老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

群発性偏頭痛

2024-03-14 20:50:33 | 老いの光影 最終章 蜉蝣

2042 目に見えない病は「わかりにくい」

2日間余りの日々 いろんなことが重なりすぎ
ブログから離れてしまった。
 
義父の1周忌でwifeの実家に帰郷し、明日福島県に帰るというときに
wifeは下腹部に針を刺すような激しい痛みにが襲い
3月3日の日曜日 救急外来受診。
 
wifeは昔から耐えられない痛みになって初めて「病院へ行く」、と言い出す。
医師からは「よくもこんなに痛みを耐えていたもんだ」、と驚いている。
「憩室炎」と診断され、点滴と薬を処方され実家に戻った。
 
翌日、beagle元気と自分と一緒に帰宅し、地元の総合病院受診。
点滴、絶食、安静のため入院を勧められたが、
仕事(訪問介護)をしなければならない事情があり入院を断った。
「断腸の思い」だった。
 
wifeの病は「目に見える」だけに、痛みの辛さが見ててもわかり
できるものなら、自分が代わりになりたいくらい、と思うも・・・
 
 
82歳の老母は転倒から外傷性脳出血のため入院となった。
その後病状は回復し透析前は、つかまり立ち、つかまり歩行は「どうにか」できるまでになったが、
透析を終えた後は、「立つ」こともままならぬ状態で、介助型車いすの使用により移動介助を受ける。
 
介護疲れなのか ストレスなのか うつ病も絡んでいるのかどうかも わからない
群発性偏頭痛を抱えながら老母と再び生活をしていくには不安が大きく渦巻き、どうしていいかわからない。
 
母の年金は月額にして5万円の額でしかなく、介護費用もこの先まかなっていけるのかも不安
群発性偏頭痛の診断書を再度会社に提出すると、上司からは「まだ痛いのか?」と、
目に見えない痛みだけに「理解して」もらうには、かなり隔たりがある。
職場に復帰できるどころか、自分の働く場所(居場所)があるのかどうか、
それも奪われてしまう不安も襲いかかってくる。
 
自分の心の病というか、いまの自分のなかにある心の沈殿物を、
誰かに吐き出したい(聴いて欲しい)、という思いが募ってくる。
 
医療費(通院費、入院費)や薬代が全額免除になることも知らずに支払ってきた。
役場から「重度心身医療費受給者」の申請書を10枚ほどもらい
昨年の8月から今年の2月まで申請書を代行することになった。
医療費、薬代を含め約10万円のお金が老母の通帳に振込される。
 
3月末には退院し自宅での生活と透析治療の通いができるよう環境づくりを進めている。
月額5万円のなかで介護サービス等を組立なければならない
 
週3回(火木土)の透析通院を行うには
(要介護4の認定を受けていることから)ベッドから車いすへの移乗介助
玄関を出ると20cmほどの高さがある階段(3段)があり、280cmのスロープと車いすを使い
介護タクシーまで移動し、後部座席への移乗介助
身体介護1(20分以上30分未満、月に往復で26回のサービス)と
介護タクシーの交通費も発生する(片道、車で34分要する)
 
高額介護サービス費と透析交通費補助金を活用することで38,000円余りの介護負担減額をすることができ
何とか老母の年金額で、週3回のデイサービス、月26回の身体介護、
福祉用具(介護用ベッド、手すり、オーバーテーブル、スロープ、車いす)のサービスを使うことができる、と
机上では計算できたが、他に尿取りパットなど介護保険で利用できない自費の負担が出て来る。
 
そこへ来て娘の収入もどうなるか、それも不安の種である。
 
今日は2人のヘルパー(そのうち1人はwife)を同席させ
スロープと車いすを使い、3段の階段の上がり降りを行った。
老母の体重は48㎏であるかことから、50㎏の自分が身代わりとなり
階段の乗降を行った。急な勾配があり、ヘルパーの負担は大きく、力勝負の階段昇降介助になることが体験できた。
 
退院はゴールではなく
家族にとりもちろん本人も同じ
在宅で暮らすことができるよう再スタートとなる。
 
退院までの病院MSW(医療相談員)、主治医、リハビリスタッフとの調整を再度図っていく。
 
国会議員は寝たきりになっても費用の心配がないから
在宅で暮らす要介護老人やその家族の苦労や痛みは「わからない」。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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歩けるようになって欲しい

2024-03-02 09:39:20 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2041 外傷性脳出血


    シャンプーしてきました。
        4月8日で11歳になります。


事業所から車で50分余り走ると、89歳の浅香婆さんの家が在る。
浅香婆さんは、玄関先の庭で後ろに転倒し石に頭をぶつけてしまった。

急いで娘は、かかりつけの病院に連れて行った。
CTの結果、頭頂部のあたりに、外傷性脳出血と診断され即入院となった。
10日経過したが、リハビリを行うもつかまり歩行は難しく、20分程度の坐位保持がやっと。

夫は5年前病気で亡くなり、ひとり暮らしになり
同じ町内にある娘さんが住んでいる町営団地一階で暮らすことになった。
娘さんは2交代勤務制の工場で働いている。

要介護認定区分変更され、要支援2から要介護4にレベルダウン。
要介護2かな、と予想していたのだが・・・・・
歩行は不安定であり、介護用ベッドと手すりの貸与サービスのプランで
地域包括支援センターから紹介された。
週3日血液透析の治療を受けている。

事業所から25kmある利用者宅なのだが、彼女は週3回血液透析の治療を受けている。
過去に透析をしていたケアマネということで、ケアプランの依頼があっ5あ。

浅香婆さんが歩くことは難しい、ベッド上の生活となりオムツになる。
夜勤勤務があり仕事と両立しながらの介護はできるのか。
nまた自宅から約30分をかけ透析に通うのも大変。

施設入所を考えたとき、透析のことがネックになる。
この先どうしていいのか、わからない。
不安の渦だけが大きくなるばかり。

介護費、透析通院費等の費用問題も重くのしかかっている。
それだけでなく、娘さんは介護のことや労母親との軋轢が絡み
心の病も嵩み、いま7日間の病休をとっている。

この先どうするのか、訪問することを約束した。

できるものなら、浅香婆さんが、つかまり歩きしながらトイレにでも行ければ、と願いたいが・・・・・


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復刊 銀の輝き 第53号

2024-02-25 16:59:26 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2040 老いのねがい


        在宅訪問を終えた帰り路 関の里池に白鳥と遭遇 白鳥が寄ってきた

復刊  銀 の 輝 き  第53号  2024年3月1日
 
老人のねがい 

よく老人は「ぽっくり死にたい」と口にします。
それは老人のねがいにも聞こえます。

「寝たきりや痴呆(認知症)だけになりたくないから、ぽっくり死にたい。子どもに迷惑をかけたくない」。
それが老人のねがいだとしたら、寂しい気がしてなりません。

いまや人生百歳の時代になり、
脳卒中(脳血管障害後遺症)や認知症を患い、不自由さを抱えながら懸命に生きておられる老い人たちがいます。
 
老人の手を握り、老人の語る言葉に頷(うなず)き、耳を傾けていきたいと思います。
「いまなにを考えておられるのか」
「死にたいと思っているのか、生きる望みをもっているのか」
「なにを悩んでいるのか」
「なにを欲しているのか」
「なにに戸惑っているのか」等々。

そうした老人の思いに対して、「なにができるのか」。「
忙しい。時間がない」と口にしがちだが、
時間がないのは私ではなく、老人たちなのです。

要介護老人が住む家々を足繫く訪れていきたいと思っています。
            
「死」をどこで
誰に見守れながら
「死」を迎えるか
人生の最後における大きな問題である。
誰もが家族(ひと)の温もりを欲している。
どういう死に方を望んでいるか。
それは どういう老い方をしていきたいか・・・・。



            阿武隈川の辺に苔草と無造作に置かれた石 ジッと春を待つ


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ドアとドアを結ぶどこでもドア  創刊号

2024-02-24 15:56:22 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2039 銀の輝き


           2024.2.24 am7:18 阿武隈川;朝陽に照らされた銀の輝き

『ドアとドアを結ぶどこでもドア』 創刊号 2024年3月1日

いつでも、どこでも、あなたの側らに安全・安心をお乗せしている気持ちで
移動支援(通院送迎)を行います。玄関先までお伺いします。


福祉タクシーをご利用できる人

総合事業・要支援者・要介護認定者(介護保険外サービス)の方、身体に障がいをお持ちの方、ご病気・骨折などにより
お一人での移動が困難な方、移動に杖や車いすが必要な方、一般のタクシーや公共機関の利用が困難な方など。

利用目的の制限はありません。

病院までの送迎・買い物の付き添い・冠婚葬祭の付き添い・コンサート、墓参り、旅行や観光の付き添いなどさまざまな移動のサポートをします。

福祉タクシー利用者運賃 ぐっとへるぷ 東北運輸局認可
乗車時間        運賃
乗出し~10分未満 1,030円
10分~20分未満   2,060円
20分~30分未満   3,090円
それ以降10分毎に   1,030円

車いす使用者     1回につき500円
病院内・クリニック内付添い30分毎に600円
保険外身体介護 30分毎に1000円
透析治療者の通院送迎 行います(介護保険・介護保険外)

透析治療は、週に3日(月13日)、通院送迎往復26回になります。
週3日の透析治療は疲労感があり、歩きも不安定になり転倒の心配があります。
“当訪問介護事業所は、「透析通院交通費補助金」申請の代行を無料で行っています。
お気軽にご相談ください。                                

「人工透析」を受けたスタッフがいます。透析後治療者の体調管理(シャント、止血、浮腫、歩行等)の把握を行ってます。

上記は、運営している当訪問介護事業所の機関紙です。




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その人は生きている

2024-02-17 20:26:59 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2036 情け(思いやり



出だしから「硬い話」で申し訳ないけれど
住み慣れた家で 最後(=最期)まで暮らしたい、と願っている老人
「老親の願いに添いたい」、と思いをかける同居家族。

「地獄の沙汰も金次第」ではなく、「介護の沙汰も金次第」と思ってしまう。
国民年金の受給額で暮らしている老夫婦の伴侶が、寝たきりになると
介護に使える額は1万円がやっとだ、と話を聴かされたとき、その言葉が重くのしかかった。

さらに追い打ちをかけ、訪問介護の介護報酬は減額され
潰れる(倒産する)訪問介護事業所が増えてくる。

さて、現実のヘルパーたちは介護の最前線で何を感じ、何に憤りを覚えているのか(悲しみを感じる)。

先日、鼠屋敷で暮らす婆さんのことを書いた。
テーブルの上、台所、洗い篭、窓の桟(さん)、床などあらゆる処に鼠の糞が連なっている。
お椀やお玉、鍋のなかに糞はある。

そのような状況のなかで、婆さんの夕食を作る。
W居宅介護支援事業所のケアマネは「味見はしなくていいから、(食事を)作ってもらえればそれでいい」と話す。

ヘルパーにしてみれば、鼠糞だらけのなか味見をするのは「勇気」がいる。
できれば味見はしたくない、と本音を漏らす。

でも、「まったく味見をしないで食事を出すのは、その人に対し失礼である」
「自分(ヘルパー)が調理したものを味見しなければ、責任を持った仕事ができない」

「味見はしたくない」、と言っても味見はしなきゃならない。
どうするか、作る前にまな板、包丁、鍋、お椀、箸など
調理に使う物はすべて消毒液で洗い流し「清潔「にした物を使う。

その鍋やお玉、皿を使って味見をしている。

ただ、調理して出せばいい
生活援助すれば、それでケアプランが実施されているから問題はない。

ケアマネは担当者会議で話された(その会議のとき、自分は訪問介護事業所の代表の立場で出席)
その人(婆さん)が最後まで自立した生活ができる、その人らしい生活を支援していきたい。


「情」という言葉が頭のなかで思い巡らす・・・・・。
心の動きのなかで、「同情」「薄情」「非情」であってはならない。

「情」という言葉(漢字)は、”思いやり” という深い意味が込められている。
「情」は、「心情」「表情」として表出されるものであり、旅先では「旅情」「風情(ふぜい)」「詩情」
といったように感じられるおもむき(情趣)がある。

食事づくりであれ、掃除であれ、洗濯であれ、「ただやればいい」というものではない。
暮らしには「おもむき」がある。
その人が生きてきた「心情」がある。

ひとりの老人が80年、90年・・・・と長い時間(人生)を生きてきた。
そしていまも生きておられる。
長い人生のなかで、喜び、悲しみ、怒り、驚きなど、さまざまな感情が絡み合いながら、その人の心情を紡いできた。
心情は、他者に直接見えるものではないからこそ

支援に従事される人たちは、その人の想い(心情)に思い巡らすことが大切。
それは相互に人間関係のなかで培われてくるものだと思う。

たかが調理、されど調理なのである。



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星を見上げ元気をいただく

2024-02-09 05:12:05 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2028 「おまけ」「付録」


   グリコのキャラメルに付いて「おまけ」 
   楽しみだった


誰でも買い物をしたとき “これ、おまけに付けておくよ!”と言われると何か得したような気分になる

一粒口に入れると300メートルが早く走れる というグリコのキャラメルにも“おまけ”が付いていた
現代の子どもはシールよりもゲーム機器の方に手がいってしまうが 
昭和30年代の子どもたちはキャラメルのおまけに付いていたシールやワッペンに熱中したものだった

若い女性向けの雑誌にも“豪華な付録”が付いている
本誌よりも付録を買うといった女性もなかにはいるとか

ちょっとおまけや付録の話が長すぎてしまった感があるが 
子ども心に まだあの世に逝っていない大人から「人間死んだら☆彡(星)になるんだよ」と
本当にそうだったら素敵な話である
死んだら星となって輝き 天から大切な人を見守り続けることができたらどんなによいか

「星の王子様」は 大切なものを失ってはじめてわかる
あなたにとって“いちばん大切なものはなんですか

自分という人間が死んだら
棺に収められるに違いない
棺はダンボール製がいいな

そのときは納棺師をお願いし 人生の最期を取繕い 美しく逝きたいものだ
ある老人が陶芸の窯で骨を焼いたら何色になるのかな という言葉を聴いたとき
ドッキとしたことをいまでも覚えている

火葬場で焼いた骨は 白い煙となって 青空に向かって消えて逝く
大切な故人は この世にはもういないその寂しさは 心では推し量ることのできない無量の世界にある
だから大切な人は星となって光り輝きながら 家族や大切な人を見守ってくれている

夜空に輝く星の天空の向こう側は 遥かなる宇宙であり それは限りなく無辺の世界にある
宇宙には無数無名の星が無量ほどあり 
そのなかにある”地球“という惑星(ほし)のなかに70億の人間が棲んでいるわたしという人間はひとりしかいない

宇宙からみたら ・ (点)のような存在ではあるが 星のように光り輝く存在で在る(有る)ことを
自信をなくしたときや悲しいときは 星を見上げ元気をいただく

話は180度回転し 急に”蝉“のことを想い出してしまった
蝉の地上生活はたったの7日間しかない(実際は30日は生きる)
それ故蝉の生活は儚い と云われるが・・・
真夏にミンミンと鳴く蝉の響く声は 我が此処に生きていると

宇宙からみたら人間の生命の時間は本当に儚いひと握りの”砂の星“かもしないが
人間の内なる世界も宇宙のように無量無辺であり 内なる可能性を秘めている
老人に在っても同じであり 
人間最期の瞬間まで生命の光(あかり)が灯って(ともって)いることを

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一杯の味噌汁

2024-02-07 20:59:58 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2027 乗り遅れそうな乗客を待つバスの運転手



味噌汁は“おふくろの味”ともいわれ、家庭によって味が違う。
三木春治さんにとって家庭の味といえば妻志乃さん(77歳)がつくる“味噌汁”であり、元気の源でもあった。

しかし、桜の花弁が散る4月の或る日の朝の出来事。
春治さんは、今日の朝 起きてみると腹が脹れ(はれ)あまり朝食を食べたいとは思わなかった。
けれども、妻が想いをこめて作ってくれた豆腐入りの味噌汁を味わった。
ご飯は茶碗半分余り残し箸を置いた。

どうもお腹の脹れと胸のあたりが急にむかつきはじめ苦しくなり、食卓にうつ伏せ状態になり倒れた。
救急車で病院に搬送されるも 力尽き永眠された(ご冥福をお祈り申し上げます、78歳)。
昨日まで元気な様子であっただけに、突然の訃報は驚きと同時に深い悲しみを抱いたのは、わたしだけではなかった。

春寒し2月の頃、三木さんのお宅を訪問したときに春治さんと出会った。
そのとき彼は「自分が元気になれば、妻の手伝いをしたい。雪かけや野菜作りをしたいと、
生活への意欲と希望を抱いていた。
志乃さんは春治さんと54年間ともに生きてきた人生を振り返り、
彼の人柄についてしみじみと語ってくれた。

彼はトラックの運転手をされた後、路線バスの運転を24年間務めたときのこと。
「バスが発車する時間になっても、いつも乗車されているひとりの女子高校生がまだ来ないため、五分間待つことにした」。
その女子高校生はバスが待ってくれたことに“泣き”、
感謝の気持ちをいっぱいにし、学校へ行くことができた。

時間に遅れる方が悪いし“時間の大切さ”を自覚させるためにも時刻表とおりにバスを発車させた方がよい、という考えもある。
しかし、その時間に乗り遅れたら都会みたいに数分後にバスはやって来ない。
「バスが発車する間際、急いで駆け付けてくるお客様の姿が、バックミラーやサイドミラーに写るのを見たとき、
バスを出さずに待っていてくれたことも度々あった」と、
妻は、スーパーで地域の人たちから話を聴くことも多かった。

病いを患ってから4年余日が過ぎた春治さん、愛妻が作ってくれた一杯の味噌汁を忘れずにいることと思う。


コメント (2)
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「奇跡だ!」、と言われた85歳の老女

2024-02-01 21:45:11 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2023 眠りから蘇生(よみがえる)



疲れると頭が機能しない
「何も書くことがない。今日のブログはお休みかな」、と
さぼり癖が見え隠れする。

ふと、思い出した。
今日15時30分、在宅訪問をした。
主役の85歳の老母は入院中で会うことができなかった。

同居している夫(85歳)と長女に会った。
近々老母は「家に帰りたい」、と主治医に懇願し2月5日に退院することになった。
2月6日から火木土の透析治療のため、介護タクシーの利用を始める(移動支援にかかわらせて頂くことになった)。

糖尿病が原因で人工透析となり3年が過ぎた。
昨年8月の或る日、歩ていても躰が左に傾いてしまう。
透析治療を受けている病院の医師から「脳腫瘍ではないか」と告げられ入院となった。

脳腫瘍の手術を施行しようとしたとき
血液サラサラの薬を止めて3日しか経過していないことがわかり、急遽手術は中止になった。

脳外科医から「脳腫瘍ではなく脳梗塞だった」、と告げられた。
手術は成功したが、老女の意識は回復せず眠りのなかにあった。

それから老女は、3月ご眠りから目が覚めた。
主治医も意識が戻るとは思っていなかったことだけに
「奇跡だ」、と話された。

脳梗塞を起こした部位は、運よく四肢の麻痺が起こる場所ではなかったことも「奇跡だった」。

その老女は眠りから蘇り、生き始めた。
眠っている3月間の記憶はすっぽり抜けたまま。
85歳の命が蘇生った(よみがえった)老女に会うのが楽しみだ・・・・・。


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湯たんぽで躰を温めたヘルパー

2024-01-29 21:21:30 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2020 低体温


犬も老いてくると体温調節が上手くできなくなる
寒がりの”元気”、赤い服を着せた。ぐっすり眠っ
ていた


スマホの着信が鳴った。
出てみると、ヘルパーから「小澤桐さん(67歳)が低体温の状態です」。
低体温の様子を伺うと
最近は雪が降り外気はかなり冷え込むでいる。

部屋の中は寒々していて息は白い。
マッチで点ける石油ストーブの石油タンクは「空」のまま。

桐さんは尿で濡れたズボンを脱がすに薄い毛布を被っていたから
余計寒く震えている。
唇は紫、指の先まで氷のように冷たい。
35.0を下回り、低体温症で死ぬところだった。

濡れたズボンを取り替え
(ガスは点くので)お湯を沸かし湯たんぽに熱いお湯を入れ
彼女に抱きかかえさせた。
熱いスープを作り食べさせた。

躰は少しずつ温まり低体温から脱却できた。

夫は、石油ストーブのタンクに灯油が入っているかどうか確認せぬまま
朝早く仕事に出かけてしまった。

仕事中なので電話はつながらず、
A3サイズほど大きな紙に黒マッジクで
「灯油がない。桐さんは低体温になりあわや死ぬところだった」、と
書置きをした。

16時過ぎ、ヘルパーと一緒に夕方同行訪問した。
桐さんの顔色はいつも顔の表情に戻り、ホッとした。
湯たんぽのお湯を取り替え
石油ストーブのタンクを振ると、ちょぼちょぼと音がしたので
(実際にちょぼちょぼ、と音がしたかどうか擬音語の表現は難しい)
ライターで火を点けると半球が赤く点った。

はかなく頼りない温かさが伝わってきた。
「桐さん 死ななくてよかったな~」
押し入れのなかには薄い掛蒲団があった。
「掛蒲団あるのになぜ掛けないんだ~」
「重いし、面倒くさい」、と言葉が返ってくる。

彼女の震えから能登半島の人たちを思い出した。
極寒と空腹は躰に応え、一日も早い復旧を望まずにはいられない。





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.老人の呟き

2024-01-26 21:06:01 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2017 自分も老人


       冬の阿武隈川風景 雪の風景を眺めると故郷(北海道尻別川)を思い浮かぶ

  「老人の呟き」

老人は
辛辣な言葉
味のある言葉
人生を振り返る言葉
「無言」の言葉
いろいろな言葉を発する

老老介護
老夫婦共々
長寿の時代になった
喜寿 卒寿を迎え百寿の時代となった

連れ合いのどちらかが
寝たきりや重度の認知症を患い
重度の要介護(要介護3~要介護5)になると
老いた身の介護はしんどく辛い

それ以上に
昼夜ベッド上で臥床し
ジッと天井を見つめながら呼吸(いき)をし
拾年が過ぎた寝たきり老人

寝返りも起きあがりも
老妻(老夫)の手を借りなければできない
我が身の不甲斐なさ、辛さ

自分ならば拾年もジッとベッド上で耐えることができるであろうか
そう想うと
寝たきり拾年
凄い忍耐力だと想う

介護 「受ける」
介護 「される」

受身のある生活に見えてしまうけれど
実際は
そうではなく
痛みや辛さにジッと耐え
無言のうちに生きてきたひとりの老人


長年連れ添った妻(夫)から世話(介護)を受けてきたことに
「すまなさ」と「ありがとう」の気持ちが複雑に交錯する

我が身の下肢や体を動かすこともままならぬ不甲斐なさ
「死にたい」と思ったり、言葉にしても
死ぬことすらできない

それでも妻(夫)に生かされながら生きてきた
どこまで生きれば
神様は生きることを
許してくれるのだろうか

痩せ衰え
骨が出たところがあたり
体のあちこちに
床ずれ(褥瘡)ができた

飲み込むこともしんどく
十分な栄養も摂れず
暑い日々は
口の中は渇き 脱水症になり
脚はつり、その痛さは耐えられない

それでも必死に生きる老人の姿から
老い病み死とは、何かを考えさせられてしまう

  《私の呟き》

  私はいま、老いの真っ最中
  長い時間
  無駄に生きてきたことに
  気づかされた
  
  後悔しても
  過ぎ去った時間を取り返すこともできないし
  逆戻りすることもできない
  「後期高齢者医療保険被保険者証」「介護保険被保険者証(要介護度は未記入)」が薬手帳に挟んである
  私も立派な老い人

  いまさらながら
  老いの身になって
  頑張ったところで
  できることは限られている
  
  青い空の下で
  碧い海の上で
  鴎が飛んでいる風景に
  小さな夢を重ね
  あと数年の短い時間(とき)であっても
  いままで無駄に生きてきた時間を
  少しでも埋め合わせていければと
  今更ながらジダバタしている

  何ができるか
  限られているけれど
  病み人の状態だが「健康」である限りは
  まだ、生きられるのかと開き直っている

  老人になった私は
  老人たちに向き合い
  老人の後姿から学び
  老人たちと生きて往く
  自分も老いの躰となった


  これを目にしたwifeは「私が先に逝きたい」、と呟いていた。


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労いの言葉

2024-01-25 18:29:39 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2016 松さんが亡くなった


         2024年1月25日 阿武隈川辺散歩路 朝陽に照らされて
                             beagle元気と老い人の足跡


ショート利用中 食事中に詰まらせ亡くなった。
予期せぬ死であった。

薔薇の花を食べた89歳の認知症老人 故松さん(女性)。

無言でショートステイから家に帰った松さんの顔は、穏かな表情であった。
言葉をかければ、いまにでも眼を覚ますかもしれない。
自分は穏やかな表情で死にたい、と思った。

老母の介護から解放され、本当に最後まで介護をされてきた長女。 
「できる限りのことはやったから悔いはない」
「亡くなった父親が、もう俺のところに来いと母親を呼んだのでしょう」

「ショートの施設に対しては恨みはなく、介護して頂いたことで感謝しています」
「桜デイサービスには本当に助けてもらった。医院や病院の付き添いをしてくれたときは、本当に助かった」
「一時、自分の両腕はあがらず、腰も痛く、辛かった。本当にありがとうございました」
と 穏やかに話された。

ショートステイでの事故 介護スタッフが目を話したときに 喉を詰まらせ亡くなった。
施設を責める訳でもなく、長女の気持ちは複雑ながらも、老親の死を受け入れてもらえることができ、ホッとした自分。

長女は、老親の介護にかかわり 身をもって苦労したから
ショートステイの介護スタッフの大変さをわかっていたからこそ
責めることはしなかったのかもしれない。

「夜間の徘徊、頻回に重なったトイレの介助
朝方玄関上がり框での度重なる転倒による負傷等
最後は本当に大変でしたよね。
娘さんも憔悴しきった表情で
この先介護続くのかと心配していました。
でもよく介護されていて、お母さまは幸せでしたし
安心してご主人のところへ逝かれたと思います」
と 言葉をかけると
最後は涙ぐまれていた。

介護を終えた後
介護者に労いの言葉をかけることも
大切なことである。

妻が夫の老親の介護を終えたとき
介護の協力はなかった夫であったけれど、
最後に「介護お疲れ様、本当にありがとう」
と、その一言でいままでの苦労や辛さが報われた気がしました。
 
「ありがとう」「長い間お疲れ様」、その一言は

心身共に蓄積された介護疲れは、ふ~と心が軽くなります。

2017-06-15掲載。 一部書き直したり付け加えたりしました。


コメント (2)
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老母の介護に疲れた その後2 「死んだように眠っていた」

2024-01-24 20:10:19 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2015 おかげ様で私も夜眠れるようになった


        冬の阿武隈川 寒さを感じさせる白い川波 令和6年1月23日 撮影

松さん(89歳)は、愛想はなく
他のお客様が「おはようございます」と挨拶をしても
無愛想で「・・・・」のまま
自分から話しかけることようなことはない
見るからに意地悪婆さんの雰囲気

何もしないでいると
「トイレに行きたい」と訴え
椅子から立ち上がろうする
傍に座り手を握ると落ち着く 
寂しがり屋なのか 甘えん坊なのか

昨夜は徘徊で活動していたせいか
手は温かい 眠いのかもしれない
眠いからと言って ここで寝せては
昼夜逆転を 逆転させ 
昼起きて 夜寝る のリズムに戻さねば

桜デイサービスのスタッフは
ボールやゴムバンド、手拭いなどの小道具を使い
手足を動かす運動を1対1で行った
ときには他のお客様にも参加して頂き
輪になり 音楽に合わせ体操を行った

午後は、スタッフと一緒に30分ほど
桜デイサービスの界隈を散歩
昼寝は無し

音程は微妙ではあったけれど
本人はそんなことは気にすることはなく
大きな声で 5曲ほど唄った
このときも,ただ座って唄うだけでなく
身振り手振りを入れながら唄う

画面の文字や歩くときに
視点が左側ばかり向くことに気がつき
もしかしたら右眼が見えていないのではないか、と疑い
大きな月暦を使って視力検査を行った
左眼を手で押さえたとき 右眼は大きな数字を読むことはできなかった
右眼がみえていない
長女も 気がつかなかった

今回いっしょに彼女と行動した際に
桜デイサービスセンター長が気づいたのであった
これは大きな発見で
糖尿病による失明なのか 医師による診察が不可欠である

初日のデイサービスは寝ることもなく手足や体を動かした

帰宅し
松さんは夕食を摂り20時30分頃まで起きていたが
その後は朝まで一度も起きることもなく爆睡
翌朝 長女真恵さん(62歳)に電話をかけ様子を伺う
「死んだように眠っていた」

2日目 3日目も翌朝電話すると
真恵さんから同じ言葉が返ってきた
「死んだように眠っていた。おかげ様で私も夜眠れるようになった
「本当に感謝しています。安心して仕事に行けます」

まだ気は抜けないが
昼夜逆転は消失した

トイレ行きたいコールはかなり減ってきた
黙って座っているとトイレのことが気になる
体を動かしている間は トイレのことを忘れる
頻回にトイレに行ったとき オシッコは出てもチョロチョロ
1時間に1回となると それなりにオシッコが出ると 本人も満足する

手足や体を動かさず 椅子に座った状態でも
「トイレに行きたい」という言葉が頻回に出ないようしていきたい
まだ始まったばかりである

夜間徘徊 トイレコール頻回 は消失しつつある

「また、デイサービスに行きたい」「楽しい」等など
飽きさせないことが大事

ときには「何もしない時間」も必要

寝せないこと、テレビ子守にさせない
食事中はテレビをつけない
「そのために紙オムツがあるのだから・・・・ 紙オムツにしなさい」ではなく

桜デイサービスは、本人の尿意を無条件に受け止め
トイレで用を足す
紙オムツをしてもトイレに行き、洋式便器に腰掛ける


徘徊」(この言葉が嫌い)「トイレ頻回」など
いろいろと手がかかるから
「寝ているときは無理に起こさない」(寝た婆さんを起こすな)、ということで
昼間なのに寝せてしまう

認知症だから何もできないから、と決めつけ、ただ座っていると眠くなり寝てしまう。

だから、家に帰ると昼夜逆転現象が起こってしまう。


ピンク色の文章は 令和6年1月24日 加筆したものである
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「老母の介護に疲れた」その後

2024-01-23 14:04:46 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2014 老母 松さん


本当は、歩行介助は杖を着かない側に
着くのがよいのですが、研修しても
まだ理解ができていない介護職員も
います。反省しています。
杖側の腕を持つと老人は歩きにくい
ですよね


老母 松さん(89歳)の夜間徘徊と3~5分間隔の「トイレに行きたい」
という行動は いまも延々と続いているのか
それとも消失したのか
気になるところです。

松さんはⅡ型糖尿病の持病があり
別の内科クリニックを受診中にあった。
インスリン、服薬による薬物療法と
長女真恵さん(62歳)の献身的な食事療法により
(長女は、仕事をしていたので朝5時に起きて、老母のだけの糖尿病食を作っておられた。脱帽です)
血糖値は安定していた
安定していないのは 不穏な行動「徘徊」と「トイレ頻回の訴え」

私は 長女の同意をとり
隣市にある認知症専門医 鎌田和志医師に電話を入れ
初診の予約をとった。

精神科医、心療内科医 どちらでもかまわないのですが
認知症高齢者にかかわらず、精神障害者も含めて
患者やその家族の悩み、不安などを
よく聴いてくれる医師かどうかが大切

大変な介護者だけの話を聴いて
老親に強い眠剤を処方され
徘徊やトイレ頻回の行動は収束されたけれど
朝まで眠剤の作用が残り
ぼぉ~とした表情になり
生気が失せてしまい、うつらうつらしてしまう。

真恵さんは、今日の先生はよく話を聴いてくれた
老母のことも気にかけてくれていたし
安心して昨日は眠ることができた、と
翌日電話をかけたときに 話してくれた。

認知症の進行を遅らせる薬と
就寝前に気持ちを安定させる薬が処方された。

薬を服用してもすぐに効果は出るものではなく
長女の介護苦労は依然続いていた

私は 桜デイサービスセンター(令和5年2月28日付け廃止 自分が経営していた事業所)のスタッフに
「松さんの利用を受け入れをお願いした」
さらに ショートステイ静狩苑の併用利用
ショートは長女の気分転換、息抜きを兼ねた利用

桜デイサービスの利用が始まった。
明子センター長が初日の担当となり
彼女と1対1の関係で付きあった
トイレに行きたい、と訴え椅子から立ち上がった行動は100回を超えた。
実際にトイレに行ったのは20数回
20分に1回はトイレまで着いて行き、見守りを行った。
(再掲載)

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この先どうすればいいのか

2024-01-22 18:29:32 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2013 老母の介護に疲れた



老いた母親の介護は疲れ果てた
顔は一回りちいさくなり目は窪み
どうしていいかわからない

デイサービスからも
ショートからも
「もうみられない」というようなことを
言われてしまった

この先どうすればいいのか

その夜 ケアマネは駆けつけ
長女の深く暗い悩みに
耳を傾けた

老母は,夜中十分おきに起きトイレへ行く
数度夜中表へ出だし歩き始める
外へでたときは後ろからついて行く

「私の体のほうが悲鳴をあげている」
「もう横になりたい」
「もう眠りたい」
と長女はか弱い声で話す

ようやく老母が
認知症であることを始めて認めた長女

長女は母親との軋轢を話してくれた
娘からみれば母親ではなかった
東日本大地震のとき
「娘にやる米はない」と言われた
「母ではなく鬼だと」思った

母は何も変わってはいなかった
子どもだったときから
母親と温かい言葉を交わしたことがなかった

それでも私の母親には変わりはないと思い
介護をし続けている私
糖尿病で手を煩わせている母
認知症でてこずらせている母
まだ家でお世話していきたい、と

長女が抱えている悩み、不安、葛藤、疲労、憔悴など
絡み合った糸をほぐすためにも
彼女の話を最初から最後まで聴いた

2017/05/06 (再掲)

老母は、天国で暮らしている
介護から解放された長女
忘れた頃に電話がかかってくる
「大根、葱があるから、畑から持ってきたばかりだから」、と言って
遠慮なく早朝に頂きに伺う。
コメント (4)
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「あの人は、どうして来ないのかなぁ~」

2024-01-20 20:51:12 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2011 ”亡くなったときは知らせて欲しい”


  
いつも違う場所から写した阿武隈川風景、右に見えるのは桜並木


土曜日だと家族に会える家もあるので、在宅訪問をした。

利用票に印鑑だけを押してもらう「宅配便」訪問にならない気をつけている。
訪問を待ち焦がれている美代子婆さん(仮名 91歳)。

「いつも同乗しているお爺さんがいない」
「どうして来ないのか気になる」
来ない日が続くと、入院したのかな、施設に入ったのかな、死んだのかな、と頭の中で思い巡らしてしまう。

1月9日デイサービスを休んだ。
1月13日の
福島民報のおくやみ欄にお爺さんの名前に目が留まった。
「1月11日に亡くなっていた」。
どうして来なくなったのか、そのときはじめて知った。

デイサービスの責任者にそのことをお話ししたら
「そう亡くなったの。他の利用者に言わないでね。動揺するから・・・・」。

「同じひとつ屋根の下で過ごした仲間」の死をどう、他の老人に伝えるべきなのか、否か、悩み戸惑うスタッフもいる。
事業所によって「老人の死を知らせない」ところもある。
何故、死を知らせないのか。他の老人にショックを与えてしまう。

確かに親しかった老人の死を告げらたら、ショックを受けてしまう。
そのことに美代子さんは、こう自分に話してくれた。
ショックです。でも、亡くなったその人のことを想いだします
無口なお爺さんだったけど、笑顔を見せてくれたり優しかった。
デイに向かう車のなかで、手を出して”おはよう”といつも声をかけてくれた」。

彼女は、「死を知らせてもらった方がいい」、と話す。

自分は、老人介護施設で従事してきたときも、いまも
ひとりの老人が亡くなったこと わかったときには他の老人にも伝えてきた。
「ショックである」、でもそのことでその人過ごした思い出や人柄を思いだす。
その言葉はとても意味深いものがあります。

なぜ美代子さんは、「死を知らせてもらった方がいい」と話されたのか。

同じ釜の飯(昼食)を食べた仲間、
亡くなったことも知らされないまま、
あの人は「どうして来ないのか気になり」ながら過ごし、かなり時間が経ってから
「なくなったんだ」と言われても、しっくりこない。

他の老人が亡くなった事実を
自分の身に置きかえて考えるとよくわかる。
「自分の死」を誰にも知られることなく、居るのは嫌だし、寂しい。
生きているのか、死んでいるのか、わからないまま、自分の存在が忘れ去られてしまう。

家族の死、親しかった人の死、老いてからデイサービスで知り合った老人(仲間)の死
死は辛く悼みを伴う。
美代子さんが話してくれたように、「亡くなったその人のことを想いだします」。
仲間の死を通し、自分もいつかは死ぬ、ということを、改めて思う。

死を知らせる、ということ。
生きてきたひとりの老人の存在を認めていくことにつながっていく。
亡くなっても、その人の存在は、誰か心のなかで生きているのです。

死は、哀しみ、悼みを伴うからこそ、ひとりの死を通し
残された時間(老い)をどう過ごしていくのか、見つめ直すきっかけにもなる。

介護スタッフも同じです。
ひとりの老人が亡くなった事実をどう受け留めるのか。
「留める」という言葉は、亡くなった老人のことを想いだしたり、また十分なケアが為されたのか。

老人(人)はいつ亡くなるかわからない(自分も同じく、いつ幕が降りるのか、わからない)。
今日が最後と思って食事を作ったり、お風呂に入れたりする、その想いが大切なのかもしれない。
100%のケア(サービス)は難しいけれど、
その人に対し自分はどうかかわったのか、かかわってきたのか、振り返ることです。
その老人に出来なかった(反省、後悔等々)ことは、他の老人にその想いをかけていく。

堂々巡りなことを書いてしまったけれど
死は避けるものではなく、対峙することだと思う。
死に近い老人ほど死に対し恐怖、不安を抱きながらも、1日でも長生きしたい・・・・。

何人にも死はいつか訪れる。
それを意識しているか、意識していないか、だけの違いでしかない。

美代子婆さんと話をし、死ということについて考えさせられた日であった。










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