細目城跡
細目城A: 愛知県知多郡美浜町野間神明(桑之前) Visit :2006-05-25 15:00
細目城B: 愛知県知多郡美浜町野間富具崎 Visit :2006-05-25 15:10
♦『張州雑志』
「 人物
細見河内守家盛
當村ノ人ナリト云 然モ 年紀家傳共ニ不レ詳細
古城
細目城
水野下野守信元居城也ト云[い]傳[た]フ 今爲ニ松林ト- 」
細目城は初め、当村人の細見河内守家盛が居住したが、その年代や家に伝えられた事跡を記した書物などの詳細は不明である。次に、水野下野守信元が居城したと言い伝えられているが、今は松林となっている。
♦『尾張徇行記』
細目城Bの山裾にある冨具神社には、永正六年(1509)銘の「當村城主緒川氏」と記された棟札(*1)が残されていると記されている。
この棟札から、永正六年(1509)には、緒川(小河)水野氏が、宗家緒川の本城に対し、「羽城(端城)はじろ=外城」や「砦」に等しい規模のものを築き、機能していたことは明かである。
♦細目城主考
「當村城主緒川氏」を『張州雑志』に則り、これを仮に「水野下野守信元」とすると、信元は天正三年(1575)、信長の命で家康配下の者に誅殺されており、享年は五十歳代と推測されていることから、生年は永正十二年(1515)から大永五年(1525)頃となり、永正六年(1509)には未だ生まれていないことになる。従って、「當村城主緒川氏」は、信元の父で、宗家緒川頭領水野忠政であったと考えられる。当羽城には、忠政家臣を城代として配し、信元が幼くして城主となったものを補佐したことで、後に「水野下野守信元居城」と伝承されたものと推測している。
♦城跡
細目城は、近世地誌類の多くに記述されており、『張州雑志』に書かれているように、江戸時代には城跡は、松林と化しており、具体的な位置は明かではない。
『愛知県 中世城館跡調査報告Ⅳ(知多地区)』では、その候補地として、表記の「細目城A」と「細目城B」の二つを挙げているが、それぞれの地においても、また複数の候補地があるとしている。
「細目城跡」について同書を要約すると――
☆「細目城A」は、細目集落の北側にある比高30mの丘陵上(吉祥山、本堂ノ峠とも呼ばれる)に比定されている。江戸時代の村絵図には付近を「字城山」と記すが、『野間町史』では、これを「常山」とする。
平坦地「A-1」は、丘陵頂部にあたる部分で、東西約15m、南北約10mの規模である。この東側に細長い尾根が延びるが、植林に伴う段築(*2)が続いている。西側と北側に畑地や荒地となった段状地形がみられ、大半は近年まで畑地であったという。また南側は急峻(*3)である。
平坦地「A-2」は、「A-1」の北西約100mにあり、規模は約10m四方で、東側には土塁状の高まりがあり、その北側にも平坦地が巡っている。
☆「細目城B」は、『野間町史』に冨具神社南部の旧展望台一帯が「城山」とすることに拠るものである。
平坦地「B-1」は、現在送信施設となっている部分で、一帯では最も高い場所である。施設建設に際して遺構が破壊された可能性もあるが、現在でも北側に緩斜面が続いている。西側の平坦地は最も広い面積を有し、近年まで大半が畑地であり、所々に根切り溝が認められる。
平坦地「B-2」は、北側に細目集落を望み北西に延びる尾根上には段上に平坦地が続いており、頂上は現在「冨具崎公園」に整備され北側は展望台となっている。
以上のように、細目には「城山」と伝えられる場所が、大別して二箇所あるが、いずれも後世の変革をを受けたためか、明確な城館遺跡は残っておらず、どちらに細目城があったのかは判断がつきかねている。
同書著者に拠れば、細見氏と水野氏が“別個の城館”を構えていた可能性を提言し、要害性の点から単純に判断すれば、「細目城B」の方が優れているが、平坦地B-1からB-2にかけて城域が拡大することとは考えがたいとしている。今後さらに詳細な調査および山麓の集落遺跡との関わりや、伝承記録を再度掘り起こしていくことが求められると記している。
[註]
*1=(むなふだ) 棟上げの際、施主・施工者・年月日・工事の由緒などを記して棟木に打ちつける札。棟木に直接書いたもの(棟木銘)もある。むねふだ。
*2=「段築」という工法で、堅固な土手のような形をしている。
*3=傾斜が急で険しい様子。
☆旅硯青鷺日記
細目城A-2の西北側からアプローチしようと集落の狭い道に車を乗り入れたが、直ぐに行き止まりとなっており、そこの家主に細目城のことを聞いたが、昔は城があったことすら知らなかった。手許の地図を示して訪ねると、A-2の南側に道があるから、そちらからしか行けないと教えられた。西から回り込んで写真の道を行くも、A-2およびA-1の南面は、民家が連なっており、どちらの登り口にも辿り着けなかった。
西に戻り、冨具神社の東から展望台への登坂道を登り切ると、頂上は「冨具崎公園」となっており、その最北端は展望台で伊勢湾が見晴らせ、遠くにセントレアも望めた。
小河水野系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/90/03f987fc3a69484c77d2dda06ed0276b.jpg)
A-1
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/87/10727d8209035d21d2ca11bc69b78086.jpg)
A-2
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/92/6419f72095e1eebc9681f6c3a29175de.jpg)
細目集落
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/7e/0c8493ff97b830a672409e7f0555dc00.jpg)
B-2
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/77/82ce6d2e592fcff15269a1ad07d2779d.jpg)
細目城A: 愛知県知多郡美浜町野間神明(桑之前) Visit :2006-05-25 15:00
細目城B: 愛知県知多郡美浜町野間富具崎 Visit :2006-05-25 15:10
♦『張州雑志』
「 人物
細見河内守家盛
當村ノ人ナリト云 然モ 年紀家傳共ニ不レ詳細
古城
細目城
水野下野守信元居城也ト云[い]傳[た]フ 今爲ニ松林ト- 」
細目城は初め、当村人の細見河内守家盛が居住したが、その年代や家に伝えられた事跡を記した書物などの詳細は不明である。次に、水野下野守信元が居城したと言い伝えられているが、今は松林となっている。
♦『尾張徇行記』
細目城Bの山裾にある冨具神社には、永正六年(1509)銘の「當村城主緒川氏」と記された棟札(*1)が残されていると記されている。
この棟札から、永正六年(1509)には、緒川(小河)水野氏が、宗家緒川の本城に対し、「羽城(端城)はじろ=外城」や「砦」に等しい規模のものを築き、機能していたことは明かである。
♦細目城主考
「當村城主緒川氏」を『張州雑志』に則り、これを仮に「水野下野守信元」とすると、信元は天正三年(1575)、信長の命で家康配下の者に誅殺されており、享年は五十歳代と推測されていることから、生年は永正十二年(1515)から大永五年(1525)頃となり、永正六年(1509)には未だ生まれていないことになる。従って、「當村城主緒川氏」は、信元の父で、宗家緒川頭領水野忠政であったと考えられる。当羽城には、忠政家臣を城代として配し、信元が幼くして城主となったものを補佐したことで、後に「水野下野守信元居城」と伝承されたものと推測している。
♦城跡
細目城は、近世地誌類の多くに記述されており、『張州雑志』に書かれているように、江戸時代には城跡は、松林と化しており、具体的な位置は明かではない。
『愛知県 中世城館跡調査報告Ⅳ(知多地区)』では、その候補地として、表記の「細目城A」と「細目城B」の二つを挙げているが、それぞれの地においても、また複数の候補地があるとしている。
「細目城跡」について同書を要約すると――
☆「細目城A」は、細目集落の北側にある比高30mの丘陵上(吉祥山、本堂ノ峠とも呼ばれる)に比定されている。江戸時代の村絵図には付近を「字城山」と記すが、『野間町史』では、これを「常山」とする。
平坦地「A-1」は、丘陵頂部にあたる部分で、東西約15m、南北約10mの規模である。この東側に細長い尾根が延びるが、植林に伴う段築(*2)が続いている。西側と北側に畑地や荒地となった段状地形がみられ、大半は近年まで畑地であったという。また南側は急峻(*3)である。
平坦地「A-2」は、「A-1」の北西約100mにあり、規模は約10m四方で、東側には土塁状の高まりがあり、その北側にも平坦地が巡っている。
☆「細目城B」は、『野間町史』に冨具神社南部の旧展望台一帯が「城山」とすることに拠るものである。
平坦地「B-1」は、現在送信施設となっている部分で、一帯では最も高い場所である。施設建設に際して遺構が破壊された可能性もあるが、現在でも北側に緩斜面が続いている。西側の平坦地は最も広い面積を有し、近年まで大半が畑地であり、所々に根切り溝が認められる。
平坦地「B-2」は、北側に細目集落を望み北西に延びる尾根上には段上に平坦地が続いており、頂上は現在「冨具崎公園」に整備され北側は展望台となっている。
以上のように、細目には「城山」と伝えられる場所が、大別して二箇所あるが、いずれも後世の変革をを受けたためか、明確な城館遺跡は残っておらず、どちらに細目城があったのかは判断がつきかねている。
同書著者に拠れば、細見氏と水野氏が“別個の城館”を構えていた可能性を提言し、要害性の点から単純に判断すれば、「細目城B」の方が優れているが、平坦地B-1からB-2にかけて城域が拡大することとは考えがたいとしている。今後さらに詳細な調査および山麓の集落遺跡との関わりや、伝承記録を再度掘り起こしていくことが求められると記している。
[註]
*1=(むなふだ) 棟上げの際、施主・施工者・年月日・工事の由緒などを記して棟木に打ちつける札。棟木に直接書いたもの(棟木銘)もある。むねふだ。
*2=「段築」という工法で、堅固な土手のような形をしている。
*3=傾斜が急で険しい様子。
☆旅硯青鷺日記
細目城A-2の西北側からアプローチしようと集落の狭い道に車を乗り入れたが、直ぐに行き止まりとなっており、そこの家主に細目城のことを聞いたが、昔は城があったことすら知らなかった。手許の地図を示して訪ねると、A-2の南側に道があるから、そちらからしか行けないと教えられた。西から回り込んで写真の道を行くも、A-2およびA-1の南面は、民家が連なっており、どちらの登り口にも辿り着けなかった。
西に戻り、冨具神社の東から展望台への登坂道を登り切ると、頂上は「冨具崎公園」となっており、その最北端は展望台で伊勢湾が見晴らせ、遠くにセントレアも望めた。
小河水野系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/90/03f987fc3a69484c77d2dda06ed0276b.jpg)
A-1
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/87/10727d8209035d21d2ca11bc69b78086.jpg)
A-2
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/92/6419f72095e1eebc9681f6c3a29175de.jpg)
細目集落
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/7e/0c8493ff97b830a672409e7f0555dc00.jpg)
B-2
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/77/82ce6d2e592fcff15269a1ad07d2779d.jpg)