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さすが、鋭いご質問でまさに汗顔の至りです。(^^;
「常滑水野」の系図については、ご存知の通り諸説あり、その租とされる「雅租」を「『新訂寛政重修諸家譜巻第三百三十九』清和源氏満政流 水野」では、「半左衛門 河内守 水野蔵人貞守が二男」とし、「忠綱―某―守次(守隆)―某(新七)―[以下★1守信[半左衛門家]]と続きますが、「雅租」を貞守の二男とすると時代的に無理があるように感じます。
それで、系図に示したとおり「雅租」の甥「忠」の子の方をを採用しました。
「★2保雅[常滑水野家]」については、おっしゃるとおり「常滑市に寄贈された系図」を元に作成しました。
他方、展示会場で、常滑市民俗資料館 学芸員の方から、「常滑水野家の系譜が『藩士名寄』に収録されている」とお教えいだきましたので、過日名古屋市鶴舞中央図書館で閲覧してきました。それは、下記の資料のように名簿としては掲載されていましたが、蓬左文庫でも確認しましたが、水野家の系図は、残念ながら収録されておりません。
常滑市民俗資料館から頂いた系譜類と照合しましたところ、初代から三代にかけては混乱がみられ、慶安五年に没したのは、『藩士名寄』では初代ではなく、二代となっており、さらに「瑞龍院様御代長野数馬同心被 仰付」は、明暦三年に没した元次ではなく、初代の新七郎の項に記されております。
以降は、年号等の相違で、義雅の寶永四年(1707)十一月廿二日が、十一月廿七日、明雅の寶暦五年(1755)七月二日が同三日、雅童子の宝暦十四年(1764)一月十六日が同正月十九日、雅佳の天明七年(1787)十月二日が同三日、雅風の文化十三年(1816)十月廿七日が同廿八日、雅言の文政十年(1827)五月十二日が同十四日であります。
さらには、『藩士名寄』の雅言の項にある文化二年は文政二年の誤り、雅頌の文化十年もまた文政の誤りである。最後に登場する彦太郎は、元次の弟定雅であり、ここも明暦元年は四月十三日に改元されたことで、承応四年が正しい。
以上気がつきました箇所のみ列記し、前述の常滑市民俗資料館 学芸員の方に過日メールしこれらの相違などについて、ご見解を仰いでいる最中でありますが、ご多用なのでお答えはまだ先になるとのことでした。結果が判明しましたらまたブログに記事として投稿したいと思っております。
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『士林訴 巻三十六 丁之部二 水野 姓清和源氏』には、監物の子として、
[某]
長久手合戦戦死、十五歳。
[守信](*2) 重弘 河内守 清忠
関原之役供奉、後為(ニ)大目付(ー)。
[某] 八郎右衛門 太郎右衛門
實、中山五郎左衛門男。其母者野州信元女、故總心尼養為子。
とある。
嫡男の「某」は、新七で天正十二年(1584)に戦死している。
「守信」は、監物の側室の子で、半左衛門家の租である。
「八郎右衛門」については、小川水野家の縁者で岩滑城主中山五郎左衛門の息子であったが、嫡男が早世したことから養子に迎えた。(「常滑の史跡を守る会」編では新七の養子としている)
『知多郡史 上巻』第二十七章「桶狭間戦役」によると、下総中山法華寺の僧日観が移住してきととあり、この末裔が桶狭間に住し、その後水野信元(忠政?)が中山家を岩滑城に入れた。
[常滑水野家譜]
開 基 水野於万
三代常滑城主水野監物守隆の正室 號 總心尼
法名 向陽院殿花影總心大姉 忌日 元和四年(1618)八月二十六日
初 代 水野八郎右衛門保雅
岩滑城主 中山五郎左衛門の子八郎右衛門。常滑水野の養子となり、元和年中(1615 -1624)に、尾張初代藩主 徳川義直に召し出だされ、御馬廻組を命じられ、二百石 をあたえられた。
その後願い出て、長野五郎右衛門政成の同心に属した。
法名 本菴常無居士 忌日 慶安五年(1652)九月十五日
二 代 水野太郎右衛門元次(保雅嫡男)
法名 凉室源夏居士 忌日 明暦三年(1657)六月二日
三 代 水野八郎右衛門義雅(元次嫡男)
法名 一山知鏡居士 忌日 寶永四年(1707)十一月廿二日
四 代 水野八郎右衛門明雅(義雅二男)
法名 明雅智誓居士 忌日 寶暦五年(1755)七月二日
五 代 水野新七雅禮(明雅嫡男)
法名 雅禮智音居士 忌日 寶暦十二年(1762)八月廿七日
六 代 水野初太郎雅(雅禮嫡男)
法名 禮道雅童子 忌日 宝暦十四年(1764)一月十六日
七 代 水野半九郎雅佳(雅養子)
法名 雅佳俊道居士 忌日 天明七年(1787)十月二日
八 代 水野三郎雅風(雅佳養子)
法名 中齊庸諦居士 忌日 文化十三年(1816)十月廿七日
九 代 水野久左ヱ門雅言(雅風嫡男)
法名 雅言元忠居士 忌日 文政十年(1827)五月十二日
十 代 水野八太夫雅頌(元忠嫡男)
法名 雅慶明忠居士 忌日 安政五年1858)十月廿七日
十一代 水野正之(雅頌二男)
法名 全忠明雅居士 忌日 明治十年(1877)六月二十二日
十二代 水野 某[諱不明]
十三代 水野銕太郎
十四代 水野滋
忌日 平成十七年三月
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それにしても士林訴を直接見られるなんて羨ましいです。自分の様な系図オタクにとっては諸藩の系図集を見られると言うだけで羨ましく。お金と時間がたくさんあれば国会図書館の近くに住みたいなあと思うこともあります。
今回の皇室典範騒動と皇室おめでた報道で
天皇家系図を検索しているおり偶然あなた様のプログをみつけました
時間を忘れ6時間ほど深夜2時半まで大変驚きを含め、時がたちました
あなた様と 同じ大変濃い水野DNAが流れていると実感しましたうれしいです
今後もがんばってください 楽しみにしたます
付記
私の付き合いが薄い叔父が名古屋での法事の帰り 車内で自分のライフワークは、水野家先祖のルーツを調べるのがライフワークのひとつと話されたのが13年前でした。(叔父はヘロン様と同じ間違いなく瀬戸水野です)
叔父は2.3年前なくなりましたが どこまで集められたか身内の方には確認していません。
しかしヘロンさんのプログをみて叔父か調べるのに
20年の時間を費やしたのを、世の中のIT革命で
短期間で効率よく調査できるのに驚きの念をかんじます。
中山家との繋がりについては、ブックマークに記載しています「夜霧の古城」の記事に
小生が質問した答えとして、コメント欄にも詳しく書いていただいております。
また、中山家の系図についての詳細な参考文献などは、同じく「佐々木哲学校」をご覧ください。しかし、ここに書かれた貴重な史料が手近に閲覧できなくて残念ですが。
それから、諸藩の系図などの閲覧については、有名な蓬左文庫も近くにありますし、日常の閲覧は、愛知学院大学の開放講座の聴講生でありますので、同大学の図書館を利用させて貰っています。いわゆる公共図書館と違ってゆったりとした贅沢な環境下で研究に没頭できます。Iwarehikoさんと同様に、小生もこの図書館に居住したいと常々思っています。
「夜霧の古城」
http://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/2005/12/post_a7f8.html
「佐々木哲学校」
http://blog.sasakitoru.com/200511/article_9.html
はじめまして、ようこそマイ・ブログにお越しくださいました。
「時間を忘れ6時間ほど深夜2時半まで大変驚きを含め、時がたちました……」との、とっても嬉しいお言葉を頂き、ブログ筆者として至上の喜びを感じました。どうもありがとうございました。
たたら 尾瀬さんは、コメントから、カテゴリ「A-2瀬戸水野」系の同じ水野氏とわかり、わたしのDNAも大いに騒いでおります。そして「たたら」とありますのは、ひよっとして製鉄所を意味する「蹈鞴」のことでしょうか。もしそうだとしたらその云われも教えてくださいね。「たたら 尾瀬」さんのお名前をクリックしても「記事がありません」とのことで、貴ページが開けませんでした。
それから、名古屋での法事にこられるというのでしたら、名古屋市近郊にお住まいなのでしょうかね。叔父さんが調べてこられた水野家先祖ルーツの史料は、ぜひ拝見したいものてす。
さらにはおっしゃるとおり、「世の中のIT革命で、短期間で効率よく調査できる」ことと、こうやって同志の人達とお友達になれるのが楽しみの一つでもあります。これからも
時々遊びに来てくださいね。
4・5年前だったと思いますが、いまは消えているみたいですね。残念ですが。
4.5年前に水野系図がアップされたサイトが在ったのですね。存じませんでした。
最近のサイトでもあっという間に消えてしまっているものが沢山あり、とても残念に思っております。
友人とも話すのですが、ホームページやブログを永久保存してくれる所が必要に成ってくるのでしょうね。
以前PC-VANで投稿していたおりに、過去のメッセージをみんなで協力して圧縮ファイルにして保存していた時期がありました。ブログはまだ創世記にありますが、今後の保存方法が待たれますね。