∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >水野太郎左衛門家の家紋と菩提寺の変遷

2007-08-22 16:34:33 | B-1 >水野太郎左衛門系
水野太郎左衛門家の家紋と菩提寺の変遷

 水野太郎左衛門家の家紋は、既投稿「慧岳山寶泉院」に記したように「梅鉢紋」であるが、この度、『名古屋商人史――中部経済圏成立への序曲――』林董一著 発行中部経済新聞社 に掲載された水野太郎左衛門家系譜から、従前は水野家が一般的に用いている「沢瀉紋」であったことが判明した。また菩提寺についても、初代から慧岳山寶泉院が菩提寺であることは知られているが、それ以前は初代水野太郎左衛門が居住していた鍋屋上野村の永弘院であったことも新たに判明した。
これらのことから、「系譜の翻刻」と『張州雑志』本文からの抜粋により解説してみよう。
 尚 「水野太郎左衛門家系譜」の翻刻にあたり、名古屋市市政資料館様のご支援により判読できたことに謝意を表します。





[水野太郎左衛門家系譜]翻刻
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     系譜
            藤原氏紋ハ沢瀉之花(*1)
      元祖達然(*2) □□
水野太郎左衛門
   當國春日井郡鍋屋上野村之住人
   従往昔鐵屋大工職傳来仕時ニ永禄[五](1562)壬
   戌年二月御國中大工職蒙
   御免水野氏中興之元祖也
   天正二(1574)戌二月十七日卒ス号延叟
   宗梅居士菩提所名古屋南寺町
   寶泉院ニ葬ス(*3)
   往昔者右上野村永弘院ナル由承リ傳ル(*4)
       
      元祖達□(*2)之父
水野太良左衛門 則重
   元祖太郎左衛門之長子父の家職請継
    元和三年己(1617)三月廿四日卒ス松屋□□居士
    ト号ス
    妻慶女[寛永]三寅年(1626)十月十四日卒ス
    椿岳壽松大姉ト号ス

     水野太良左衛門□……  
水野平左衛門家勝  □……
              □……
   母 壽松大姉
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『張州雑志』第十二巻 第九十四 春日井郡――
上野村
 ♦鐵屋坂(*5)  長養寺ノ西 北ヘ下ル坂ヲ云
  里民云往古此地ニ鉄屋有テ鉄器ヲ鑄ル
  文禄二(1593)癸巳年水野太郎左衛門二代目也
  田中兵部大輔吉政ノ墨印ヲ得テ清須ニ移リ住テ鑄工ヲ業トス(*6)
  其後慶長十六(1611)辛亥年清須ヨリ今ノ府下鍋屋町ニ移住ス(*7)
  右ノ故ニ此地ヲ堀ニ今猶鉄落(`*8)ヲ得事アリト云

♦上野山永弘院(*4)  禪臨済派属洛妙心寺 Visit :2005-04-18 14:15
   客殿本尊薬師佛 聖徳太子作
   堂本尊地蔵菩薩 佛工定朝作
   開基 永弘院心源浄廣居士
    俗名下方左近源貞 慶長十一(1606)丙午年七月四日卒
   開山 妙心義雲和尚 天文廿三(1554)丙寅十一月廿一日
   中興開山 安渓和尚 慶長十八(1613)癸丑二月二日寂



[註]
*1=水野太郎左衛門家(藤原姓)家紋は梅鉢紋であるが、往時の家紋は「藤原氏紋ハ沢瀉之花」と書かれているように沢瀉紋であつたことが判る。因みに永弘院檀家の水野家家紋は大半が沢瀉紋であることから、現在の同院檀家と先祖を同じくする可能性が高いものと推定される。(*4)を参照のこと。
*2=「達然」と読めるが定かではない。
*3=初代水野太郎左衛門から現在まで永続する檀家寺。
*4=愛知県名古屋市千種区上野1丁目4-18。永弘院内に上野城址碑が残っているが、城址は少し南の上野小学校であったもよう。上野城の築城年代は永正年間(1504--1521)とされる。城主は下方貞経・貞父子で、子の貞が開基した。貞は織田信秀に仕え槍術に優れ、天文十七年(1548)三河の小豆坂合戦では、七本槍の一人として高名を得るなど数々の功名を挙げた。当院は筆者先祖の菩提寺であった。
*5=かなやざか。愛知県名古屋市千種区鍋屋上野町から北方の下方町に下る狭い道路。
*6=慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで奮戦した豊臣大名田中兵部大輔吉政(1549--1609)は、元亀元(1570)年の姉川の合戦で主君宮部継潤が、翌元亀二年(1571)、秀吉の降伏の誘いに従い信長に降伏し、浅井氏滅亡後長浜城主となった羽柴秀吉の家臣となったことで、吉政もまた継潤の配下として秀吉に仕えることになった。このことから、文禄二(1593)に織田信長の陪臣として、信長の命をうけ「清須に移り住んで鑄工を業となすように」との印判状を第二代水野太郎左衛門に発給したことが窺え、当時は既に用件別に信長の名において発給した印判状と家臣または陪臣名による印判状とが混在していたことが解り大変に興味深い。 
*7=「慶長十六(1611)辛亥年清須ヨリ今ノ府下鍋屋町ニ移住ス」は、世に名高い「清須越し」のことであり、今ノ府とは『張州雑志』を尾張藩士内藤東甫が安永期頃に著述したことから尾張藩を差し、鍋屋町は現在の愛知県名古屋市東区泉二丁目となる。
*8=鉄屑のこと。





慧岳山寶泉院:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/380d586e2bf954fa28d59038e6e81d30
水野太郎左衛門家譜:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06
水野太郎左衛門鋳物師址:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/967400ec686312e1f8817c2fa9decaf7

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