2022 戦争を知る老人たちの思い
冬の厳しさを知っているものほど、春を待ち焦がれている。
それと同じように、さまざまな事情で家族から離れて老人保健施設などで生活している老人ほど、
家庭復帰を待ち焦がれている者はない。
「家なき老人」にしてみれば、
「春」という言葉と「家族(家)」という言葉は同義語なのかもしれない。
平成2(1990)年4月に入所した関かねさん(86歳、頚椎症による歩行障害、脳血栓、糖尿病)も
いつ来るともしれない春に思いを寄せている一人である。
一度、こんなことがあった。
その年の12月、正月の外泊をひかえ、面会に来た長男(56歳)に対して、
1泊でもいいから外泊したいという強い気持ちがありながらも、
とうとう言えずじまいに終わった。
なぜ、率直に外泊したいと言わなかったのか。
家族に気兼ねしている理由はなんなのか。
わたしは、まだかねさんの気持ちをつかめないでいた。
それから2ヶ月が経った。
「かねさん、今日息子さんが見えますよ。家(うち)に帰りたいって、わたしから言ってあげましようか」、と
親切の押し売りをしたところ、
「家に帰りたくない」と力弱に返ってきた。
「どうして帰りたくないの?」と意地悪な質問をすると、
「2,3日間だけなら家に帰りたいけど・・・・、でも、またここにいられるようにしてほしい。
長男の嫁は、30年前に階段から落ちたことが原因で、そのときにきちんと治療しなかったこともあって
腰と両膝が悪く、やっとの思いで歩いている。とても面倒を看てもらうなんてできない。
だから、ここに置いてほしい」と心情をうちあけた。
「家に帰りたくない」という言葉には、
「帰りたいけど、帰ることができない」という
かねさんの思いが隠されていたのだ。
入所相談をしていて思うことは、言葉の表面だけをとらえていてのでは、
人間のもつ言葉の深さとその人の思いを理解することはできないということである。
かねさんは、自分自身の存在を家族から引き離し、否定することによって、
病弱な嫁の体を守り、家族の生活を保たなければという、辛い思いのなかで黙していたのである。
長男との面会を終えたあと、彼女は亡き夫の思い出や子育ての苦労話などをしみじみ語ってくれた。
「夫は13年前の12月20日に脳卒中で倒れ、一月後に亡くなった。
そのときは、自分は糖尿病で入院していたので、傍に居て看病してやれなかった。
そのことが辛く、心残り・・・・。
でも、夫と築きあげてきた味噌・醬油づくりの仕事は、いま、孫が跡を継いでいるので安心。(中略)
長い人生のなかでいちばん辛かったことといえば、戦争です。
30代後半のとき、夫が出征し、16歳から2歳までの4男2女の6人子どもを抱え、
3年間女手ひとつ、生活のやりくりと子育ては大変だった。
あのときはどこの家も貧しくて、いまの若い人たちにできるかどうか・・・・。
戦争が終わり、夫が突然家に帰ってきたときは、ほんとうに嬉しかった」。
作家の井上靖さんのふみ夫人も、かねさんと同じようなことを記していた。
「57年いっしょに居て、思い出はたくさんあるけれど、いちばん嬉しかったのは、戦争から無事に帰ってきてくれた」ことである。
かねさんもふみさんも、戦争の悲惨さ、戦争による肉親との別れや再会の体験をしているからこそ、
辛苦と歓喜の思いは、人一番強いのかもしれない。
明治・大正生まれの女性は、忍耐と犠牲の生活史であるがゆえに、
耐えていく、自分を抑えていく術を知っている。
戦前の家制度と度重ねる戦争によって、忍耐の精神とその生活を身にしみるほど知っているから、
かねさんは、人生の最終章に入っても「家に帰りたくない」と呟いたのかもしれない。
「ここに来たころは、わずかではあったが、なんとかつかまりながら歩けた。
いま、歩けなくなった。歩けなくても、せめて立つことができればと思う。
トイレで用足しができれば最高なのだが・・・・・」。
かねさんは、諦めと希望の交錯した思いを語って、その日の話を終えた。
かねさんの「家に帰りたい」という願いは、どうしたら実現できるのか。
K老人保健施設では、家庭復帰に向けての取り組みがはじまったところである。
「闇」のなかに「光」を求めるように、家庭に帰る希望を最後まで失わずにいたいものである。
1989(平成元)年1月に茨城県で最初にできた老人保健施設に生活相談員として、老人介護の世界に足を踏み入れた。
かねさんのことは1990(平成2)年に書いたもので、いま、読み返すと「何と大雑把な介護にたいするとらえ方で、恥ずかしくなってしまう」。
当時、老人保健施設は、病院から老人保健施設に移され、リハビリをして「家に帰る」といった中間施設であった。
しかし、現実的には「家に帰れる老人」はわずかであった。
かねさんの思いをどうとらえ、かねさんの思いを深め希望につなげていくことができなかった。
かねさんは、戦争で辛い体験をし耐えてきたことを思うと、
自分は「家に帰りたい」けれど施設で生活することの寂しさは耐えることができる。
自分が家に帰ると、自分たち夫婦が築いてきた味噌・醤油の製造業ができなくなる。
家に帰らないで施設で生活するしかない。
歩けなくても、せめて立つことができればと思う。トイレで用足しができれば最高なのだが・・・・
いまならば、歩けなくても、ひとりで立ちトイレで用を足すことができる、介護実践を身につけているので、
かねさんの願いを叶えることができる。
当時は未熟で、トイレで排泄をする、という考えも及ばず、布おむつ全盛期で、ベッド上で定時交換であった。
あれから36年が経ち、施設介護から、いまは在宅介護の現場にいる。成長が余りないまま時間だけが流れていった。
最後の最後に来ても、まだ老いとは、生きるとは、死とは、未だに問い続けている。
冬の厳しさを知っているものほど、春を待ち焦がれている。
それと同じように、さまざまな事情で家族から離れて老人保健施設などで生活している老人ほど、
家庭復帰を待ち焦がれている者はない。
「家なき老人」にしてみれば、
「春」という言葉と「家族(家)」という言葉は同義語なのかもしれない。
平成2(1990)年4月に入所した関かねさん(86歳、頚椎症による歩行障害、脳血栓、糖尿病)も
いつ来るともしれない春に思いを寄せている一人である。
一度、こんなことがあった。
その年の12月、正月の外泊をひかえ、面会に来た長男(56歳)に対して、
1泊でもいいから外泊したいという強い気持ちがありながらも、
とうとう言えずじまいに終わった。
なぜ、率直に外泊したいと言わなかったのか。
家族に気兼ねしている理由はなんなのか。
わたしは、まだかねさんの気持ちをつかめないでいた。
それから2ヶ月が経った。
「かねさん、今日息子さんが見えますよ。家(うち)に帰りたいって、わたしから言ってあげましようか」、と
親切の押し売りをしたところ、
「家に帰りたくない」と力弱に返ってきた。
「どうして帰りたくないの?」と意地悪な質問をすると、
「2,3日間だけなら家に帰りたいけど・・・・、でも、またここにいられるようにしてほしい。
長男の嫁は、30年前に階段から落ちたことが原因で、そのときにきちんと治療しなかったこともあって
腰と両膝が悪く、やっとの思いで歩いている。とても面倒を看てもらうなんてできない。
だから、ここに置いてほしい」と心情をうちあけた。
「家に帰りたくない」という言葉には、
「帰りたいけど、帰ることができない」という
かねさんの思いが隠されていたのだ。
入所相談をしていて思うことは、言葉の表面だけをとらえていてのでは、
人間のもつ言葉の深さとその人の思いを理解することはできないということである。
かねさんは、自分自身の存在を家族から引き離し、否定することによって、
病弱な嫁の体を守り、家族の生活を保たなければという、辛い思いのなかで黙していたのである。
長男との面会を終えたあと、彼女は亡き夫の思い出や子育ての苦労話などをしみじみ語ってくれた。
「夫は13年前の12月20日に脳卒中で倒れ、一月後に亡くなった。
そのときは、自分は糖尿病で入院していたので、傍に居て看病してやれなかった。
そのことが辛く、心残り・・・・。
でも、夫と築きあげてきた味噌・醬油づくりの仕事は、いま、孫が跡を継いでいるので安心。(中略)
長い人生のなかでいちばん辛かったことといえば、戦争です。
30代後半のとき、夫が出征し、16歳から2歳までの4男2女の6人子どもを抱え、
3年間女手ひとつ、生活のやりくりと子育ては大変だった。
あのときはどこの家も貧しくて、いまの若い人たちにできるかどうか・・・・。
戦争が終わり、夫が突然家に帰ってきたときは、ほんとうに嬉しかった」。
作家の井上靖さんのふみ夫人も、かねさんと同じようなことを記していた。
「57年いっしょに居て、思い出はたくさんあるけれど、いちばん嬉しかったのは、戦争から無事に帰ってきてくれた」ことである。
かねさんもふみさんも、戦争の悲惨さ、戦争による肉親との別れや再会の体験をしているからこそ、
辛苦と歓喜の思いは、人一番強いのかもしれない。
明治・大正生まれの女性は、忍耐と犠牲の生活史であるがゆえに、
耐えていく、自分を抑えていく術を知っている。
戦前の家制度と度重ねる戦争によって、忍耐の精神とその生活を身にしみるほど知っているから、
かねさんは、人生の最終章に入っても「家に帰りたくない」と呟いたのかもしれない。
「ここに来たころは、わずかではあったが、なんとかつかまりながら歩けた。
いま、歩けなくなった。歩けなくても、せめて立つことができればと思う。
トイレで用足しができれば最高なのだが・・・・・」。
かねさんは、諦めと希望の交錯した思いを語って、その日の話を終えた。
かねさんの「家に帰りたい」という願いは、どうしたら実現できるのか。
K老人保健施設では、家庭復帰に向けての取り組みがはじまったところである。
「闇」のなかに「光」を求めるように、家庭に帰る希望を最後まで失わずにいたいものである。
1989(平成元)年1月に茨城県で最初にできた老人保健施設に生活相談員として、老人介護の世界に足を踏み入れた。
かねさんのことは1990(平成2)年に書いたもので、いま、読み返すと「何と大雑把な介護にたいするとらえ方で、恥ずかしくなってしまう」。
当時、老人保健施設は、病院から老人保健施設に移され、リハビリをして「家に帰る」といった中間施設であった。
しかし、現実的には「家に帰れる老人」はわずかであった。
かねさんの思いをどうとらえ、かねさんの思いを深め希望につなげていくことができなかった。
かねさんは、戦争で辛い体験をし耐えてきたことを思うと、
自分は「家に帰りたい」けれど施設で生活することの寂しさは耐えることができる。
自分が家に帰ると、自分たち夫婦が築いてきた味噌・醤油の製造業ができなくなる。
家に帰らないで施設で生活するしかない。
歩けなくても、せめて立つことができればと思う。トイレで用足しができれば最高なのだが・・・・
いまならば、歩けなくても、ひとりで立ちトイレで用を足すことができる、介護実践を身につけているので、
かねさんの願いを叶えることができる。
当時は未熟で、トイレで排泄をする、という考えも及ばず、布おむつ全盛期で、ベッド上で定時交換であった。
あれから36年が経ち、施設介護から、いまは在宅介護の現場にいる。成長が余りないまま時間だけが流れていった。
最後の最後に来ても、まだ老いとは、生きるとは、死とは、未だに問い続けている。