気になること

視点を変えて、近頃気になること

地方自治の危機(追記32)…「対話」をしない地方裁判所

2017-12-20 10:23:53 | 地方自治
平成29年10月22日執行の最高裁判所裁判官国民審査広報がある。裁判官としての心構えの欄には美辞麗句が並ぶが、菅野博之判事は「原告や被告等それぞれの立場に立ち、心を開いて話し合い……」と述べている。

また平田オリザ著『対話のレッスン』では、他人の共感を得るためには「対話」が重要であることが強調されている。

しかるに行政訴訟では、口頭弁論と称して準備書面の文章で代替している。裁判長に「準備書面記載の通りですか」と聞かれて、「その通りです」と答えると陳述したことになる。

 しかし実際の裁判の次の場面には違和感を覚えた。法廷において、私が口頭で追加説明をしようとした時、「文章」で出すようにとがめられた。にも拘わらず次には、裁判長が私に「次回までに○○を説明せよ」という指示を文章では無く、口頭のみで行なった。口頭では後日の確認が困難だと裁判所が考えているように、おかげで後日私は何を答えるように命じられたのか正確なことがぼやけてしまい、回答作りにえらい苦労した。
 
 ついでに蒸し返すが、この指示は既述の、「本来は被告が答えるべきことがら」である。これを原告に求めることは、裁判所がシナリオを誘導していることになり、石原豊昭ほか著『訴訟は本人で出来る』(p26)にある「裁判官が勝手に訴訟を進めてはいけない、という大原則」にもとるのではないか。憲法が、裁判官の身分を保障していることの意味を逆手に取ってはいけない。何をやってもよいということではない。

 文章が先行するのは、主張の証拠を残すためという事務効率上の理由が付いている。

「対話」でさえお互いに分かり合うのが難しいのに、文章のやり取りでは、ほとんど分かり合えないことは容易に推察できよう。
裁判は「対話」ではなく「ディベート」かもしれないが、文頭の判事さんが書かれているような「心を開いて話し合い」からは程遠いことが現実は行われている。

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地方自治の危機(追記31)…山口良忠になれない私たち

2017-12-04 20:51:13 | 地方自治
 2017年11月8日のEテレ「視点・論点」という番組で、論者のコーポレートガバナンスを専門とする弁護士が、「自動車の完成検査の不正、神戸製鋼所の製品データの不正の原因は経営力の劣化と現場力の衰退」と述べた。「東芝の会計不正や三菱自工の燃費偽装」のように、実力以上の業績を社員に課した結果がどうなっているかトップに伝わらず、経営者は裸の王様となり、「短期の利益を求める余り,長期の利益を失った」というが、現行の経済の仕組みからして、誰でもこの轍に入ってしまう可能性があるのではなかろうか。

「内部通報制度の尊重」などが言われるが、実際には組織の下層部門は上層部門の意向を「忖度」して、指示通りの利益を上げなければ生きて行けない。「言論の自由があるのだからと忖度なしに青臭い正義を言う」ことなど組織内で通用しないことは、わたしも痛いくらいに経験し、修羅場にも遭遇した。生々しく書けないのは、かく言うわたしも往時の当事者のことを忖度しているからである。 トップも当期利益目標を確保しなければならないという脅迫観念に駆られている。

これは国においても、「学校認可に関する、文科省のおどおどした対応」や、既述の「裁判所における手続きの怪しさ」も、それぞれ自分のために周囲を忖度していると見られるのは民間と全く同じで、人間の限界を感じる。地方自治は国のやり方を見習うので、事業の記録がないこと、予定価格がないことなど、余り追求もできない。

自分の居場所を失いたくない本能で生きているわれわれは、終戦後の食糧難の時代に闇米を拒否して餓死した裁判官、山口良忠には到底なれない。自分だけ山口良忠の真似をすると手痛い仕打ちに遭ってしまう。
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