=ぐずう。仏教や経典が広まること。ぐつう。
*3=りゅうしゃく。〔錫杖(しゃくじょう)をとどめる意〕行脚(あんぎゃ)中の僧が一時   他の寺院に滞在すること。
*4=かどう。〔「けどう」とも〕徳をもって人を感化して善に導くこと。
*5=現在の矢作町


☆旅硯青鷺日記
 採訪の主旨をお話しすると、大僧正は『岩屋寺誌』を参考にしなさいといって下賜くださり、また鐘楼の扉の鍵も快くお貸し下さったので、鐘楼に登り間近に梵鐘を撮影することができました。初代水野太郎左衛門範家作の梵鐘は、五百年近く前の物であり、さすがに古びてはいたが、威風辺りを払うと表現するに相応しい名器でありました。
 今回は夕方が迫っていたことから、他の鰐口や半鐘は残念ながら撮影することは叶いませんでしたが、また再訪したいと思っています。
末筆ながら、大僧正のご慈悲に感謝申し上げます。


水野太郎左衛門系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06








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