老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

何処で生きる

2022-02-20 14:40:08 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


1815 にんげんの聲が聴こえる

木枯らし吹く寒い日は、両膝の関節は疼き
歩くこともままならぬ。

あれから十年が経ち、先に夫は逝き
独り身となった私。
いまは床に臥す日が続き、寝返りはままならないけれど
床ずれが出来ては大変、と思い柵につかまり左右に身をまかせる。

部屋に入ると、尿便で滲み着いた紙おむつ
自分で取り替えることもできず
為すが儘に他人に身を委ねるだけ。

こんな辛い思いをしてまで
にんげん生き恥を晒しながら生きる位なら
町外れにある特別養護老人ホームに入った方が幸せなのではないか、と
周囲の他人(ひと)は聞こえよがしに言う。

私は汚れきった家であっても
北側の襖の上に夫の遺影があり
夫と生きてきた家で死にたい

自分は生きていく価値があるだろうか
このまま生きていても意味がない
生きたところで、この先何があるというのか
なるようにしかならない。
私は此処で最期を迎える・・・・

死ぬしかない、と思うこともあるが
死ぬ「勇気」もなく、悶々としている。

老臭と尿便臭が混じった酸っぱい臭いが漂う部屋に
毎日、朝と夕方 ヘルパーが訪れ
おむつ替えと食事づくりをする。
ヘルパーは老いた彼女に言葉をかける。
にんげんの聲が聴こえる

城の崎にて

2022-02-20 09:07:19 | 文学からみた介護


1814 静かな死

深夜に目が覚め なかなか寝付かれずにいた
豆球だけが灯る薄暗さのなかで
ふと、現代国語で習った志賀直哉の『城の崎にて』を思い出した。

短編小説『城の崎にて』は、死というものについて書かれている。
若かった時とは違い、老いに入った自分は、死は他人事ではなくなった。

物忘れが増え、記憶は不確かさにあるけれど
思い出しながら『城の崎にて』のことを書いていきたい。

筆者は青年のとき、山の手線の電車に跳ねられ、顔と背中に傷を負い
医者からは脊椎カリエスが発症しなければ大丈夫だ、と言われた。

3〜5週間、養生のために城崎温泉に来た筆者。

城崎温泉に療養しているときに生き物、蜂、鼠、いもりの死に遭遇する。

蜂は日々朝から晩まで忙しく働き、雨上がりの朝、ひっそりと死んだ。
路上の上に濡れた蜂の死骸は、静かに葬られる。
残された者は、日々の忙しさのなかで、
時間とともに死者をやがて忘れていく、静かな死である。

蜂の死に方に対し、鼠の悲惨な死に直面した。
川の土手で鼠は七寸の魚串が刺し通され、
子どもや大人までもが石を投げる。
鼠はそこから逃れようと苦しみもがくがつい果ててしまう。

筆者が投げた小石が、偶然にもいもりにあたり、いもりは死ぬ。
思いがけない、不慮の死。

筆者は、一歩間違えば電車に跳ねられ突然死に遭ったかもしれない。
でも、自分は死を免れた。
生と死は紙一重にある。

いままでは死は遠いところにある、と思っていた。
死はいつ訪れるかは、神のみぞ知る。

できるものなら蜂のように
静かな死を臨みたい、と願う。