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はる風かわら版

たかぎはるみつ の ぼやき・意見・主張・勝手コメント・コラム、投稿、原稿などの綴り箱です。・・・

震災支援をふりかえって

2013-07-03 09:28:02 | NPO活動全般
1209 経済社会学会 報告 

「三陸ひとつなぎ自然学校」 被災地に生まれたコミュニティビジネスへの試み
                 NPO法人ねおす  理事長 高木晴光

◆はじめに

 2011年3月11日14時46分、地震発生。あれからもう3回目の夏になった。私達が支援活動を継続する釜石市鵜住居、箱崎半島から大槌湾沿岸地域は、大きな被災瓦礫は片付いたものの目に見えるような復興工事が大々的に始まってはいない。家を失った人々の恒久住宅も一部は建設着工されたとは言え、土地確保は遅々として、被災者の大多数は今も仮設住宅での暮らしが続いている。漁港の嵩上げ工事もかなりの先延ばしとなり、はたまた自力で営業を始めた店舗が新たな国道設置場所と変更となり、再び移転を求められるケースも出ている。仕事がないために実質人口はすでに1万人は流出したと言う市民もいる。被災地の過疎が加速度を増しているようにも感じる。一方では都会からの人材の移入を行政が後押しをしているが、地元人材との協働がどのように展開されてゆくかはこれからだ。その道のりはまだまだ長い。「元に戻す」のではない、「新しい町づくり」に期待し、これからもできることの支援を続けたい。

◆東日本大震災の発災とNPOねおすの初動

 釜石市が郷里のスタッフがいたことが、初動の大きなきっかけとなった。発災翌日、3名にて函館から函館方面で活動する仲間が迅速に手配した再開第1便のフェリーに乗り青森経由で現地入りした。

 車で走る東北内陸には被災個所は全くと言っていいほど見当たらなかった。しかし、岩手に入るとすでにガソリンスタンドは長蛇の列となり、スーパーマーケットは買い物客の入場制限が行われていた。緊急車両優先の道路封鎖が各所にあり迂回路を探しながら、釜石市に隣接する遠野市に入ったのは、13日昼過ぎだった。民間車両が沿岸に近づけるのは、笛吹峠を通る県道だけであったが、市の職員ですら、「土砂崩れの状況はわからない、ただ沿岸から来る車があったので、通れるだろうが責任は持てない」との回答であった。現地情報を探るにも的確な回答を得ることができなかった。迷いを捨て意を決し峠を越え沿岸に近づくことにした。すれ違いも難しい細い県道には対向車両はなく、また土砂崩れにも遭遇することもなく太平洋に注ぐ鵜住居川流域に入った。

 中山間の集落はまったく地震被害の様子もなく、東北ののどかな佇まいを見せていた。しかし、沿岸に近づくと風景は線を引いたが如く一変した。津波の最終到達地点からは海は見えない。「天国と地獄」を跨いで見た気がした。道路は流れ着いた瓦礫で埋まって進むことができなかった。一台のブルトーザーが唸りを上げて懸命に道を開けていた。目指すスタッフの実家は、海岸傍であり事態の絶対的な深刻さは見るも明らかであった。

 夕方になり、私達は津波が到達していない農家の庭先にテントを張ることにした。被災者の多くはすでに避難所に入っていたが物資はなく、翌日に訪ねた避難所に持ち込んだ毛布や食料はあっと言う間になくなった。地域総出で支援にあたっていた。物資の補給ルートを作ることから始まった支援活動は、現在も釜石市北部、鵜住居川上流の栗橋地区を拠点に継続している。手がつけられない壊滅的状態の中で始まった支援活動は、半年がまるで4年も5年分もあったかのごとく密度濃い時間の積み重ねであった。しかし、復興の道のりはまだまだ長く厳しいだろう。

◆今できることは何か ・・・情報伝達の難しさ

 100人ほどの被災者が身を寄せた小さな避難所一か所だけで持ち込んだ物資はあっという間になくなった。発災から4日目なのに衣類を替えていない、毛布がない人がほとんどだった。津波の難は逃れたが雪が降る程の寒さで亡くなった方もいた。想像を絶する巨大津波に破壊された市街地を前にして、携帯電話、ラジオも入らない。物資を運びこんだあとは正直言って成す術(すべ)がなかった。「できることは何か」、考えるしかなかった。被災者と一うー緒に行方不明者を探し、運び込んだジャガイモを茹で被災者に、持ち込んだわずかな車両燃料を消防団や商店に提供した。我々の車両燃料に灯油を注ぎ足しもした。情報が途絶えていたので現状を伝えに内陸の町へ行き、地元NPOを探し出し必要物資の調達ルートを設定し、札幌のねおす本部にSOSを発信し必要な物資を要求した。意外にも遠野市のスーパーは何事もなかったように開店をしていた。幹線道路が封鎖されていたので、細い山間道の峠を越えて現地を見に行った市民はまだほとんどいなかったのだろう。情報が途絶していることを知った。食料品こそ棚は空になってはいたが、大量の下着も手に入れることができた。

 目の前に広がる悲惨な現状は被災地の真っただ中にいても、いったい何が起こったのか、その現実に着いてゆけない。被災地の状況を被災地外に伝えることは難しい。今、目前の事態に対処してゆくことが求められた。私達の合言葉はいつの間にか、「今、できることをしよう」となりスタッフに浸透し、ワゴン車2台による物資と人のピストン輸送が始まった。

◆なぜ初動できたか、なぜボラセンを独自運営できたか。

 3月11日の発災時刻は私の次女の結婚式で、ニセコの小さな教会の地下にある待合室で式を待っていた。揺れは全く感じなかった。式に続く披露宴、親族との二次会もあり、事態をしったのは深夜のTVニュースであった。
発災し本州に渡る交通手段が途絶えた状況下で、支援活動を初動できた直接的な要因は四点ある。

 第一は釜石出身の職員、柏崎未来の存在であった。発災後、釜石の状況はなかなかTV映像では流れなかった。3月12日の昼頃、初めて釜石市街地に流れ込む濁流が画面に映し出された。同時に刻々と事態が悪化する福島原発事故も伝えていた。出動するか否か暫し逡巡したが、ねおすというコミュニティ全体が彼女と彼女の郷里を心配している、「通常業務はできない」と直感した。出動以外の選択肢はなくなった。

 第二点は、野外行動技術を有する私達はテントと寝袋、マッチと鍋があればどこでも生きてゆけるとの自信があり、装備もある。被災現場は想像を越えていたが、そこに向かうことに大きな不安は覚えなかった。

 第三点は、ねおす自体がネットワーク型組織であったことだ。例えば、函館に居住するスタッフが本州に渡るフェリーを押さえ、車両燃料を確保した。札幌本部では多くの人が住む大都市の利点を活かして即座に資金集めを開始した。私が直轄している黒松内ぶなの森自然学校はワゴン車両を複数台保有し、装備や食料の備蓄があった。異なる地域に拠点を持つ個別の事業体がそれぞれの特徴を一気に発揮した。

 そして、第四点は、NPOの定款に「災害支援」を書き込んでいることにある。これは阪神大震災時に初動できなかった反省の上に立って明文化した。災害支援は定款上で、ねおすの本来活動であり、理事会や正会員の意向を聞くことなく理事長判断で迅速に行動を起こすことができた。

私達の本業とする野外活動では、スタッフは刻々と変化する自然環境の状況や参加者の状態の中で、スタッフ間で活動目標は共有するが、その到達へのプロセスは各自の判断で臨機応変に対処する力が求められる。今回はそのノウハウが活かされた。

 初動では監督の指揮命令が優先する野球型ではなく、実働者に瞬時の判断と行動を任せるサッカー型のチームプレーを行った。第2陣以降は、スタッフの個性と特性を考えて人材を投入する監督が私の役割であった。「自主・自律できる人材の学び場づくり」、「地域ツーリズム = 学びと交流の場づくり」がねおすのミッションであり、職員は常日頃から北海道の各地域拠点で地域住民と関わりを持ち、かつ地域内外とのネットワークづくり、交流創出を展開している。これらの経験があったからこそ、緊急事態の中でも初動からボランティアセンターの立ち上げまで職員同士が連携し、現場での自己判断と臨機応変な行動により一気に走りぬけることができた。
 
****
◆情報社会の脆弱性とインターネットの有用性

 東日本大震災は、近世において日本人が直面したことがない沿岸津波の大災害であり、それも過疎地域において壊滅と言われる程に市街地や小さな集落が被災した。阪神淡路大震災は数多くの人々が居住する都市の被災であったが、今回は福島から岩手に及ぶ広範囲の沿岸過疎地域の被災であった。

 まず、情報が途絶した。釜石鵜住居地域は長期間停電し通常電話、TVはもとより携帯電話も通じなかった。福島原発の状況は雑音に混ざってかすかに聞える携帯ラジオだけが頼りであった。それも朝晩の電波状況がやや良い時にかすかに聞こえるだけであり、情報も断片的でしかなかった。原子炉建屋の爆発状況は1週間たった帰りのフェリーの中でTVニュース画像を見て始めて知った。驚愕した。原発が危機的な大事故を起こしていることは、被災地の大多数の人々は知る由もなかった。あの状況下で放射能が北へより拡散していたらと考えると戦慄すら覚える。

 物資があまりにも不足していたので、3/16に被災を受けていない内陸の遠野市へ連携を求めに灯油で燃料を薄めた車で1時間かけた。探し当てた現地NPO事務所は市街の大型スーパーの2階の一角にあった。スーパーは営業をしており、食料品の棚こそは空であったが、衣料品コーナーにはたくさんの衣類が並んでいる様を見て目を疑った。避難所には食糧は自衛隊が配送し確保され始めていたが、生活必需品類は下着すらまだ届いていなかった。「すでに割引セールをしている」と呑気な回答をする売り場責任者に被災地現場の様子を説明しても埓があかないので、持ち合わせたお金でありったけの下着を購入した。現地NPOからは「現場では今何が必要だ!」と即座に質問を受けた。「衣類、とりわけ下着や靴下、トイレットペーパー、歯磨き・・」など様々な品目を伝えた。まさしくアナログな伝令であった。彼らは物資支援の要望品としてインターネットにすぐさま書き込んだ。すると、5分もたたないうちに、「歯磨き5,000本」「下着も大量に送る」と言う回答が続々と全国からメールで寄せられた。インターネットは相手の顔が見えないままにも社会に協働意識を育んだ道具であったことを見せつけられた瞬間でもあった。

 その後の市職員からの聞き取り調査によると、3月末頃までは市災害本部と鵜住居地域の間での情報のやり取りは車の燃料もこと欠いていたので、行政ですら時には人が歩いて自ら届ける伝達だけであり、極端に情報が不足していたことがわかった。現代社会の情報のやり取りが携帯電話やパソコンにあまりにも頼り過ぎていることに気づかされた。通信手段が途絶する広域災害に対して情報社会はあまりにも脆弱であることが露呈された。大災害の最中にあると、人は自らの身体を動かして情報を獲得、伝達することすらできなくなってしまうのかもしれない。
 
◆ワーキングネットという概念

 有用有効なネットワークは初めから存在しない、状況に応じて徐々に編みこまれ張り巡らされるべきである。これをワーキングネットと称している。

「現在より状況が改善されるベターを求めて、今できることを各自が判断して実行する。しかし、協働の大切さを忘れてはならない」これが、ねおすの行動規範である。それができるようになることが、ねおすの人材育成の目標である。今回の支援初動では、まずは個人が事態に対応する初動を開始し、ねおす組織内において各人の特性を生かした連携が事態に応じながらバックアップされた。支援体制は綿密な話し合いが行われ構築されたのではない。状況に応じて連携を深めてゆくワーキングネット・Workig-NETと呼ぶ手法が実行され、連続的に支援車を現地に送り込む体制が数日の内にできた。

 第1陣はテント生活、第2陣は遊休施設を探し、地域からの信用を作り出し、第3陣は施設を借り、物資の供給を中心支援活動としつつ、3/19には被災者児童のケア活動も開始した。テントから地域施設に拠点を移すまでをわずか1週間で成し遂げたことは、これまで私達が北海道各地で実践してきた地域活動のWorking-NETのノウハウが応用できたことに他ならない。
その後は、被災者のニーズ調査、周辺集落状況把握、他NPOと連携、物資配送の体制づくりを行い、3月末には独自のボランティアセンターを立ち上げた。そして北海道や全国からやってくる数多くのボランティアの受け入れも独自に開始した。

 NPO活動がまだ希な釜石市にとっては、社会福祉協議会を通さない災害支援ボランティア活動が始まったこと自体がとても珍しいことであった。物資提供、瓦礫の撤去作業、洗濯もできる場づくり、被災者同士・ボランティアともお茶を飲みながら交流ができる、「青空喫茶」の開店、地域住民と協働し高齢者のディケア活動等、広く生活一般への支援を本格化し、「今、目の前にある問題解決」を行い、スタッフが交代しながら徐々に地域との信頼関係を築いて行った。それと同時に地元支援団体との連携、北海道を始め各地からやってくる支援団体の活動場所の調整手配も実施した。

◆役割は待っていてもやってこない。

 災害支援は、被災直後は外から来た支援者だけの判断で行えることがある。しかし、事態が一旦鎮静化してからは、支援は一方的に行うのではなく、地域住民と顔を突き合わせ身体を張り合う中で行われるべきである。それも必要な支援をタイミング良く即座に行う支援活動がなければ地域との相互信頼関係は生まれない。それがあってこそ被災者、地域内で支援する地元の人々との協働意識が醸造されることを改めて痛感した。

 また、ワーキングネットの過程ではインターネットの活用がとても有用であること、またインターネットを介したこれまでの人々とのつながりが、緊急事態に即応した新たな協働関係を促進させてゆくことも強く実感させられた。支援活動は、避難した被災者だけではなく被災者を受け入れた地域とも交流を重ね、外から支援に来た我々が何者であるかをわかってもらい「信用」を得ることが大切である。一方的な支援は長続きしない。支援の「役割」は与えられることを待つのではなく、役割を見つけ出す・創り出すという姿勢と態度が必要である。

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◆被災地支援と若者ボランティアの成長
 
 被災地支援活動には数多くの若者が参加した。特に支援初期から夏にかけて2週間、3週間と長期に現地滞在するボランティアには、指示を受けて活動するだけではなく、ある一定の範囲で支援の仕方まで工夫して形作ることもお願いした。例えば、青空喫茶の開店では場所の選定と土地所有者からの了解は、ねおすが責任を持って取り付け、目的(避難所からなかなか出てこない人達を外出させ気分転換・健康維持ができるようにしたい、ボランティアと被災者、被災者同士の交流の場をつくりたい、必要な物資が得られる自由無料市場としたい)を共有し、その具体的なやり方についてはボランティアの裁量を大きくした。その結果、自彼等は自分達で苦心して広報手段を考え、人を集めることに務めた。自らが考え自らが行動を起こし、その結果として利用者から喜ばれた体験は、若者達の達成感が大きく自己肯定感を高め自信につながって行った。当初は大学がお膳立てをし、バスでボランティアセンターの応援に駆け付けた山梨県の都留文科大学はその後、学生自らが支援補助金を獲得し被災地支援を始め、ねおすを現地調整役に使うようにもなった。また、札幌の「エゾロック」は、現地へ送り込むボランティアの独自の募集・事前オリエンテーションの仕組みを作り上げて行った。彼らの成長には目を見張るものが数多くあった。

 ねおすボランティアセンターは、単なる労働力としての瓦礫撤去作業だけでボランティアが帰ることがないように、被災者や地域住民と触れ合う、話ができる場を可能な限りコーディネイトをした。夏になり被災漁業者自らが復興を目指すようになると、漁師と一緒に養殖筏の資材準備を行い、食事をする機会も多くなった。被災者や地域住民から直接聞く被災・避難の話はそれを聞いた者の心に深く浸透し、彼らのこれからの生き方にも強い影響を与えたと思う。瓦礫撤去作業をし、地域の農家に民泊したある女子学生が「今回の体験は私の人生観に大きく影響を受けたと思う」と振り返った。その話を聞いた農家のご主人の眼には涙が浮かんだ。人が人に関わることによる歓びをお互いに感じ、大きな人生の学びを得た瞬間だった。「絆」とはこういう場面で結ばれるものだと思う。

 この事実は、復興における交流ビジネスの創出という可能性を示唆している。今の被災地支援は初期のように外から大勢のボランティアを必要とする局面ではない。しかし、過疎地域での大災害は人の流失を加速化させている。被災地復興は元に戻すことではない。そして長い時間がかかる。元の良さを残しつつも、被災地に新しい「交流」を創出する地域再生が今必要とされている。 

◆三陸ひとつなぎ自然学校 ~ コミュニティビジネス化の試み

 この交流創出を仕組化するために、これまでの経験や実施活動を糧に「三陸ひとつなぎ自然学校」という組織化を試み、コミュニティビジネスとしての自立支援に力を入れている。

 しかし、人材の流出は紛れもない事実であろう。起業や仕事の再興で求人をしても集まらないということが常態化している。ボランティアによる支援は個別の商店や漁業者の業務サポートも多くなっている。働き手の不足と再興中で賃金まで手当できないという実態もある。一方、瓦礫の処理も続き、復興工事は一部では本格的に始まり建設関係の事務所が常設され長期居住をする人も増えている。工事も人手不足で日当が高く地元雇用が流れるということもあるだろう。しかし、それらはハードの公共事業であり永続的な雇用とはなりえない。いずれにしても雇用や起業再興の実態が掴みにくい。

 短期のボランティアもまだまだ必要とされるが、今求められるのは長期に渡り被災地に滞在、あるいは移住し新たなる雇用を引き起こす人材の確保である。この需要に大都市にある中間支援NPO等が橋渡しをしている。大手企業からボランティア休暇を利用し、長いケースは1年に及ぶ期間で現地入りする現役社会人が複数現れている。また、国や釜石市の補助事業により起業支援をコーディネイトする有給の人材流入が開始されており、当ボランティアセンターにも滞在している。

 2013年6月には、これまでボランティアセンターの運営責任を担っていた当NPO法人から「三陸ひとつなぎ自然学校」を組織として分離し社団法人として独立をさせた。関わるボランティアのスタッフジャンパーも「ねおす」の黄色から徐々に「さんつな」のネーミングを背負ったオレンジ色に変更してゆき、支援事業全体の責任体制をNPOねおすから「三陸ひとつなぎ自然学校」に移行した。また、当ボランティアセンターの責任者であったSは釜石市が行う起業・運営支援のコーディネイターとして7月から転職することになった。

 参加者が負担する有料の交流プログラムにて事業を成り立たせるためには盛岡や花巻の内陸地都市部からの集客が欠かせない。また、これまでの支援活動で数多くのボランティアを受け入れ、様々な催事を行ってきた実績は「交流ビジネス創出」のノウハウ獲得を意味している。この実績とクオリティを高めることにより、地域行政からの信頼を得て、社会教育や福祉などの担い手が薄い既存事業の受託、自然学校ならではの新規事業の提案により行政との協働関係を作り出してゆくことは次なる目標である。

 被災から3年目の2013年は、「三陸ひとつなぎ自然学校」がコミュニティビジネスを開始するスタートラインにやっと立てた三回目の夏でもある。

できることをやろう

2012-07-11 09:26:57 | NPO活動全般
2012年、7か月の被災地支援活動を振り返って


◆なぜ初動できたか、なぜボラセンを独自運営できたか。

 発災し本州に渡る交通手段が途絶えた状況下で、支援活動を初動できた直接的な要因は四点ある。第一は釜石出身の職員、柏崎未来の存在であった。発災後、釜石の状況はなかなかTV映像では流れなかった。3月12日の昼頃、初めて釜石市街地に流れ込む濁流が画面に映し出された。同時に刻々と事態が悪化する福島原発事故も伝えていた。出動するか否か暫し逡巡したが、ねおすというコミュニティ全体が彼女と彼女の郷里を心配している、「通常業務はできない」と直感した。出動以外の選択肢はなくなった。 第二点は、野外行動技術を有する私達はテントと寝袋、マッチと鍋があればどこでも生きてゆけるとの自信がある。被災現場は想像を越えていたが、そこに向かうことに大きな不安は覚えなかった。第三点は、ねおす自体がネットワーク型組織であったことだ。例えば、函館に居住するスタッフが本州に渡るフェリーを押さえ、車両燃料を確保した。札幌本部では多くの人が住む大都市の利点を活かして即座に資金集めを開始した。黒松内ぶなの森自然学校はワゴン車両を複数台保有し、食糧や装備の備蓄があった。異なる地域に拠点を持つ個別の事業体がそれぞれの特徴を一気に発揮した。そして、第四点は、NPOの定款に「災害支援」を書き込んでいることにある。これは阪神大震災時に初動できなかった反省の上に立って明文化した。災害支援は定款上で、ねおすの本来活動であり、理事会や正会員の意向を聞くことなく理事長判断で迅速に行動を起こすことができた。

私達の本業とする野外活動では、スタッフは刻々と変化する自然環境の状況や参加者の状態の中で、スタッフ間で活動目標は共有するが、その到達へのプロセスは各自の判断で臨機応変に対処する力が求められる。今回はそのノウハウが活かされた。初動では監督の指揮命令が優先する野球型ではなく、実働者に瞬時の判断と行動を任せるサッカー型のチームプレーを行った。しかし、第2陣以降は、スタッフの個性と特性を考えて人材を投入した。「自主・自律できる人材の学び場づくり」、「ツーリズム = 学びと交流の場づくり」がねおすのミッションであり、職員は常日頃から北海道の各地域拠点で地域住民と関わりを持ち、かつ地域内外とのネットワークづくり、交流創出を展開している。これらの経験があったからこそ、緊急事態の中でも初動からボランティアセンターの立ち上げまで職員同士が連携し一気に走りぬけることができた。

◆ワーキングネットという概念

「現在より状況が改善されるベターを求めて、今できることを各自が判断して実行する。しかし、協働の大切さを忘れてはならない」これが、ねおすの野外活動の行動規範である。それができるようになることが、ねおすの人材育成の目標である。今回は、まずは組織内において事態に対応する連携を作り上げるワーキングネット・Workig-NETを実践した。連続的に支援車を現地に送り込んだ。第1陣はテント生活、第2陣は遊休施設を探し出し地域との連携を図り、第3陣が現地入りした3/19には被災者児童のケア活動を開始した。テントから地域施設に拠点を移すまでをわずか1週間で成し遂げたことは、これまで私達が北海道各地で実践してきた地域活動のWorking-NETのノウハウが応用できたことに他ならない。
その後は、被災者のニーズ調査、周辺集落状況把握、他NPOと連携、物資配送の体制づくりを行い、3月末には独自のボランティアセンターを立ち上げた。そして北海道や全国からの数多くのボランティアの受け入れを行った。物資提供、瓦礫の撤去作業、洗濯もできる被災者同士・ボランティアともお茶を飲みながら交流ができる、「青空喫茶」の開店、地域住民と協働し高齢者のディケア活動等、広く生活一般への支援を本格化し、スタッフが交代しながら徐々に地域との信頼関係を築いて行った。

◆情報の途絶・・被災地支援から起こった協働意識

 東日本大震災は、近世において日本人が直面したことがない沿岸津波の大災害であり、それも過疎地域において壊滅と言われる程に市街地や小さな集落が被災した。阪神淡路大震災は数多くの人々が居住する地域であり都市の被災であったが、今回は福島から岩手に及ぶ広範囲の沿岸地域の被災であった。まず、情報が途絶した。釜石鵜住居地域は長期間停電し通常電話、TVはもとより携帯電話も通じなかった。福島原発の状況は朝晩の電波状況がやや良い時に雑音に混ざってかすかに聞える携帯ラジオだけが頼りであった。原子炉建屋の爆発を全く知り得ることができない人々が被災地の大多数であっただろう。あの状況下で放射能が北へより拡散していたらと考えると戦慄すら覚える。市職員からの聞き取り調査から3月末頃までは市災害本部と鵜住居地域の間でも情報のやり取りは人による伝達だけであり、極端に情報が不足していたこともわかった。物資があまりにも不足しているので、3/16に被災を受けていない内陸の遠野市へ初対面のNPOに連携を求めに車で1時間かけて行った。その時、市街の大型スーパーの衣料品コーナーが開いており、たくさんの商品が並んでいる様を見て驚愕した。避難所には食糧は自衛隊が配送し確保されていたが、生活必需品類は下着すらまだ届いていなかった。「現地では今何が必要だ!」という照会に「下着、靴下、トイレットペーパー、歯磨き・・」など様々な品目を伝えた。まさしくアナログな伝令であった。それを現地NPOが物資支援の要望品としてインターネットに書き込んだ。すると、10分もたたないうちに、歯磨き5,000本、下着も大量に送ると言う回答がメールで送られてきた。現代社会の情報のやり取りが携帯電話やパソコンにあまりにも頼り過ぎていることに気づかされた。通信手段が途絶する広域災害に対して情報社会はあまりにも脆弱であることが露呈された。と同時に、インターネットは顔が見えないままにも社会に協働意識を育んできたことの一端を見せつけられた瞬間でもあった。
 外から来た支援者だけが行うのではなく、地域住民と顔を突き合わせ身体を張り合って行う、それも必要な支援をタイミング良く即座に行う支援活動から地域との相互信頼関係が生まれる。それがあってこそ地域との協働意識が醸造されることを改めて痛感した。また、ワーキングネットの過程でのインターネットの活用がとても有用であること、またインターネット介したこれまでの人々とのつながりが、緊急事態においては、それに即応した協働を促進させてゆくとも強く意識させられた。

◆ボランティア、被災地支援という活動からの学び

 被災地支援活動には数多くの若者が参加した。特に支援初期から夏にかけて1週間、2週間と長期に現地滞在するボランティアには、指示を受けて活動するだけではなく、ある一定の範囲で支援の仕方まで工夫して形作ることもお願いした。例えば、青空喫茶の開店では場所の選定と土地所有者からの了解は、ねおすが責任を持って取り付け、目的(避難所からなかなか出てこない人達を外出させ気分転換・健康維持ができるようにしたい、ボランティアと被災者、被災者同士の交流の場をつくりたい、必要な物資が得られる自由無料市場としたい)だけを共有し、その具体的なやり方についてはボランティアの裁量を大きくした。その結果、自分達で苦心して人を集めることに務めた。自らが考え自らが行動を起こし、その結果として利用者から喜ばれた体験は、若者達の達成感が大きく自己肯定感を高め自信につながって行った。当初は大学がお膳立てをし、バスでボランティアセンターの応援に駆け付けた山梨県の都留文科大学はその後、学生自らが支援補助金を獲得し被災地支援を始め、ねおすを現地調整役に使うようにもなった。また、札幌のえぞロックは、現地へ送り込むボランティアの独自の募集・事前オリエンテーションの仕組みを作り上げて行った。
 ねおすボランティアセンターは、単なる労働力としての瓦礫撤去作業だけでボランティアが帰ることがないように、被災者や地域住民と触れ合う、話ができる場を可能な限りコーディネイトをした。夏になり被災漁業者自らが復興を目指すようになると、漁師さんと一緒に養殖筏の資材準備を行い、食事をする機会も多くなった。被災者や地域住民から直接聞く被災・避難の話はそれを聞いた者の心に深く浸透し、彼らのこれからの生き方にも強い影響を与えたと思う。瓦礫撤去作業をし、地域の農家に民泊したある女子学生が「今回の体験は私の人生観に大きく影響を受けたと思う」と振り返った。その話を聞いた農家のご主人の眼には涙が浮かんだ。人が人に関わることによる歓びをお互いに感じ、大きな人生の学びを得た瞬間だった。「絆」とはこういう場面で結ばれるものだと思う。

 今の被災地支援は、初期のように外から大勢のボランティアを必要とする局面ではない。しかし、過疎地域での大災害は人の流失を加速化させている。被災地復興は元に戻すことではない。そして長い時間がかかる。元の良さを残しつつも、被災地に新しい「交流」を創出する地域再生だと考えなければいけない。私達、地域外から関わる者の支援はそのやり方を変えつつ今後も必要とされるだろう。しかし、ボランティアは学ばせて頂く姿勢が大切になっている、その姿勢が被災者と相互に学び合える態度となり、新たな地域再生につながると考える。

被災地支援報告書巻頭言

2012-07-11 09:25:22 | NPO活動全般

011年3月11日14時46分、地震発生。1年前のことだが随分と昔のように感じる。

翌日、高木、星山、柏崎の3名が再開第1便のフェリーに乗り現地入りした。車で走る東北内陸には被災個所は全くと言っていいほど見当たらなかった。しかし沿岸に近づき津波の最終到達地点からは線を引くように風景が一変した。「天国と地獄」を跨いで見た気がした。被災者の多くはすでに避難所に入っていたが物資はなく、地域総出で支援にあたっていた。農家の庭先にテントを張り支援を開始し、現在は釜石市北部、鵜住居川上流の栗橋を拠点に活動を継続している。

◆今できることは何か ・・・

 小さな避難所一か所だけで持ち込んだ物資はあっという間になくなった。衣類を替えていない、毛布がない人がほとんどだった。想像を絶する破壊された市街地を前にして、携帯電話、ラジオも入らない。物資を運びこんだあとは正直言って成す術(すべ)がなかった。「できることは何か」、考えるしかなかった。被災者と一緒に行方不明者を探し、運び込んだジャガイモを茹でて避難者に、車両燃料を消防団や商店に提供した。情報が途絶えていたので現状を伝えに内陸の町へ行き、大量の下着も手にいれた。目の前に広がる悲惨な現状は被災地の真っただ中にいても、いったい何が起こったのか、その現実に着いてゆけない。被災地の状況を被災地外に伝えることは難しい。今、目前の事態に対処してゆくことが求められた。私達の合言葉はいつの間にか、「できることをしよう」となりスタッフに浸透した。

◆役割は待っていてもやってこない。

支援活動は、被災者だけではなく被災者を受け入れる地域とも交流を重ね、外から支援に来た我々が何者であるかをわかってもらい「信用」を得ることが大切である。一方的な支援は長続きしない。役割は与えられることを待つのではなく、役割を見つけ出す・創り出すという姿勢と態度が必要である。

本報告は、発災から約7ヶ月の支援活動を記している。手がつけられない壊滅的状況の中で始まった支援から、巨大な瓦礫の山々や大きな建物の惨状は残るが、被災者は仮設住宅に入居し、それまでの復旧活動に復興の色合いが付き始めた10月末までの記録である。その日々はまるで4年も5年分もあったかのごとく密度濃い時間の積み重ねであった。しかし、復興の道のりはまだまだ長く厳しいだろう。その中にあって私達に「できることは何か」を今一度考えるためにも、これまでの活動を総括した。

NPO法人ねおす 理事長 高木晴光

2年間・地域社会雇用創造事業に関わって

2012-03-26 12:36:52 | NPO活動全般
社会雇用創造事業 報告まえがき

日本経済が大きく変化する中で雇用が大きな社会問題であることを改めて実感させられた2年間であった。

 また、本事業初年度末に発生した東日本大震災が社会や人々の心に与えた影響も多大であった。私共が運営する被災地のボランティアセンターが支援する商店の起業、コミュニティカフェ、漁業再開を目指す被災者支援を実地研修とした研修生も複数いた。中には受け身な受講者もいたが、総じて「小さなビジネス」を起こすためにはコミュニティとの社会関係性を作ることが必要であることを理解し、自らの事業計画を深めることができ、起業コンペの合格者も10名を数えた。この他にも起業をした、また着々と準備を進めている受講生も数多い。

 また、当初試行錯誤をした基礎と総括研修は、講師陣との連携を図り効果的なカリキュラムに高めることができ、今後の社会的インターンシップによる人材育成、社会起業インキュベーターあり方を考える上で、私達自らも大きな糧を得ることができた。
国民の多くは雇用されることに慣れてしまったが、経済のグローバル化の流れは日本人労働者の雇用を保障するものではなく失業者も生むだろう。だから、地域性を基盤とした仕事、支え合う社会サービス、つまりスモールビジネスを一人でも多くが起こすこと必要で、それが新たな内需開拓ともなり経済にもつながる。

本事業は具体的な事業計画を立案する演習と共に、起業マインドの育成に力を置いたものとなった。

                                         

3・11からの1週間

2012-01-30 16:21:20 | NPO活動全般
ドキュメント 3月11日からの1週間   (BAY-WAY後志 9号)
 
 2011年3月11日、三陸沖にて大地震が発生。その時、私はニセコの小さな教会の地下で娘の結婚式が始まるのを待っていた。娘を始めて送りだす花嫁の父であった。バージンロードを娘と歩くために開式直前に式場に上がると、「地震があったね」と多少の揺れを感じた参列者もいたようだった。式が滞りなく終わり暫くたち、披露宴が始まる待合で事態を携帯で知った人もいたが、いつものことのように誰も震源地を案ずる様子はなかった。親族による二次会も終えホテルの部屋に戻ったのは夜も10時を回っていた。何気なくテレビのスイッチを入れ、驚愕した。
夕方まだ明るい時期の被災地の様子、それは仙台方面だったのだろうが、画面には散乱した家屋の残骸が映し出されていた。いったい何事が起ったのか分からなかった。深夜遅くまでテレビに釘付けとなった。被災地はいったいどこまで広がっているのだろうか?黒松内ぶなの森自然学校のスタッフKの実家は釜石にあるが、テレビの情報では三陸の様子は映し出されなかった。地震によって引き起こされた大津波は三陸リアス海岸の小さな半島に遮られ、被害はさほど大きくないのではないかと漠然と想像した。

◆初動
翌12日、昼前に自然学校に戻った。スタッフ達はKを囲みテレビに見入っていた。ツィッターやミクシーなどのインターネット情報は釜石も被災し津波に襲われたことは伝えていたが映像はなかった。いずれ正確な情報が入ったらKを伴い現地入りすることは腹積もりしたが、津軽海峡を渡るフェリーも鉄道も不通となっていることを知った。そして、釜石市街の商店通りに津波が押し寄せた映像が昼過ぎに遂に流れた。怒涛の濁流がアーケードの屋根を越え車がおもちゃのように流されている映像だった。同時に福島原発の大事故の報道も増していた。暫し行くか行くまいか逡巡したが「私とHでKを現地へ連れてゆく!」と決断をした。
「ワゴン車に毛布、自炊用具、テント、米、ジャガイモ等食糧を出来る限り満載しろ。」
そして函館大沼のスタッフには「フェリーの乗船待ちをするように」と指示を出した。本州に渡るトラックが滞留し簡単には乗船できないだろうと予想したが、スタッフの動きは迅速だった。通行止めになった道路を徒歩でターミナルへ行き、フェリー再開の第一次情報を取得し予約名簿に車両を押し込み「夜に出港する可能性がある」と報告が来た。即座に自然学校を出発し、明るいうちに函館で出航を待つ車列に並んだ。そして12時近くに再開第1便の出航が決り、乗用車は10台を満たない乗船で最後から数えて2番目にギリギリ潜り込めた。


◆何もできなかった被災現場
 13日、まだ明けきらぬ青森港に上陸。高速道路は自衛隊や緊急車両以外は通行できず一般道を行く。八幡平ではガソリンスタンドに車の行列ができ始めていた。この時点で、もしやと思い30分ほど並んで給油をしたこと、軽油車を利用したことが後々に功を奏した。内陸から沿岸への道路は行く先々で交通規制が行われていた。これは土砂崩れによる通行止めでなく、一般車による事故が起こると被災地へ向かう限られた道が不通になることを避けた措置であった。しかし土地勘がない自衛隊員が規制をしているので、他の道を聞いても「自己責任で探して行くように」との指示だった。途中、入場や購買制限をしているスーパーで食糧・資材を買い足して、釜石の内陸部の遠野に昼頃に到着した。東京に居て難を逃れたKの家族と合流してから被災地に入ることも考えたが、山道の県道35号が通行できると知り山中に突入することにした。
「暫く電話が使えないが安全第一で行動する」と最後の連絡をねおす本部と家に入れた。一部山道は対向車がすれ違うことができないほど狭いが、峠を越えて現れた集落はのどかな風情で東北の中山間地そのものであった。家の倒壊はまったく見当たらない。(実はこの時点で沿岸被災者の数多くが2日間かけて避難をしていた)しかし、ある地点から風景が一変した。津波の最終到達点である。
道路は流れ残された建物の残骸で埋め尽くされ、1台の民間ブルトーザーが懸命に道を開けようと唸りをあげていた。わずかに空いた道に車を進めたが、余震が起きると、「先に行くな、戻れ!戻れ!」と地元民に注意をされた。自衛隊はまだ見当たらなかった。なす術もなく現場を離れ、Kの親戚の農家の庭先にテントを張った。その家庭にも4家族が避難をしていた。その後、私達は釜石市の北部、大槌湾に流れ出る鵜住居川上流の栗林・橋野地区を拠点として、同流域の集落に避難する人々、大槌湾沿岸住民を主対象者として支援を続け今に至っている。

◆避難所を訪れる
 14日、正直何をしてよいかわからなかった。沿岸部には近づけない。燃料は車のタンクだけなのでやたらに動けない。近くに避難所が複数あることを知り救援物資を運んだが、80名程の小さな避難所一か所だけで資材はあっという間になくなった。被災から3日目。近所の方よりのおにぎりの炊き出しや多少の衣類の提供はあったものの、半端な数ではない。被災にあったまま衣類を替えていない、毛布も当たらない人がほとんどだった。夕刻、Kの家族が合流。

◆想像を絶する
 15日、少しずつ空いた道路の間隙をぬって沿岸部の被災地に入った。アパートの3階まで波をかぶっていた。辺りは見渡す限り一面に家屋や車、生活品の残骸で埋め尽くされていた。Kの実家は一階が波で破壊され土台だけが残り、二階だけがまるで箱舟のように高台へ流されていた。余震に注意しながら二階の状態を確認した。目の前に広がる光景は津波が原因だと頭では分かっても、どのような状況だったのか想像することができない。想像を絶するとはこういうことか。夜、テントが押しつぶされそうになるほどの重たい雪が降った。この雪によって隣町、大槌の火災や山火事が収まった。

◆ 燃料が無い! 情報が伝わらない!
16日、破壊を免れた家屋の2階より荷物の搬出。行方不明者を探しに複数の避難所を被災者と回った。不明者の後ろ姿を見た人にも出会った。数m先は瓦礫の山なのに、今立っている場所は津波の傷跡は何もない。天国と地獄が一線をかした風景の中で、津波の様子、自身が助かった経緯を一緒に聞く。話す方も聞く方も涙。身震いするほどの衝撃を受ける。助かった人と行方不明、亡くなった方が物凄い数で、今この地に存在していることは分かるのだが、被災地のまっ只中にいる現実に着いてゆけない自分を感じた。テレビ映像で見た釜石市の商店街へも捜索へ出かけた。建物が林立する市街地なので天国と地獄の境目がより強烈にあった。
釜石市街では携帯電波が届き本部へやっと連絡が取れる。物資、燃料など緊急支援のSOSを入れた。第2陣は16日夜、さらに第3陣も波状的に北海道を出発する段取りとなった。、緊急事態なので灯油を車両タンクに継ぎ足し、なんとか遠野まで行き地元NPOとのつながりを作った。一部スーパーが再開しており、被災現場で今必要な下着類が山ほど売っていたことに驚いた。峠を越えわずか1時間ほどの地域は物資供給が途絶えているとは言え、相当数の在庫があった。情報が隔絶していたのだ。下着を大量に買い占めた。

◆ひたすら待つ・・・
17日、何が私達にできるのか・・、朝起きると同時に気がついた。ジャガイモの「炊き出し」だ。炊き出しと言ってもちょっと大きめな鍋しかないのでイモをひとり一個茹でるだけであった。その時食べた人達からは、その後避難所生活が落ち着いた時に「あのイモは本当にうまかった」と言って頂いているが、当時は人々の顔に笑顔はまったくなかった。多少携えていた車両ガソリンは、被災を逃れたが燃料がない地元消防団や商店に配布したが、支援物資は底を着き成す術がない。その後は次の支援車をひたすら待った。第2陣は燃料、下着など緊急物資を満載に夜遅く到着した。

◆ボランティアセンターの立ち上げ
 ねおすの組織運営は指揮命令が優先する野球型が基本だが、現場が始まれば実働部隊の瞬時の判断に任せるサッカー型のチームプレーを行う。今回の初動は正しく後者であった。私が18日に第2陣に現地を任せ19日に函館に戻ると同時に第3陣が応援に現地へ向かった。そして農家の庭先から地域の保育園に活動拠点を移し、被災者の子どもの児童保育をすぐさま開始することができた。被災者のニーズ調査を行い、3月末までには大槌市を含む大槌湾沿岸の市街、集落の状況も徐々に把握し、後方から支援する遠野市のNPOや社会福祉協議会と連携をとりつつ緊急物資の配送の体制を整えた。そして、4月に入り地域の集落センターに拠点を移し、北海道・ねおす釜石栗橋ボランティアセンターと命名し、初動の緊急支援から毎日の児童保育、交流や物資提供、洗濯もできる「青空喫茶」の開店、お年寄りを対象とし地域住民と協働するディケア活動も展開し、広く生活一般への支援活動を本格化した。

◆地域に入る 顔の見える支援
 5月に入ると長期に渡る支援体制を整えるために、鵜住居川上流の橋野地区にある旧保育園と賃貸契約を結んだ。テント拠点から数えて4か所目である。同地区は初めて釜石に入った日に通過した東北らしい緑豊かな落ち着いた佇まいの中山間集落である。この地域や避難者の顔役、住民と連携し地域協働型の支援を模索し始めた。北海道からは週末や連休にバスやワゴン車を利用して多くのボランティアが結集し瓦礫の撤去や河川の清掃も続け、食事係りは地域の女性に担って頂いている。仮設住宅へは野菜の販売も開始した。

◆役割とは
 初動時期の役割は緊急物資供給と明確であったが、避難生活が始まり復興へ向けた動きが始まると、役割は待っていてもやってこない。被災者だけではなく被災者を受け入れる地域集落の人々とボランティアが交流を重ねることで、我々が何者であるか「信用」を得ることがまず大切である。一方的な支援は長続きしない。そして「信頼」を獲得するためには、地域に寄り添い、活動実績を小まめに積み重ねることが必要である。役割を与えられることを待つのではなく、役割を見つけ出す・創り出すという姿勢と態度が必要であることを改めて痛感している。
被災から2ヶ月という短期間に長期持続的な活動拠点を得たのは、これまで北海道で培ってきた地域ツーリズムの展開手法が大いに役立っている。また、キャンプなどの野外技術がねおすのスタッフの本領であることを、改めて自己確認することもできた。

◆今後
 7月、被災地の復興には格差が歴然と生じている。未だに物資補給が必要な孤立した小さな集落には、遠く離れた仮設住宅に入らずに、親類縁者の家に「家庭避難」を続けている人も大勢いる。漁港が復興し出漁が可能な漁師もいれば、地盤沈下のため港の復旧の目途が立たない地域もある。小さな漁港は瓦礫の撤去すら終わっていない。仮設住宅の入居は抽選となり、震災前の町内会単位のコミュニティは崩壊した。被災を免れた農村地域に浜の被災者達が大勢やって来た。コミュニティの再生は入居者や行政だけでは短期間に成し得ないだろう。
 元々が過疎、高齢化の三陸沿岸地域である。仕事を求めて若い人や子育て世代は地域を後にする人も増えよう。だからこそ、地域外から人が訪れる交流の仕組みを興す必要がある。私達は大きな建設的な復興支援はできないが、目の前の顔が見える人達の生活基盤をサポートができる。「自然と人、人と人、社会と自然のつながり」づくりを使命とするNPOねおすは、これからも地域内、そして地域内外のつながり=交流づくりを続け、ツーリズムと言う手法で、復興支援を継続してゆく所存である。

ご支援ありがとうございます。

2011-12-13 12:59:05 | NPO活動全般
震災 ・・黒松内小中・教員・教育委員会向け 報告チラシの 挨拶原稿

 日に日に雪が積もり、冬本番の候となりました。 東日本大震災の被災地においても厳しい冬を迎える時期となりました。

 さて、この度は黒松内町PTAの方々から多大なご寄付ご支援を頂き、心より感謝申し上げます。私どもは所属職員の実家が被災したこともあり、3月12日に岩手県釜石市鵜住居を目指し黒松内を発ち、翌日より被災地支援活動を開始しました。緊急物資の供給から始まり、炊き出し、子どもや高齢者のケア、瓦礫の撤去、さまざまなNPO,ボランティア活動の調整、漁業復興支援などを続けて参りました。 現在は仮設住宅住民のサポート、北海道の防災・被災対処に役立てるために、発災から2週間程度の地域の人々の動き(避難、支援)についてヒアリング調査、食や旅行業の起業支援を行っております。

 「北海道・ねおす釜石橋野ボランティアセンター」は北海道を中心にしたボランティアが集まり活動展開しております。今後も継続しますので、現地に行ってみたい方がいらっしゃればお気軽にご相談ください。 また、被災地の人々は「忘れてほしくない、旅行として観光客も戻って来てほしい」という思いがあります。 私達ができることに小さいも大きいもありません。
被災地の繋がりをそれぞれのできることで、維持してゆくことが大切な時期にあります。

 最後に、今後とも三陸地方への想いを続けて頂くことをお願いして、御礼の言葉とさせて頂きます。 ありがとうございました。

                       
黒松内ぶなの森自然学校 NPO法人ねおす 代表 高木晴光

北海道NPOバンク総会巻頭言

2011-08-12 18:19:28 | NPO活動全般
 これ程暑い夏は久しぶりと言うか、あまり記憶がない今年の北海道です。まずは、残暑お見舞い申し上げます。

 さて、この1年はあっと言う間に過ぎ去った感があります。特にこの半年、冬も終わる
春が近付いた3月11日の東日本大震災からすでに半年近く過ぎました。社会がより良く変化しているとはまったく感じられない1年でした。震災は日本政治の力不足を露呈させ、あらゆる分野の安心安全神話の信ぴょう性を失墜させました。経済、世界における日本の位置も凋落の一途をたどっているようです。これまでの既存セクターの従前的対処では未来は開けないでしょう。

 しかし、楽観的な私は、だからこそ社会課題がわかりやすくあぶり出されていると感じています。その対処は案外シンプルで、単純明快な原則に立ち戻ることだと思っています。人が人を支え合う関係性づくりです。それを細やかなネットワークに育てるためには、多少大きな仕掛けも必要です。いろいろな分野のスティクホルダー、セクターをつなぎ合わせることが大切です。NPOの中間支援組織は、その接着役となる社会的使命があります。

 このような時代だからこそ、NPOの存在、活動意義を高めて参りたいと思います。皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。

NPO事業組合長 高木晴光 (NPOねおす)

ねおす10年度事業報告巻頭言

2011-05-18 11:46:16 | NPO活動全般
はじめに

 私達の自然体験活動、地域づくり事業、人材育成事業において競合する民間企業、大学等高等教育機関、市民活動も多くなり、またシンクタンクやコンサルタント、大手広告や旅行代理店も「環境や自然」を業務領域として参入する場面は前年度よりも顕著になって来た。その中にあって、2010年度は新しい事業展開を始める胎動的な一年であった。

農林水産省の「田舎で働き隊!」事業、小学生の学校教育に子ども達に自然体験活動を推進する「子ども農山漁村交流プロジェクト」の北海道コーディネイトブロック組織の運営は、本年度も継続し、農山漁村地域に関わる経験とノウハウが蓄積され、農産漁村地域の地域ツーリズムの普及・展開はねおすの事業の柱として位置付けられた1年であった。また、大沼における事業は、新NPOや農業生産法人設立に向けて歩を進めることができた。
内閣府の基金事業「地域社会雇用創造事業」では、社会起業・NPOスタッフスキルアップ研修を行った。人材育成事業や起業に関する助言を行うことが多くなり、中間支援業務の幅が広がっている。そして、「自然と人、人と人、社会と自然のつながり」のミッションに加えて、「コミュニティづくり」を行う使命がいっそう明確化した年度でもあった。

一方、受託事業の規模は大きくなったが、エコツアーや子ども向けの主催事業の割合を上げることはできなかった。今後の課題として積み残している。

年度末3月11日東北を襲った東日本大震災は、震災翌日から支援活動を開始した。釜石市鵜住居川流域と大槌湾沿岸を支援地域の中心とし、ボランティアセンターを自主運営する拠点型支援体制をとれたことは、これまで培った「地域との関わり方」が見事に発揮できたと特筆しておきたい。また、これを契機に若い学生とのつながりが増えている。

被災地支援は法人定款にも明記されている業務である。法人設立以来、初めての発動であるが、この新たな使命を遂行することは、ねおすの今後の変容をもたらすに違いないと感じている。


特定非営利活動法人ねおす
 理事長 高木晴光

日韓社会起業フォーラム

2011-02-14 22:13:01 | NPO活動全般
日韓社会起業フォーラムという会議に参加しにSOULへ行ってきます。
私に与えられたお題は、「地域での人材育成」・・
与えられた時間は20分しかないので、次のような、発言要旨を作りました。

*****

地域・まちづくり及びインキュベーティング

Session1 自立的経済生態系造成のためのソーシャル・イノベーション・クラスター


◆Neos Tourisumの前提

まず、私達の活動の前提3つを提示
① ツーリズム = 交流と学びの場づくりと考えている。
 ツアーを事業化するために仕事をしているのではない、地域資源を活かした「交流と学びの場」づくりをする手段として、ツアーや自然体験型環境教育のプログラムを実施している。
地域内に、これらを実践する仕組みがあって、地域・まちづくりは継続(持続)可能になると考える。

② なぜ、地域にこだわるのか?
 私達の活動拠点は北海道の各地にあります。 日本の社会は富の格差が生じ始めている。 現在の経済一辺倒の社会構造では、この格差は広がるばかりである。その間を埋める「流れ」を創り出したい。お金だけでない「豊かさとは?」・・新しいライフスタイルを提案・実践したいと考えている。

③ NEOSツーリズムは地域づくりのひとつのやり方
 私達は、地域に何を貢献できるのか → 新しいライフスタイルを実践する人材の供給

◆NPO 法人ねおすのミッション
 北海道の森や山、海や川、山麓の町や村に触れ、自然豊かな地域に暮らす人たちに出会う、自然への旅と交流を通して、自然と社会との心地よい関係(人・地域)づくりに貢献し、人々の心の糧になるような 北海道らしい自然体験文化を育ててゆきます。 

Neture Experience Outdoor School・・人材を養成する学校・・自然・体験・野外・学校

◆ねおす活動の拠点と全体構成
 Networking Sytem NEOS 北海道各地に拠点を持つ。協働事業体、インキュベーター

◆事業の柱の紹介
 地域協働事業
 人材育成・起業支援
 プログラムの開発と実施

事業の実施と人材養成が両輪となった経営マネージメント

◆銀河ネットワーク 
 各地の個性ある異なるネットワーク(銀河)がお互いに結び付き、さらに大きなネットワークを構成。人は、異質なネットワークに触れることで成長する。

◆ひとつのネットワークでの人材養成の考え方
「研修生・・研修生は様々な銀河も行き交う宇宙船のパイロット」その研修生は、自分が所属するネットワーク内で、基本的なトレーニングを行う。

①トレーニング(学びの目標)
 企画力、コミュニケーション力、情報の収集と発信、インタープリテーション・伝達力、実行力

②小さな地域(町村クラス)でのトレーニング
 経験値が低い研修生は、大きな都市において、自らがプログラムやイベントを計画・仕込み・募集・実施してゆくプロセスを経ることが難しい。しかし、小さな町村であれば、行政、地域の専門家、協力してもらえる地域住民などと関係を作ることが比較的容易である。→ 実践トレーニングができる。

③地域内にカウンターパートナーをつくる
研修地では、地元の機関(行政、ネイチャーセンターなど)や農家等で、研修生を受け入れることができるパートナーをつくり、研修生が多くの人と関われる「場」をつくる。

④地域外に支援者をつくる
研修地内だけで全ての学びを得ることは難しいので、研修地外からも専門的な情報を研修生へ提供できるネットワークや行政関係との連携を計る

⑤総合コーディネイトとしての NPOねおす

◆社会的活動のOPENサーキットモデルの概説
 エコツーリズムの研究者である北大の敷田麻美教授のモデルの応用。
これを、研修生の段階的な成長、また、地域活動の段階的な指標として、ねおす組織内の責任ある立場の者(ディレクター)は共有している。

◆原理・原則
この他にも、人材育成の原則や指標となるスローガンをいろいろと持っている。
「ねおす活動のエコロジー8原則」「ねおすツーリズム憲章」など。
これらを人材育成、そして活動の目標としている。


隠されているTPP問題

2011-02-06 14:12:14 | NPO活動全般

朝からUtubeで、TPPに反対する討論会の様子を1時間半見ていました。 日本の保守(と識別したら叱られるのかな)京大の西部邁さんもパネリストでした。

日本のコモンセンスはどこへ行ってしまったのか・・、太平洋戦争で敗戦後、アメリカの政策の下で動いてきた日本の政治・経済を小気味よいほどスッパリと切っていました。西部さんの対談などを印刷物では読んだことがありますが、随分と堅いイメージがありました。でも、肉声は荒々しくもなく重みをもったユーモアもある説得あるものでした。

他の方々も、日本を憂国するもので、知らないことが分かった・・。特段の扇動的なパネルディスカッションというよりも、いかにマスコミが今、課題になっているTPPの本当の内容を伝えていないことが分かりました。

TPPは、農業問題に特化されているようですが、医療、保険、金融、経済・・多方面にわたっての新自由貿易協定なのです。アメリカは日本の多方面の市場開放を求めているのです。

農業問題に限っても農地の解放やら貿易以外のことがらが課題化されているのです。アメリカや中国の巨大農業企業が参入しやすくなることも十分考えられるというか、これまでの自由貿易協定をアメリカと結んだ国々ですでに起こっていることながたくさんあります。

貿易輸出をしている大企業が会社利益のためにさまざまな自由化を求めている、それらは日本の新聞、TVの大マスコミのスポンサーなわけですから、実際にTPPで議論される課題について報道が極端に少なくなるわけです。 

主体性ない日本の総決算・・、外圧によるアメリカに優位な「平成の開国」が進められる・・・

負け戦が見えている、近未来に日本に起こることは、日本の主権にかかわることで、より大アメリカの属国政策が展開されてゆく・・ どんなことが起こっても、それらに笑って対応してゆこう・・とのことでした・・。

Utubeは下記です。

http://www.youtube.com/watch?v=9kxPp2KmBkY&sns=em

問題が明らかになるほどに、小さなコミュニティ創造とネットワーク・銀河ネットワーク構想が間違ってないと思う私です・・。

これだな!

2011-01-27 23:29:08 | NPO活動全般

ここのところ、雇用やら社会起業やらの会議が続いています。北海道や国の行政職員の方々と同席すると・・・

現場、つまり農業であれ、福祉であれ、教育であれ・・、現場の危機感を行政職員が認識していないなあ・・共有できないなあ・・という場面にしばし遭遇します。

根本には社会保障、雇用保障がされている公務員の方々との埋められない溝があるなあと感じてはいますが、そんなことを言っても仕方がない・・。現場の実態を肌身に感じてもらって、本当の課題を体験的に知って、施策立案してもらいたいものです。

わさわさがしがしと、提言意見を言ってゆくしかない。

どのように「教育再生」をしてゆくか! これが一番重要な課題だ。

公教育だけではだめだ・・。地域の教育力を再生、物事を多角的に見る観察眼の
育成が必要。

大学生の奨学金負担解消
大学教育で社会の実態をしっかりと伝える
農林水産業の社会的価値を学ばせる
大学生が子ども達に出会えなくなっているような学制の見直し
インターンシップ制度の充実
囲い込みをするような企業のインターンシップの是正
故郷を愛せるような学びづくり 

NPOの事業と評価レジュメ

2011-01-19 23:36:55 | NPO活動全般

 今日は、室蘭市の市民団体の研修会。講義レジュメです。

事業の企画と評価  室蘭市まちづくりリーダー養成講座 第4講 レジュメ

◆自己紹介 
◆ 今日のお題について → 「事業の企画と評価」は、難しいお題です。事業を継続
  させ、目的を達成する過程をマネージメントしてゆく「経営」の観点から、どのよ
  うに事業を評価すべきかを話します。

◆おさらい   時代は大きな変革期にある、その社会問題とは
        人口構造が大きく変化する近未来
        地域からできることを考え実行しよう・・協働について
        市民と行政との新たなる関係性へ 
        NPO・市民活動とは・・・ 
        社会資本の整備から社会関係性資本の基盤整備
        私達が養う力は何か

◆明確な定款と理念はあるか? → なければ事業企画、実施、評価はできない。
 
「範囲限定型」・・特化できるが応用性、協働性が低くなる
「範囲抽象型」・・事業の多様化・異なる領域のNPOと協働がしやすい、
事業の安定性を求められるが、専門性が曖昧となりやすい。

※自らが評価軸を作れるか、それを評価できる人材や仕組みがあるか?

 ・ 理念の土台となる考え方 (活動原理)
 ・ ホリスティックな関連性への理解、多様な価値への理解、共感力を育む
 ・ 協働により目指す社会像 

生態的に永続可能である、社会的に公正・民主的である、精神的に充足している

 定款は対役所的にやや難解・・対象者に合わせた翻訳版が必要

※ねおすの定款とその翻訳版、
「自然と人、人と人、社会と自然の「つながり」づくり

◆具体的な事業は何か? → 大きな事業の柱はあるか?

◆事業を将来的に展開してゆくストーリーはあるか?

◆経営の原理原則、心得や目標
※一朝一夕にできない → 活動して行く過程の試行錯誤で明文化される

ねおすの例 ・・個人として → 職員に求める人材像、伝える力TEXT、自己評価表、
                経営者としての経営原則
        組織として → 経営原則(ねおす活動のエコロジーの8原則)
                ねおすツーリズム憲章
        個人と組織 → 銀河ネットワーク構想

◆なんのために評価するのか
   ・自らの事業の目標達成のための 経営やプログラムの改善のためなのか
   ・賛同者を作る(新しい公共性をうむ)ための説明責任が果たされているか
   ・事業の継続性、経営資源の確認のためか (人、金、モノ、情報、)

◆評価は誰がするのか?  事業のクライアント・顧客は誰か?
       → 事業によって異なる。

 評価とは、提供する(社会的)サービスの効果、満足度

第一次顧客(サービス受益者→人、環境や自然そのもの)、
第二次顧客(スポンサー)
第三次顧客(事業実施当事者)・・CS(顧客満足)でなくてES(従事者満足)
第四次顧客(結果ではなく、プロセスに価値を認めてくれる人達、機関など)
  
 ・北海道自然体験学校NEOS時代・・プログラムに参加する人 
                   ・・NPOを分けた時にわかった。

◆何を評価するのか・・・評価軸は何か?

①何を評価するのか NPOの活動主旨によって異なる → 自らが設定する
  a)事業の実績? → 参加人数、売上→継続性にもつながる
            プロセス、結果を報告する成果物
            モデルケースの提示
            想定された社会課題の解決度合・・植林規模、被支援者数
  b) 事業のプログラムやアクティビティの事前準備、段取り、進行、質
  c) リスクマネージメント  ・・例 ねおすプログラム運営安全管理の手引き
  d) 提案する政策? 
  e) スタッフの成長   社会貢献できる人材の育成
  f) 経営のプロセスそのもの → ビジョン、使命の達成度、
                  ネットワークや協働が進んだか?

  g)NPO活動の展開に関する「サーキット理論」

②どのように評価するのか
  ・絶対的評価  目標数字の達成度、6段階評価
  ・相対的評価  アンケート、ヒアリング、スタッフの能力自己評価表、

  ※実績であっても、既存の価値基準と比べられないことがある 
     → 滞在時間、学習・気づき

③ふたつのふりかえり ・・ コンテンツとプロセス

④3つのデザインを評価する
  プロセスデザイン、プログラムデザイン、参加のデザイン

⑤事業進行のファシリテートの仕方を評価する

******
◎お知らせ
 第5期 社会起業・NPO中堅職員スキルアップ研修(内閣府基金事業)
   2012年2月17日から3月25日 募集中 
  「人が集まる場づくり・・○○x交流で起業、NPO事業開発」
   ○○は・・商店、教育や塾、カフェ、自然学校、観光、福祉、農業等々
   http://www.hit-north.or.jp/hokkaido/index.html
  
 NPO法人ねおす,ぶなの森自然学校 代表                    
 高 木 晴 光    harusan@neos.gr.jp
  Twitterのユーザー名  hokkai_tarou (follow me!)
 HP 検索キーワード 「黒松内ぶなの森自然学校」「ねおす」
 高木ブログ     「高木晴光の日々こうかい記」
 

協働と新しい公共

2011-01-18 09:22:40 | NPO活動全般

「協働」という言葉が出てきたのは10年ほど前だっただろうか?
「新しい公共」「創り出す公共」という言葉は、私達の間では同じ頃に使い始めたとおもう。

「きょうどう」は、普通は共同(2人以上の者が力を合わせること、あるいは同じ資格で関ること)、協同(ともに心と力を合わせ助け合って仕事をする)と書くが、「協働」なる言葉は、まだまだ世間一般的な普通名詞ではないだろう。かなりNPO業界用語・・・?でしたが、ここ1,2年で行政用語としても随分と浸透してきました。

広辞苑を引くと、協働は英語のCooperation,Collaboration・協力して働くこと、とある。

前者は、コープ、「生活協同組合」を連想させます。きっと生協の英語名はCooperationが入っているのだろう(間違っていたらごめんなさい)。しかし、心の動きに対する繊細な言葉の使い分けがおおざっぱな英語がわざわざ使い分けているところをみると、CooperationイコールCollaboraionではなさそうだ。 

コラボレーション(Collaboration)は、かなり西洋的な概念であるのに、その深い意味を日本社会に住む私達はあまり考えていなかった。それなのに一人歩きを初めてしまったようだ。

行政(業界)に「協働」という言葉が現れて来たのは、やはり10年ほど前だったと思う。阪神淡路大震災で行政の公共機能が上手に働かず、行政だけでは公共が果たせない事態があり、民間と行政が協力しあう仕組みについて考える時、この新しい日本語「協働」が民間側から現れたように思う。しかし、今やこの言葉に関して言えば、行政用語としてお役人さん達の業界の方が一般社会より先に定着しつつあるように感じる。

国の会議に出ると、「新たなる公共」という言葉が霞が関の官僚達から聞かれるようになったことに驚かされる。と同時に、公共の「責任」を誰が取るのかいう大命題を突きつけられていると感じる。「協働」は市民(Citizen・公共性の形成に自律的、自発的に参加する国民)が参画しないと形成されない。この市民感覚が養われて来なかった日本の社会は、大きな曲がり角に今ある。

協働はたやすいことではない、しかし「協働」なくしては、日本のこれからの社会はない。

IIHOE 川北さん講義メモ・NPOの中間支援は何をすべきか?

2011-01-15 17:52:10 | NPO活動全般
北海道のNPO支援セクターは、今年は何をすべきか?
    2012.01.15 北海道NPO/市民活動支援センター研修・交流会
IIHOE(人と組織と地球のための国際研究所 代表 川北秀人さん)

◆NPOは一歩先の視野、半歩先のプログラム
  受益者・利用者の過去→現在→近未来のニーズに効果を生む合理的なプログラム
中間支援は、2歩先の視野・一歩先のプログラム

◆2012シンドローム
10年後の日本のGDPは中国の半分、500兆円を回復できない。
世界第2位の経済大国の終焉
世界的な保守化へ
ふるさと紅葉再生事業終了 25万人以上が雇用期間終了!
団塊の世代が65歳へ 年金をもらい始める

税制改正大綱に「寄付金の税額控除」「新PST(絶対基準 3000円x100人導入!)
「5文の1本則化」、「条例指定法人のPST免除!」「

◆協働から総働へ
 小規模多機能自治、 小中学区範囲の適地適「策」型の地域づくり
 共通の基本機能と独自の魅力づくり
   っ最小限の安全と安心をどう維持するか

◆地域をむさぼる産業から 地域を耕す産業 (Communi-Culture Industry)

 地域の福祉は経済+健康+生きがい
 地域をあげた商いがブランド化。
 地域の課題・目標が共有できていない → 工程表・役割がない
 まず、寄り添う!  受容の心「来年はいい年になるじゃろう」

◆まちづくりは、行事から福祉と経済に代わってゆきましょう。
新しい公共支援事業をまっとうな基盤づくりに結びつけるためには、
地域に資金が循環するしくみは・・・、正確にはどれだけ必要か? なぜ循環しないのか?
                 これ把握・対応なしには実現しない。

本当のニース、近未来的な状況の把握がなければ、資金は循環しない。
 活動から事業へ!
 情報は 収集→編集 そして発信。
 足りないのは本当に資金か?
  人材 意欲x技能x時間   モチベーションをいかに維持・あげるか。
  道具や施設は 持つより借りる
  資金 経費より投資を!
  目的  ニーズへの共感が資源を集める
       私達はこの問題に取り組んでいます。
  ネットワーク  専門性を相互居有する

適切な人や組織、機能と組むことによって、周りの人の力を使う、総力としての信頼を獲得する。 市民団体同士の連携ができていない。

2020年にどんな社会を実現させたいか? 
5カ年の事業計画はありますか???? 

地域の課題・理想は把握しているか?
課題の原因・背景は理解をしているのか?
課題解決のプロセスを見えているか?  地域の資源を巻き込んでいるか?
合理的な見通し+計画を伝えているか? 進捗=途中の成果も伝えているか?

◆ 私達は○○の課題解決に取り組んでいます。
◆ 毎週 ワンポイントの勉強会実施