1209 経済社会学会 報告
「三陸ひとつなぎ自然学校」 被災地に生まれたコミュニティビジネスへの試み
NPO法人ねおす 理事長 高木晴光
◆はじめに
2011年3月11日14時46分、地震発生。あれからもう3回目の夏になった。私達が支援活動を継続する釜石市鵜住居、箱崎半島から大槌湾沿岸地域は、大きな被災瓦礫は片付いたものの目に見えるような復興工事が大々的に始まってはいない。家を失った人々の恒久住宅も一部は建設着工されたとは言え、土地確保は遅々として、被災者の大多数は今も仮設住宅での暮らしが続いている。漁港の嵩上げ工事もかなりの先延ばしとなり、はたまた自力で営業を始めた店舗が新たな国道設置場所と変更となり、再び移転を求められるケースも出ている。仕事がないために実質人口はすでに1万人は流出したと言う市民もいる。被災地の過疎が加速度を増しているようにも感じる。一方では都会からの人材の移入を行政が後押しをしているが、地元人材との協働がどのように展開されてゆくかはこれからだ。その道のりはまだまだ長い。「元に戻す」のではない、「新しい町づくり」に期待し、これからもできることの支援を続けたい。
◆東日本大震災の発災とNPOねおすの初動
釜石市が郷里のスタッフがいたことが、初動の大きなきっかけとなった。発災翌日、3名にて函館から函館方面で活動する仲間が迅速に手配した再開第1便のフェリーに乗り青森経由で現地入りした。
車で走る東北内陸には被災個所は全くと言っていいほど見当たらなかった。しかし、岩手に入るとすでにガソリンスタンドは長蛇の列となり、スーパーマーケットは買い物客の入場制限が行われていた。緊急車両優先の道路封鎖が各所にあり迂回路を探しながら、釜石市に隣接する遠野市に入ったのは、13日昼過ぎだった。民間車両が沿岸に近づけるのは、笛吹峠を通る県道だけであったが、市の職員ですら、「土砂崩れの状況はわからない、ただ沿岸から来る車があったので、通れるだろうが責任は持てない」との回答であった。現地情報を探るにも的確な回答を得ることができなかった。迷いを捨て意を決し峠を越え沿岸に近づくことにした。すれ違いも難しい細い県道には対向車両はなく、また土砂崩れにも遭遇することもなく太平洋に注ぐ鵜住居川流域に入った。
中山間の集落はまったく地震被害の様子もなく、東北ののどかな佇まいを見せていた。しかし、沿岸に近づくと風景は線を引いたが如く一変した。津波の最終到達地点からは海は見えない。「天国と地獄」を跨いで見た気がした。道路は流れ着いた瓦礫で埋まって進むことができなかった。一台のブルトーザーが唸りを上げて懸命に道を開けていた。目指すスタッフの実家は、海岸傍であり事態の絶対的な深刻さは見るも明らかであった。
夕方になり、私達は津波が到達していない農家の庭先にテントを張ることにした。被災者の多くはすでに避難所に入っていたが物資はなく、翌日に訪ねた避難所に持ち込んだ毛布や食料はあっと言う間になくなった。地域総出で支援にあたっていた。物資の補給ルートを作ることから始まった支援活動は、現在も釜石市北部、鵜住居川上流の栗橋地区を拠点に継続している。手がつけられない壊滅的状態の中で始まった支援活動は、半年がまるで4年も5年分もあったかのごとく密度濃い時間の積み重ねであった。しかし、復興の道のりはまだまだ長く厳しいだろう。
◆今できることは何か ・・・情報伝達の難しさ
100人ほどの被災者が身を寄せた小さな避難所一か所だけで持ち込んだ物資はあっという間になくなった。発災から4日目なのに衣類を替えていない、毛布がない人がほとんどだった。津波の難は逃れたが雪が降る程の寒さで亡くなった方もいた。想像を絶する巨大津波に破壊された市街地を前にして、携帯電話、ラジオも入らない。物資を運びこんだあとは正直言って成す術(すべ)がなかった。「できることは何か」、考えるしかなかった。被災者と一うー緒に行方不明者を探し、運び込んだジャガイモを茹で被災者に、持ち込んだわずかな車両燃料を消防団や商店に提供した。我々の車両燃料に灯油を注ぎ足しもした。情報が途絶えていたので現状を伝えに内陸の町へ行き、地元NPOを探し出し必要物資の調達ルートを設定し、札幌のねおす本部にSOSを発信し必要な物資を要求した。意外にも遠野市のスーパーは何事もなかったように開店をしていた。幹線道路が封鎖されていたので、細い山間道の峠を越えて現地を見に行った市民はまだほとんどいなかったのだろう。情報が途絶していることを知った。食料品こそ棚は空になってはいたが、大量の下着も手に入れることができた。
目の前に広がる悲惨な現状は被災地の真っただ中にいても、いったい何が起こったのか、その現実に着いてゆけない。被災地の状況を被災地外に伝えることは難しい。今、目前の事態に対処してゆくことが求められた。私達の合言葉はいつの間にか、「今、できることをしよう」となりスタッフに浸透し、ワゴン車2台による物資と人のピストン輸送が始まった。
◆なぜ初動できたか、なぜボラセンを独自運営できたか。
3月11日の発災時刻は私の次女の結婚式で、ニセコの小さな教会の地下にある待合室で式を待っていた。揺れは全く感じなかった。式に続く披露宴、親族との二次会もあり、事態をしったのは深夜のTVニュースであった。
発災し本州に渡る交通手段が途絶えた状況下で、支援活動を初動できた直接的な要因は四点ある。
第一は釜石出身の職員、柏崎未来の存在であった。発災後、釜石の状況はなかなかTV映像では流れなかった。3月12日の昼頃、初めて釜石市街地に流れ込む濁流が画面に映し出された。同時に刻々と事態が悪化する福島原発事故も伝えていた。出動するか否か暫し逡巡したが、ねおすというコミュニティ全体が彼女と彼女の郷里を心配している、「通常業務はできない」と直感した。出動以外の選択肢はなくなった。
第二点は、野外行動技術を有する私達はテントと寝袋、マッチと鍋があればどこでも生きてゆけるとの自信があり、装備もある。被災現場は想像を越えていたが、そこに向かうことに大きな不安は覚えなかった。
第三点は、ねおす自体がネットワーク型組織であったことだ。例えば、函館に居住するスタッフが本州に渡るフェリーを押さえ、車両燃料を確保した。札幌本部では多くの人が住む大都市の利点を活かして即座に資金集めを開始した。私が直轄している黒松内ぶなの森自然学校はワゴン車両を複数台保有し、装備や食料の備蓄があった。異なる地域に拠点を持つ個別の事業体がそれぞれの特徴を一気に発揮した。
そして、第四点は、NPOの定款に「災害支援」を書き込んでいることにある。これは阪神大震災時に初動できなかった反省の上に立って明文化した。災害支援は定款上で、ねおすの本来活動であり、理事会や正会員の意向を聞くことなく理事長判断で迅速に行動を起こすことができた。
私達の本業とする野外活動では、スタッフは刻々と変化する自然環境の状況や参加者の状態の中で、スタッフ間で活動目標は共有するが、その到達へのプロセスは各自の判断で臨機応変に対処する力が求められる。今回はそのノウハウが活かされた。
初動では監督の指揮命令が優先する野球型ではなく、実働者に瞬時の判断と行動を任せるサッカー型のチームプレーを行った。第2陣以降は、スタッフの個性と特性を考えて人材を投入する監督が私の役割であった。「自主・自律できる人材の学び場づくり」、「地域ツーリズム = 学びと交流の場づくり」がねおすのミッションであり、職員は常日頃から北海道の各地域拠点で地域住民と関わりを持ち、かつ地域内外とのネットワークづくり、交流創出を展開している。これらの経験があったからこそ、緊急事態の中でも初動からボランティアセンターの立ち上げまで職員同士が連携し、現場での自己判断と臨機応変な行動により一気に走りぬけることができた。
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◆情報社会の脆弱性とインターネットの有用性
東日本大震災は、近世において日本人が直面したことがない沿岸津波の大災害であり、それも過疎地域において壊滅と言われる程に市街地や小さな集落が被災した。阪神淡路大震災は数多くの人々が居住する都市の被災であったが、今回は福島から岩手に及ぶ広範囲の沿岸過疎地域の被災であった。
まず、情報が途絶した。釜石鵜住居地域は長期間停電し通常電話、TVはもとより携帯電話も通じなかった。福島原発の状況は雑音に混ざってかすかに聞える携帯ラジオだけが頼りであった。それも朝晩の電波状況がやや良い時にかすかに聞こえるだけであり、情報も断片的でしかなかった。原子炉建屋の爆発状況は1週間たった帰りのフェリーの中でTVニュース画像を見て始めて知った。驚愕した。原発が危機的な大事故を起こしていることは、被災地の大多数の人々は知る由もなかった。あの状況下で放射能が北へより拡散していたらと考えると戦慄すら覚える。
物資があまりにも不足していたので、3/16に被災を受けていない内陸の遠野市へ連携を求めに灯油で燃料を薄めた車で1時間かけた。探し当てた現地NPO事務所は市街の大型スーパーの2階の一角にあった。スーパーは営業をしており、食料品の棚こそは空であったが、衣料品コーナーにはたくさんの衣類が並んでいる様を見て目を疑った。避難所には食糧は自衛隊が配送し確保され始めていたが、生活必需品類は下着すらまだ届いていなかった。「すでに割引セールをしている」と呑気な回答をする売り場責任者に被災地現場の様子を説明しても埓があかないので、持ち合わせたお金でありったけの下着を購入した。現地NPOからは「現場では今何が必要だ!」と即座に質問を受けた。「衣類、とりわけ下着や靴下、トイレットペーパー、歯磨き・・」など様々な品目を伝えた。まさしくアナログな伝令であった。彼らは物資支援の要望品としてインターネットにすぐさま書き込んだ。すると、5分もたたないうちに、「歯磨き5,000本」「下着も大量に送る」と言う回答が続々と全国からメールで寄せられた。インターネットは相手の顔が見えないままにも社会に協働意識を育んだ道具であったことを見せつけられた瞬間でもあった。
その後の市職員からの聞き取り調査によると、3月末頃までは市災害本部と鵜住居地域の間での情報のやり取りは車の燃料もこと欠いていたので、行政ですら時には人が歩いて自ら届ける伝達だけであり、極端に情報が不足していたことがわかった。現代社会の情報のやり取りが携帯電話やパソコンにあまりにも頼り過ぎていることに気づかされた。通信手段が途絶する広域災害に対して情報社会はあまりにも脆弱であることが露呈された。大災害の最中にあると、人は自らの身体を動かして情報を獲得、伝達することすらできなくなってしまうのかもしれない。
◆ワーキングネットという概念
有用有効なネットワークは初めから存在しない、状況に応じて徐々に編みこまれ張り巡らされるべきである。これをワーキングネットと称している。
「現在より状況が改善されるベターを求めて、今できることを各自が判断して実行する。しかし、協働の大切さを忘れてはならない」これが、ねおすの行動規範である。それができるようになることが、ねおすの人材育成の目標である。今回の支援初動では、まずは個人が事態に対応する初動を開始し、ねおす組織内において各人の特性を生かした連携が事態に応じながらバックアップされた。支援体制は綿密な話し合いが行われ構築されたのではない。状況に応じて連携を深めてゆくワーキングネット・Workig-NETと呼ぶ手法が実行され、連続的に支援車を現地に送り込む体制が数日の内にできた。
第1陣はテント生活、第2陣は遊休施設を探し、地域からの信用を作り出し、第3陣は施設を借り、物資の供給を中心支援活動としつつ、3/19には被災者児童のケア活動も開始した。テントから地域施設に拠点を移すまでをわずか1週間で成し遂げたことは、これまで私達が北海道各地で実践してきた地域活動のWorking-NETのノウハウが応用できたことに他ならない。
その後は、被災者のニーズ調査、周辺集落状況把握、他NPOと連携、物資配送の体制づくりを行い、3月末には独自のボランティアセンターを立ち上げた。そして北海道や全国からやってくる数多くのボランティアの受け入れも独自に開始した。
NPO活動がまだ希な釜石市にとっては、社会福祉協議会を通さない災害支援ボランティア活動が始まったこと自体がとても珍しいことであった。物資提供、瓦礫の撤去作業、洗濯もできる場づくり、被災者同士・ボランティアともお茶を飲みながら交流ができる、「青空喫茶」の開店、地域住民と協働し高齢者のディケア活動等、広く生活一般への支援を本格化し、「今、目の前にある問題解決」を行い、スタッフが交代しながら徐々に地域との信頼関係を築いて行った。それと同時に地元支援団体との連携、北海道を始め各地からやってくる支援団体の活動場所の調整手配も実施した。
◆役割は待っていてもやってこない。
災害支援は、被災直後は外から来た支援者だけの判断で行えることがある。しかし、事態が一旦鎮静化してからは、支援は一方的に行うのではなく、地域住民と顔を突き合わせ身体を張り合う中で行われるべきである。それも必要な支援をタイミング良く即座に行う支援活動がなければ地域との相互信頼関係は生まれない。それがあってこそ被災者、地域内で支援する地元の人々との協働意識が醸造されることを改めて痛感した。
また、ワーキングネットの過程ではインターネットの活用がとても有用であること、またインターネットを介したこれまでの人々とのつながりが、緊急事態に即応した新たな協働関係を促進させてゆくことも強く実感させられた。支援活動は、避難した被災者だけではなく被災者を受け入れた地域とも交流を重ね、外から支援に来た我々が何者であるかをわかってもらい「信用」を得ることが大切である。一方的な支援は長続きしない。支援の「役割」は与えられることを待つのではなく、役割を見つけ出す・創り出すという姿勢と態度が必要である。
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◆被災地支援と若者ボランティアの成長
被災地支援活動には数多くの若者が参加した。特に支援初期から夏にかけて2週間、3週間と長期に現地滞在するボランティアには、指示を受けて活動するだけではなく、ある一定の範囲で支援の仕方まで工夫して形作ることもお願いした。例えば、青空喫茶の開店では場所の選定と土地所有者からの了解は、ねおすが責任を持って取り付け、目的(避難所からなかなか出てこない人達を外出させ気分転換・健康維持ができるようにしたい、ボランティアと被災者、被災者同士の交流の場をつくりたい、必要な物資が得られる自由無料市場としたい)を共有し、その具体的なやり方についてはボランティアの裁量を大きくした。その結果、自彼等は自分達で苦心して広報手段を考え、人を集めることに務めた。自らが考え自らが行動を起こし、その結果として利用者から喜ばれた体験は、若者達の達成感が大きく自己肯定感を高め自信につながって行った。当初は大学がお膳立てをし、バスでボランティアセンターの応援に駆け付けた山梨県の都留文科大学はその後、学生自らが支援補助金を獲得し被災地支援を始め、ねおすを現地調整役に使うようにもなった。また、札幌の「エゾロック」は、現地へ送り込むボランティアの独自の募集・事前オリエンテーションの仕組みを作り上げて行った。彼らの成長には目を見張るものが数多くあった。
ねおすボランティアセンターは、単なる労働力としての瓦礫撤去作業だけでボランティアが帰ることがないように、被災者や地域住民と触れ合う、話ができる場を可能な限りコーディネイトをした。夏になり被災漁業者自らが復興を目指すようになると、漁師と一緒に養殖筏の資材準備を行い、食事をする機会も多くなった。被災者や地域住民から直接聞く被災・避難の話はそれを聞いた者の心に深く浸透し、彼らのこれからの生き方にも強い影響を与えたと思う。瓦礫撤去作業をし、地域の農家に民泊したある女子学生が「今回の体験は私の人生観に大きく影響を受けたと思う」と振り返った。その話を聞いた農家のご主人の眼には涙が浮かんだ。人が人に関わることによる歓びをお互いに感じ、大きな人生の学びを得た瞬間だった。「絆」とはこういう場面で結ばれるものだと思う。
この事実は、復興における交流ビジネスの創出という可能性を示唆している。今の被災地支援は初期のように外から大勢のボランティアを必要とする局面ではない。しかし、過疎地域での大災害は人の流失を加速化させている。被災地復興は元に戻すことではない。そして長い時間がかかる。元の良さを残しつつも、被災地に新しい「交流」を創出する地域再生が今必要とされている。
◆三陸ひとつなぎ自然学校 ~ コミュニティビジネス化の試み
この交流創出を仕組化するために、これまでの経験や実施活動を糧に「三陸ひとつなぎ自然学校」という組織化を試み、コミュニティビジネスとしての自立支援に力を入れている。
しかし、人材の流出は紛れもない事実であろう。起業や仕事の再興で求人をしても集まらないということが常態化している。ボランティアによる支援は個別の商店や漁業者の業務サポートも多くなっている。働き手の不足と再興中で賃金まで手当できないという実態もある。一方、瓦礫の処理も続き、復興工事は一部では本格的に始まり建設関係の事務所が常設され長期居住をする人も増えている。工事も人手不足で日当が高く地元雇用が流れるということもあるだろう。しかし、それらはハードの公共事業であり永続的な雇用とはなりえない。いずれにしても雇用や起業再興の実態が掴みにくい。
短期のボランティアもまだまだ必要とされるが、今求められるのは長期に渡り被災地に滞在、あるいは移住し新たなる雇用を引き起こす人材の確保である。この需要に大都市にある中間支援NPO等が橋渡しをしている。大手企業からボランティア休暇を利用し、長いケースは1年に及ぶ期間で現地入りする現役社会人が複数現れている。また、国や釜石市の補助事業により起業支援をコーディネイトする有給の人材流入が開始されており、当ボランティアセンターにも滞在している。
2013年6月には、これまでボランティアセンターの運営責任を担っていた当NPO法人から「三陸ひとつなぎ自然学校」を組織として分離し社団法人として独立をさせた。関わるボランティアのスタッフジャンパーも「ねおす」の黄色から徐々に「さんつな」のネーミングを背負ったオレンジ色に変更してゆき、支援事業全体の責任体制をNPOねおすから「三陸ひとつなぎ自然学校」に移行した。また、当ボランティアセンターの責任者であったSは釜石市が行う起業・運営支援のコーディネイターとして7月から転職することになった。
参加者が負担する有料の交流プログラムにて事業を成り立たせるためには盛岡や花巻の内陸地都市部からの集客が欠かせない。また、これまでの支援活動で数多くのボランティアを受け入れ、様々な催事を行ってきた実績は「交流ビジネス創出」のノウハウ獲得を意味している。この実績とクオリティを高めることにより、地域行政からの信頼を得て、社会教育や福祉などの担い手が薄い既存事業の受託、自然学校ならではの新規事業の提案により行政との協働関係を作り出してゆくことは次なる目標である。
被災から3年目の2013年は、「三陸ひとつなぎ自然学校」がコミュニティビジネスを開始するスタートラインにやっと立てた三回目の夏でもある。
「三陸ひとつなぎ自然学校」 被災地に生まれたコミュニティビジネスへの試み
NPO法人ねおす 理事長 高木晴光
◆はじめに
2011年3月11日14時46分、地震発生。あれからもう3回目の夏になった。私達が支援活動を継続する釜石市鵜住居、箱崎半島から大槌湾沿岸地域は、大きな被災瓦礫は片付いたものの目に見えるような復興工事が大々的に始まってはいない。家を失った人々の恒久住宅も一部は建設着工されたとは言え、土地確保は遅々として、被災者の大多数は今も仮設住宅での暮らしが続いている。漁港の嵩上げ工事もかなりの先延ばしとなり、はたまた自力で営業を始めた店舗が新たな国道設置場所と変更となり、再び移転を求められるケースも出ている。仕事がないために実質人口はすでに1万人は流出したと言う市民もいる。被災地の過疎が加速度を増しているようにも感じる。一方では都会からの人材の移入を行政が後押しをしているが、地元人材との協働がどのように展開されてゆくかはこれからだ。その道のりはまだまだ長い。「元に戻す」のではない、「新しい町づくり」に期待し、これからもできることの支援を続けたい。
◆東日本大震災の発災とNPOねおすの初動
釜石市が郷里のスタッフがいたことが、初動の大きなきっかけとなった。発災翌日、3名にて函館から函館方面で活動する仲間が迅速に手配した再開第1便のフェリーに乗り青森経由で現地入りした。
車で走る東北内陸には被災個所は全くと言っていいほど見当たらなかった。しかし、岩手に入るとすでにガソリンスタンドは長蛇の列となり、スーパーマーケットは買い物客の入場制限が行われていた。緊急車両優先の道路封鎖が各所にあり迂回路を探しながら、釜石市に隣接する遠野市に入ったのは、13日昼過ぎだった。民間車両が沿岸に近づけるのは、笛吹峠を通る県道だけであったが、市の職員ですら、「土砂崩れの状況はわからない、ただ沿岸から来る車があったので、通れるだろうが責任は持てない」との回答であった。現地情報を探るにも的確な回答を得ることができなかった。迷いを捨て意を決し峠を越え沿岸に近づくことにした。すれ違いも難しい細い県道には対向車両はなく、また土砂崩れにも遭遇することもなく太平洋に注ぐ鵜住居川流域に入った。
中山間の集落はまったく地震被害の様子もなく、東北ののどかな佇まいを見せていた。しかし、沿岸に近づくと風景は線を引いたが如く一変した。津波の最終到達地点からは海は見えない。「天国と地獄」を跨いで見た気がした。道路は流れ着いた瓦礫で埋まって進むことができなかった。一台のブルトーザーが唸りを上げて懸命に道を開けていた。目指すスタッフの実家は、海岸傍であり事態の絶対的な深刻さは見るも明らかであった。
夕方になり、私達は津波が到達していない農家の庭先にテントを張ることにした。被災者の多くはすでに避難所に入っていたが物資はなく、翌日に訪ねた避難所に持ち込んだ毛布や食料はあっと言う間になくなった。地域総出で支援にあたっていた。物資の補給ルートを作ることから始まった支援活動は、現在も釜石市北部、鵜住居川上流の栗橋地区を拠点に継続している。手がつけられない壊滅的状態の中で始まった支援活動は、半年がまるで4年も5年分もあったかのごとく密度濃い時間の積み重ねであった。しかし、復興の道のりはまだまだ長く厳しいだろう。
◆今できることは何か ・・・情報伝達の難しさ
100人ほどの被災者が身を寄せた小さな避難所一か所だけで持ち込んだ物資はあっという間になくなった。発災から4日目なのに衣類を替えていない、毛布がない人がほとんどだった。津波の難は逃れたが雪が降る程の寒さで亡くなった方もいた。想像を絶する巨大津波に破壊された市街地を前にして、携帯電話、ラジオも入らない。物資を運びこんだあとは正直言って成す術(すべ)がなかった。「できることは何か」、考えるしかなかった。被災者と一うー緒に行方不明者を探し、運び込んだジャガイモを茹で被災者に、持ち込んだわずかな車両燃料を消防団や商店に提供した。我々の車両燃料に灯油を注ぎ足しもした。情報が途絶えていたので現状を伝えに内陸の町へ行き、地元NPOを探し出し必要物資の調達ルートを設定し、札幌のねおす本部にSOSを発信し必要な物資を要求した。意外にも遠野市のスーパーは何事もなかったように開店をしていた。幹線道路が封鎖されていたので、細い山間道の峠を越えて現地を見に行った市民はまだほとんどいなかったのだろう。情報が途絶していることを知った。食料品こそ棚は空になってはいたが、大量の下着も手に入れることができた。
目の前に広がる悲惨な現状は被災地の真っただ中にいても、いったい何が起こったのか、その現実に着いてゆけない。被災地の状況を被災地外に伝えることは難しい。今、目前の事態に対処してゆくことが求められた。私達の合言葉はいつの間にか、「今、できることをしよう」となりスタッフに浸透し、ワゴン車2台による物資と人のピストン輸送が始まった。
◆なぜ初動できたか、なぜボラセンを独自運営できたか。
3月11日の発災時刻は私の次女の結婚式で、ニセコの小さな教会の地下にある待合室で式を待っていた。揺れは全く感じなかった。式に続く披露宴、親族との二次会もあり、事態をしったのは深夜のTVニュースであった。
発災し本州に渡る交通手段が途絶えた状況下で、支援活動を初動できた直接的な要因は四点ある。
第一は釜石出身の職員、柏崎未来の存在であった。発災後、釜石の状況はなかなかTV映像では流れなかった。3月12日の昼頃、初めて釜石市街地に流れ込む濁流が画面に映し出された。同時に刻々と事態が悪化する福島原発事故も伝えていた。出動するか否か暫し逡巡したが、ねおすというコミュニティ全体が彼女と彼女の郷里を心配している、「通常業務はできない」と直感した。出動以外の選択肢はなくなった。
第二点は、野外行動技術を有する私達はテントと寝袋、マッチと鍋があればどこでも生きてゆけるとの自信があり、装備もある。被災現場は想像を越えていたが、そこに向かうことに大きな不安は覚えなかった。
第三点は、ねおす自体がネットワーク型組織であったことだ。例えば、函館に居住するスタッフが本州に渡るフェリーを押さえ、車両燃料を確保した。札幌本部では多くの人が住む大都市の利点を活かして即座に資金集めを開始した。私が直轄している黒松内ぶなの森自然学校はワゴン車両を複数台保有し、装備や食料の備蓄があった。異なる地域に拠点を持つ個別の事業体がそれぞれの特徴を一気に発揮した。
そして、第四点は、NPOの定款に「災害支援」を書き込んでいることにある。これは阪神大震災時に初動できなかった反省の上に立って明文化した。災害支援は定款上で、ねおすの本来活動であり、理事会や正会員の意向を聞くことなく理事長判断で迅速に行動を起こすことができた。
私達の本業とする野外活動では、スタッフは刻々と変化する自然環境の状況や参加者の状態の中で、スタッフ間で活動目標は共有するが、その到達へのプロセスは各自の判断で臨機応変に対処する力が求められる。今回はそのノウハウが活かされた。
初動では監督の指揮命令が優先する野球型ではなく、実働者に瞬時の判断と行動を任せるサッカー型のチームプレーを行った。第2陣以降は、スタッフの個性と特性を考えて人材を投入する監督が私の役割であった。「自主・自律できる人材の学び場づくり」、「地域ツーリズム = 学びと交流の場づくり」がねおすのミッションであり、職員は常日頃から北海道の各地域拠点で地域住民と関わりを持ち、かつ地域内外とのネットワークづくり、交流創出を展開している。これらの経験があったからこそ、緊急事態の中でも初動からボランティアセンターの立ち上げまで職員同士が連携し、現場での自己判断と臨機応変な行動により一気に走りぬけることができた。
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◆情報社会の脆弱性とインターネットの有用性
東日本大震災は、近世において日本人が直面したことがない沿岸津波の大災害であり、それも過疎地域において壊滅と言われる程に市街地や小さな集落が被災した。阪神淡路大震災は数多くの人々が居住する都市の被災であったが、今回は福島から岩手に及ぶ広範囲の沿岸過疎地域の被災であった。
まず、情報が途絶した。釜石鵜住居地域は長期間停電し通常電話、TVはもとより携帯電話も通じなかった。福島原発の状況は雑音に混ざってかすかに聞える携帯ラジオだけが頼りであった。それも朝晩の電波状況がやや良い時にかすかに聞こえるだけであり、情報も断片的でしかなかった。原子炉建屋の爆発状況は1週間たった帰りのフェリーの中でTVニュース画像を見て始めて知った。驚愕した。原発が危機的な大事故を起こしていることは、被災地の大多数の人々は知る由もなかった。あの状況下で放射能が北へより拡散していたらと考えると戦慄すら覚える。
物資があまりにも不足していたので、3/16に被災を受けていない内陸の遠野市へ連携を求めに灯油で燃料を薄めた車で1時間かけた。探し当てた現地NPO事務所は市街の大型スーパーの2階の一角にあった。スーパーは営業をしており、食料品の棚こそは空であったが、衣料品コーナーにはたくさんの衣類が並んでいる様を見て目を疑った。避難所には食糧は自衛隊が配送し確保され始めていたが、生活必需品類は下着すらまだ届いていなかった。「すでに割引セールをしている」と呑気な回答をする売り場責任者に被災地現場の様子を説明しても埓があかないので、持ち合わせたお金でありったけの下着を購入した。現地NPOからは「現場では今何が必要だ!」と即座に質問を受けた。「衣類、とりわけ下着や靴下、トイレットペーパー、歯磨き・・」など様々な品目を伝えた。まさしくアナログな伝令であった。彼らは物資支援の要望品としてインターネットにすぐさま書き込んだ。すると、5分もたたないうちに、「歯磨き5,000本」「下着も大量に送る」と言う回答が続々と全国からメールで寄せられた。インターネットは相手の顔が見えないままにも社会に協働意識を育んだ道具であったことを見せつけられた瞬間でもあった。
その後の市職員からの聞き取り調査によると、3月末頃までは市災害本部と鵜住居地域の間での情報のやり取りは車の燃料もこと欠いていたので、行政ですら時には人が歩いて自ら届ける伝達だけであり、極端に情報が不足していたことがわかった。現代社会の情報のやり取りが携帯電話やパソコンにあまりにも頼り過ぎていることに気づかされた。通信手段が途絶する広域災害に対して情報社会はあまりにも脆弱であることが露呈された。大災害の最中にあると、人は自らの身体を動かして情報を獲得、伝達することすらできなくなってしまうのかもしれない。
◆ワーキングネットという概念
有用有効なネットワークは初めから存在しない、状況に応じて徐々に編みこまれ張り巡らされるべきである。これをワーキングネットと称している。
「現在より状況が改善されるベターを求めて、今できることを各自が判断して実行する。しかし、協働の大切さを忘れてはならない」これが、ねおすの行動規範である。それができるようになることが、ねおすの人材育成の目標である。今回の支援初動では、まずは個人が事態に対応する初動を開始し、ねおす組織内において各人の特性を生かした連携が事態に応じながらバックアップされた。支援体制は綿密な話し合いが行われ構築されたのではない。状況に応じて連携を深めてゆくワーキングネット・Workig-NETと呼ぶ手法が実行され、連続的に支援車を現地に送り込む体制が数日の内にできた。
第1陣はテント生活、第2陣は遊休施設を探し、地域からの信用を作り出し、第3陣は施設を借り、物資の供給を中心支援活動としつつ、3/19には被災者児童のケア活動も開始した。テントから地域施設に拠点を移すまでをわずか1週間で成し遂げたことは、これまで私達が北海道各地で実践してきた地域活動のWorking-NETのノウハウが応用できたことに他ならない。
その後は、被災者のニーズ調査、周辺集落状況把握、他NPOと連携、物資配送の体制づくりを行い、3月末には独自のボランティアセンターを立ち上げた。そして北海道や全国からやってくる数多くのボランティアの受け入れも独自に開始した。
NPO活動がまだ希な釜石市にとっては、社会福祉協議会を通さない災害支援ボランティア活動が始まったこと自体がとても珍しいことであった。物資提供、瓦礫の撤去作業、洗濯もできる場づくり、被災者同士・ボランティアともお茶を飲みながら交流ができる、「青空喫茶」の開店、地域住民と協働し高齢者のディケア活動等、広く生活一般への支援を本格化し、「今、目の前にある問題解決」を行い、スタッフが交代しながら徐々に地域との信頼関係を築いて行った。それと同時に地元支援団体との連携、北海道を始め各地からやってくる支援団体の活動場所の調整手配も実施した。
◆役割は待っていてもやってこない。
災害支援は、被災直後は外から来た支援者だけの判断で行えることがある。しかし、事態が一旦鎮静化してからは、支援は一方的に行うのではなく、地域住民と顔を突き合わせ身体を張り合う中で行われるべきである。それも必要な支援をタイミング良く即座に行う支援活動がなければ地域との相互信頼関係は生まれない。それがあってこそ被災者、地域内で支援する地元の人々との協働意識が醸造されることを改めて痛感した。
また、ワーキングネットの過程ではインターネットの活用がとても有用であること、またインターネットを介したこれまでの人々とのつながりが、緊急事態に即応した新たな協働関係を促進させてゆくことも強く実感させられた。支援活動は、避難した被災者だけではなく被災者を受け入れた地域とも交流を重ね、外から支援に来た我々が何者であるかをわかってもらい「信用」を得ることが大切である。一方的な支援は長続きしない。支援の「役割」は与えられることを待つのではなく、役割を見つけ出す・創り出すという姿勢と態度が必要である。
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◆被災地支援と若者ボランティアの成長
被災地支援活動には数多くの若者が参加した。特に支援初期から夏にかけて2週間、3週間と長期に現地滞在するボランティアには、指示を受けて活動するだけではなく、ある一定の範囲で支援の仕方まで工夫して形作ることもお願いした。例えば、青空喫茶の開店では場所の選定と土地所有者からの了解は、ねおすが責任を持って取り付け、目的(避難所からなかなか出てこない人達を外出させ気分転換・健康維持ができるようにしたい、ボランティアと被災者、被災者同士の交流の場をつくりたい、必要な物資が得られる自由無料市場としたい)を共有し、その具体的なやり方についてはボランティアの裁量を大きくした。その結果、自彼等は自分達で苦心して広報手段を考え、人を集めることに務めた。自らが考え自らが行動を起こし、その結果として利用者から喜ばれた体験は、若者達の達成感が大きく自己肯定感を高め自信につながって行った。当初は大学がお膳立てをし、バスでボランティアセンターの応援に駆け付けた山梨県の都留文科大学はその後、学生自らが支援補助金を獲得し被災地支援を始め、ねおすを現地調整役に使うようにもなった。また、札幌の「エゾロック」は、現地へ送り込むボランティアの独自の募集・事前オリエンテーションの仕組みを作り上げて行った。彼らの成長には目を見張るものが数多くあった。
ねおすボランティアセンターは、単なる労働力としての瓦礫撤去作業だけでボランティアが帰ることがないように、被災者や地域住民と触れ合う、話ができる場を可能な限りコーディネイトをした。夏になり被災漁業者自らが復興を目指すようになると、漁師と一緒に養殖筏の資材準備を行い、食事をする機会も多くなった。被災者や地域住民から直接聞く被災・避難の話はそれを聞いた者の心に深く浸透し、彼らのこれからの生き方にも強い影響を与えたと思う。瓦礫撤去作業をし、地域の農家に民泊したある女子学生が「今回の体験は私の人生観に大きく影響を受けたと思う」と振り返った。その話を聞いた農家のご主人の眼には涙が浮かんだ。人が人に関わることによる歓びをお互いに感じ、大きな人生の学びを得た瞬間だった。「絆」とはこういう場面で結ばれるものだと思う。
この事実は、復興における交流ビジネスの創出という可能性を示唆している。今の被災地支援は初期のように外から大勢のボランティアを必要とする局面ではない。しかし、過疎地域での大災害は人の流失を加速化させている。被災地復興は元に戻すことではない。そして長い時間がかかる。元の良さを残しつつも、被災地に新しい「交流」を創出する地域再生が今必要とされている。
◆三陸ひとつなぎ自然学校 ~ コミュニティビジネス化の試み
この交流創出を仕組化するために、これまでの経験や実施活動を糧に「三陸ひとつなぎ自然学校」という組織化を試み、コミュニティビジネスとしての自立支援に力を入れている。
しかし、人材の流出は紛れもない事実であろう。起業や仕事の再興で求人をしても集まらないということが常態化している。ボランティアによる支援は個別の商店や漁業者の業務サポートも多くなっている。働き手の不足と再興中で賃金まで手当できないという実態もある。一方、瓦礫の処理も続き、復興工事は一部では本格的に始まり建設関係の事務所が常設され長期居住をする人も増えている。工事も人手不足で日当が高く地元雇用が流れるということもあるだろう。しかし、それらはハードの公共事業であり永続的な雇用とはなりえない。いずれにしても雇用や起業再興の実態が掴みにくい。
短期のボランティアもまだまだ必要とされるが、今求められるのは長期に渡り被災地に滞在、あるいは移住し新たなる雇用を引き起こす人材の確保である。この需要に大都市にある中間支援NPO等が橋渡しをしている。大手企業からボランティア休暇を利用し、長いケースは1年に及ぶ期間で現地入りする現役社会人が複数現れている。また、国や釜石市の補助事業により起業支援をコーディネイトする有給の人材流入が開始されており、当ボランティアセンターにも滞在している。
2013年6月には、これまでボランティアセンターの運営責任を担っていた当NPO法人から「三陸ひとつなぎ自然学校」を組織として分離し社団法人として独立をさせた。関わるボランティアのスタッフジャンパーも「ねおす」の黄色から徐々に「さんつな」のネーミングを背負ったオレンジ色に変更してゆき、支援事業全体の責任体制をNPOねおすから「三陸ひとつなぎ自然学校」に移行した。また、当ボランティアセンターの責任者であったSは釜石市が行う起業・運営支援のコーディネイターとして7月から転職することになった。
参加者が負担する有料の交流プログラムにて事業を成り立たせるためには盛岡や花巻の内陸地都市部からの集客が欠かせない。また、これまでの支援活動で数多くのボランティアを受け入れ、様々な催事を行ってきた実績は「交流ビジネス創出」のノウハウ獲得を意味している。この実績とクオリティを高めることにより、地域行政からの信頼を得て、社会教育や福祉などの担い手が薄い既存事業の受託、自然学校ならではの新規事業の提案により行政との協働関係を作り出してゆくことは次なる目標である。
被災から3年目の2013年は、「三陸ひとつなぎ自然学校」がコミュニティビジネスを開始するスタートラインにやっと立てた三回目の夏でもある。