老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

その人は生きている

2024-02-17 20:26:59 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2036 情け(思いやり



出だしから「硬い話」で申し訳ないけれど
住み慣れた家で 最後(=最期)まで暮らしたい、と願っている老人
「老親の願いに添いたい」、と思いをかける同居家族。

「地獄の沙汰も金次第」ではなく、「介護の沙汰も金次第」と思ってしまう。
国民年金の受給額で暮らしている老夫婦の伴侶が、寝たきりになると
介護に使える額は1万円がやっとだ、と話を聴かされたとき、その言葉が重くのしかかった。

さらに追い打ちをかけ、訪問介護の介護報酬は減額され
潰れる(倒産する)訪問介護事業所が増えてくる。

さて、現実のヘルパーたちは介護の最前線で何を感じ、何に憤りを覚えているのか(悲しみを感じる)。

先日、鼠屋敷で暮らす婆さんのことを書いた。
テーブルの上、台所、洗い篭、窓の桟(さん)、床などあらゆる処に鼠の糞が連なっている。
お椀やお玉、鍋のなかに糞はある。

そのような状況のなかで、婆さんの夕食を作る。
W居宅介護支援事業所のケアマネは「味見はしなくていいから、(食事を)作ってもらえればそれでいい」と話す。

ヘルパーにしてみれば、鼠糞だらけのなか味見をするのは「勇気」がいる。
できれば味見はしたくない、と本音を漏らす。

でも、「まったく味見をしないで食事を出すのは、その人に対し失礼である」
「自分(ヘルパー)が調理したものを味見しなければ、責任を持った仕事ができない」

「味見はしたくない」、と言っても味見はしなきゃならない。
どうするか、作る前にまな板、包丁、鍋、お椀、箸など
調理に使う物はすべて消毒液で洗い流し「清潔「にした物を使う。

その鍋やお玉、皿を使って味見をしている。

ただ、調理して出せばいい
生活援助すれば、それでケアプランが実施されているから問題はない。

ケアマネは担当者会議で話された(その会議のとき、自分は訪問介護事業所の代表の立場で出席)
その人(婆さん)が最後まで自立した生活ができる、その人らしい生活を支援していきたい。


「情」という言葉が頭のなかで思い巡らす・・・・・。
心の動きのなかで、「同情」「薄情」「非情」であってはならない。

「情」という言葉(漢字)は、”思いやり” という深い意味が込められている。
「情」は、「心情」「表情」として表出されるものであり、旅先では「旅情」「風情(ふぜい)」「詩情」
といったように感じられるおもむき(情趣)がある。

食事づくりであれ、掃除であれ、洗濯であれ、「ただやればいい」というものではない。
暮らしには「おもむき」がある。
その人が生きてきた「心情」がある。

ひとりの老人が80年、90年・・・・と長い時間(人生)を生きてきた。
そしていまも生きておられる。
長い人生のなかで、喜び、悲しみ、怒り、驚きなど、さまざまな感情が絡み合いながら、その人の心情を紡いできた。
心情は、他者に直接見えるものではないからこそ

支援に従事される人たちは、その人の想い(心情)に思い巡らすことが大切。
それは相互に人間関係のなかで培われてくるものだと思う。

たかが調理、されど調理なのである。



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