日本と世界

世界の中の日本

上官がくれた命 戦艦「大和」生還兵の証言

2020-10-24 14:41:51 | 日記

上官がくれた命 戦艦「大和」生還兵の証言

憧れの海軍に

 旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦「大和」。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月7日、沖縄海上特攻の途中、米艦載機の猛攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。乗組員3332人のうち、生還者は276人。

 敵機との距離を測る測的手だった八杉康夫さん(87)=広島県福山市=は、沈没寸前の大和から海中に飛び込んだ。溺れかけたとき、上官に「頑張って生きろ」と丸太を渡され、生き残ることができた。

◇    ◇    ◇

 昭和2(1927)年秋、広島県福山市の豆腐屋で生まれました。小学校でピアノに出会い、中学校に入った時にアコーディオンを買ってもらいました。当時はとても高価な楽器でしたから、夢中になって練習しました。学校の勉強はできる方でした。

 太平洋戦争が始まったのは中学生のときです。陸軍は荒っぽいが、海軍はさっそうとしていて格好が良く、ひかれました。海軍が志願兵を募集していることを知ったときは、迷うことなく飛びつきました。

 昭和18(43)年に大竹海兵団に入りました。「軍人である前に立派な人間になれ」という団長の言葉を聞き、海軍に入って良かったと思いました。その後、横須賀の砲術学校に配属になりました。そこでは、敵の艦隊や飛行機に大砲を撃つために距離を割り出す「測的」をひたすら勉強しました。成績優秀者だけが選ばれる補修員にも選ばれました。

 ある日、分隊士に呼ばれました。昭和20年1月3日のことです。通常なら、上官とは1メートル離れて立たなければいけないのですが、分隊士は「いいから前へ来い。耳を貸せ」と言います。反射的に殴られるのかと身構えると、「いいか、お前の行き先は大和じゃ。良かったな」と耳打ちされました。

 「あの船は絶対に沈まない。大和が沈むときは日本が沈むときだ」。憧れの大和乗艦を命じられ、涙が出るほどにうれしかったです。その時は17歳の上等水兵でした。

大抜てきの測的手

 大和は全長263メートル、46センチの3連装砲塔3基を搭載した史上最強の戦艦です。とても大きくて、初めて見たときは島かと思いました。

 任務は、主砲を撃つため、艦橋の最上部にある測距儀(そっきょぎ)で敵艦隊や敵機との距離を測り、砲手に指示を送ること。測的手とも言います。

 当時の測距儀では5万メートル先まで測れ、主砲の最大射程距離は4万メートルでした。大和の測距儀は長さが15メートルもあり、とても大きかったですね。

そこに、5人で配置に就く。艦橋の一番上で、海面から30メートルの高さにあります。重要な任務に17歳で大抜てきされたこともあり、一目置かれる存在になりました。

 昭和20年3月29日、大和は沖縄戦に向け呉を出港します。4月6日には三田尻沖(現・山口県防府市)を出て、みんなで皇居の方に向かって敬礼し、国歌を斉唱しました。さらに「海行かば」を歌い、故郷にも別れを告げるよう命じられました。

「こういう歌い方、別れ方をさせるのか」と思いましたね。

 3月26日には特攻を意味する「天一号作戦」が発動されていましたが、この別れで、特攻であることを改めて実感しました。世界一の戦艦で特攻したら日本は終わりだと思っていましたから、特攻はあり得ないと信じていました。

 【戦艦「大和」】
 昭和16(1941)年12月に呉海軍工廠(こうしょう)で竣工(しゅんこう)。全長263メートル、最大幅38.9メートル、最大速力は27.46ノット。世界最大の46センチ3連装砲塔を3基搭載。同型艦の「武蔵」に引き継ぐまで連合艦隊旗艦を務めた。

襲い掛かる魚雷

 4月7日は朝から曇っていました。飛行機が雲に隠れると測的が難しいので、「嫌だな」と思ったのですが、お昼におにぎりを食べながら、「来るなら来い。1機残らず撃ち落としてやる」と自分を奮い立たせました。

 昼食中に見張りが敵機を発見。すぐに測距儀に飛びつき、レンズをのぞくと無数の飛行機が迫ってきました。あまりに多かったため、真っ黒な塊に見えました。

 距離を測ろうとしたとき、敵機は高度を上げて厚い雲に隠れました。そうなると測れません。打つ手がないのです。「何のための訓練だったのか」と、とても悔しかったです。

 午後0時半ごろ、米軍機は真上から突っ込むように攻撃を始めました。主砲は距離があるときに撃つのが目的ですが、距離が測れなかったため、結局、最後まで放たれることはありませんでした。最初に使ったのは史上最大の主砲でも副砲でもなく、機銃だったのです。

 米軍は大和の左舷を狙って魚雷を撃ち込んできました。攻撃は第一波、第二波、第三波、第四波とどんどん続き、その度に艦が大きく揺れます。砲術学校では15度傾いたら船は限界と習っていましたが、巨艦は15度、25度と傾いていきます。

 大和には注水システムがあったので、片方から水が入るともう片方にも水を入れ平衡を保つようになっていました。そのため、いったんは平衡になり、「やっぱり沈まないのだ」とうれしくも思いましたが、攻撃を受け続け、結局、どんどん傾いていきました。

 艦橋から後部を見ると、白煙が上がっていました。甲板は死傷者であふれ、衛生兵が吹き飛んだ腕や足を海に放り投げていました。

沈没、そして重油の海へ

 50度ほど傾いたときだったと思います。海軍では持ち場を離れることは許されていないのですが、ついに「逃げろ」を意味する「総員、最上甲板へ」という命令が出ました。

 海に飛び込むしかないと思ったときです。目の前にいた少尉が戦闘服を脱ぎ、ベルトを外しました。戦闘帽を日本刀に巻き、腹に刺したのです。少尉は一気に腹をかっさばき、大量の血が噴き出した。当時は割腹の方法も習っていましたが、その通りに実行しました。

 「やめてください」と言いたいが、凍りついて声が出ません。世話になった少尉の割腹は、17歳の自分には信じられない光景でした。震え上がったまま、静かに敬礼しました。気付くと艦は90度まで傾いていて、波が目の前まで来ていました。

 艦橋から海に飛び込みましたが、今度は沈む大和がつくる大きな渦に巻き込まれました。水圧で胸が締め付けられ、息ができません。午後2時23分、大和は沈没し、爆発。その衝撃で海面に浮き上がったのですが、鉄片で右足を負傷しました。爆発後、しばらく気を失っていたと思います。

 泳ぎは得意だったのですが、傷を負ったこともあり、重油があふれる海で溺れだしました。「助けてくれ」と思わず叫んでしまい、すぐにしまったと後悔しました。

 すると、そばにいた高射長が近づいてきました。怒られるのかと思ったのですが、高射長は「落ち着け。もう大丈夫だ」と優しく声を掛けてくれました。そして「お前は若い。頑張って生きろ」と、つかまっていた丸太を渡してくれたのです。礼を告げた後、しばらくの間、泣いていました。

死を選んだ高射長

 海で4時間ほど漂流しました。その間、大和の鋼鉄の破片に当たって死ぬ人や、渦に巻き込まれる人、冷たい海に体力を奪われ力尽きる人が大勢いました。

 生き残った者で簡単ないかだをつくり、それにつかまっていました。海はものすごく冷たく、そのうちに睡魔に襲われました。

 「死んでもいいから眠りたい」と思うほどの睡魔です。自分より年下の水兵は睡魔に負けて眠ってしまいました。そばにいた上官が「眠ったら死ぬぞ」とその水兵を殴りました。彼は「申し訳ありません」と目を覚ましましたが、またすぐ眠ってしまいます。

 そのうちに、別の上官が「もう眠らせてやれ」と言いました。彼は海の中へ沈んでいきました。かわいそうでしたが、どうすることもできません。そして、次は自分の番だと思いました。

 夕方に駆逐艦「雪風」「冬月」が来ました。生き残った者たちは一斉に救助のロープに群がりました。人が殺到している場所を避け、艦の後部に回ったところ、そこに丸太をくれた高射長がいたのです。

 「高射長」と声を掛けると、高射長はあごで「行け」と合図をしました。そして、駆逐艦に背を向け、大和が沈んだ方へ泳いでいきました。海の中へと消えていく姿に「高射長」と何度も叫びました。

 あんなに大きな声を出したことは、生涯でありません。力の限りの声を振り絞り、何度も叫びました。

 自分に「生きろ」と言った人が、自分の目の前で死を選ぶ。その姿を見届けたときの気持ちは言葉では言い表せませんが、空の攻撃から大和を守る最高責任者だった高射長は、大和と運命を共にすることを選んだのだと思います。そして、自分に命をくれたのだと思っています。

被爆直後の広島で

 その後、呉に戻りましたが、重油も動ける戦艦もありませんでした。間もなくして陸戦隊に入りましたが、本土決戦を控え、銃さえ十分になかったのです。このとき「日本はもう駄目だ」と痛感しました。5月に水兵長に昇格し、呉鎮守府の第23陸戦隊に配属になりました。

 夏になりました。8月6日、広島に爆弾が投下されたときは呉にいました。朝8時ごろ、B29が1機だけ飛んでいきました。その数分後、パァーと光りました。直後に猛烈な風が吹き、防空壕に飛び込みました。

 翌7日、広島駅の復旧作業のため、広島に向かいました。駅の周辺には男女の区別がつかない真っ黒な死体がごろごろとありました。死体置き場になっていたのです。

 8日は部下2人を連れて、市内に偵察に入りました。現在の原爆ドーム付近や爆心地にも行きました。京橋川の土手にはたくさんの死体が横たわっていました。

 その様子をスケッチにして、帰ろうとしたときです。子どもに両足をつかまれたのです。小学4~5年生くらいの少年でした。か細い声で「兵隊さん、水をください」と言いました。当時、重傷者には水を与えてはいけないと教えられていたため、「戻ってくるから待っておれよ」と言い聞かせ、その場を離れました。

 その後、少年のところには戻りませんでした。あの子はきっと自分が水を持って戻ってくるのを待ちながら死んだはずです。なぜ、水をあげなかったのか。水を飲ませて死なせてあげればよかった。70年たった今でも、悔やんでいます。

「頑張って生きました」

 戦後はアコーディオン奏者になり、NHKで始まったのど自慢大会での伴奏を任されました。その後、調律師になりました。被爆の影響から輸血が必要な時期もありました。大和のことが忘れられず、1980年代に入った頃、海中に眠る大和探しにも携わりました。

 日本は平和ぼけなどとも言われていますが、殺人事件なども絶えない中、戦争を知らない若い人たちに平和について考えてほしいと思うようになりました。たった数十年前に、日本で何が起こっていたのか、そのことについて考えてもらいたいです。

 不沈戦艦の沈没は、晴天の霹靂(へきれき)でした。大和と死ぬのは名誉だと信じていましたが、自分は生き残りました。

 生き残ったことに対する罪悪感にさいなまれながら、生きたくても生きられなかった仲間のため、生涯をかけて大和のことを世に残そうと語り部になりました。これまでに全国で600回以上の講演を行いました。

 今年の秋、88歳になります。死ぬのは怖くありません。大和が沈んだとき、死んでもおかしくなかったのですから。死んだら仲間に会えると思っています。みんなに胸を張って会いたいです。そして「頑張って生きました」と高射長に伝えたいです。

聞き手:時事通信社 及川彩
編集:時事ドットコム編集部
(※インタビューは2015年5月に行いました)

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿