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はる風かわら版

たかぎはるみつ の ぼやき・意見・主張・勝手コメント・コラム、投稿、原稿などの綴り箱です。・・・

今、後志に生きる

2015-10-02 00:20:57 | ツーリズム
今、後志に生きる ~ 自然や農村が先生    
~ 自然・産業体験型、生活体験型 地域教育の場づくり ~
                                NPO法人 ねおす 理事長  木晴光

◆ プロローグ  黒松内ぶなの森自然学校の活動とその背景
 黒松内ぶなの森自然学校は、1999年4月、落葉広葉樹・ブナの北限の町、北海道の南・渡島半島の付け根に位置する黒松内町に、国、町、(社)日本環境教育フォーラム、NPOねおすの支援のもとに開校しました。 純酪農地帯にある生涯学習館(元作開小学校)を拠点に、「自然体験型、地域産業体験型学習プログラム事業」の推進、「自主・自律した次代を担う人材の育成」、「子どもを中核とした地域交流促進事業」の展開を3つの主要事業とした地域交流を創出することを仕事としています。
 
 地域に立脚した「自然学校」という範疇で仕事をする団体は、実は全国では数多くありますが、北海道では希な存在です。自然体験事業をすることにおいては体験型観光業とは外見上は同じように見られがちですが、私たちの活動は「民間社会教育事業」であり、非営利活動という位置づけを当事者が強く認識していることが大きな違いです。
これまで、田舎(過疎地)の観光地域資源は、都市生活者のニーズに合わせて、企画・実施されて来たと思います。旅行業者が企画する、あるいは行政予算で補助された、参加費が安いイベントが田舎で開催され、集客を図るという構図です。しかし、これだけでは、地域に多少なりともお金を落とし続けるリピーターを創出することには、難しいと思います。また、地方財政はひっ迫し、イベントが開催できない、縮小化される事態も現実化しています。
 これからは、田舎自らが、その地の固有の良さを再確認し、それらを自らが発信してゆくという、内発的なエネルギーの醸造が求められています。
ぶなの森自然学校も、地域の繁栄を築く一翼を担える事業体としての成長を図ろうと、今、もがいています。そのために、地域社会の顔の見える人間関係性を活かし、1次産業との連携・協働を進めながら、自然豊かな農山漁村全体を学びのフィールドとし、「教育」と「交流」が連動した、自然・産業・生活体験の仕組みづくり = 地域・ツーリズムづくりを手がけています。 

◆ 地域の教育力と自然学校の役割
「地域の教育力とは何か?」という論議がよくされます。難しそうに聞こえますが、その教育力は、来訪者に向けて発揮されるものだとすると、農山漁村地域に住み暮らす人々が、案外気がついていないことがたくさんあります。 実は、自らの日常生活、仕事それ自体が、都市からの来訪者に対して、大きな学びを促す教育力を持っているのです。
自然学校に地域外からやってくる大人も子どもも、トラクターや大きな農業機械が大地を耕す、牧草を梱包して大きなロールを作る作業を見たことがありません。 牛の大きさも実感したことがありません。ですから、それらに風景として出会うだけでも、感じとることは、とても大きいものがあります。広い大地の中で作業をする農業者から声をかけられた時にも、実は大きな感動を味わい、「農業」の存在そのものを、体全体で感じ取っているのです。 農山漁村地域の教育力というのは、地域に住み暮らして来た先祖から積み重なる体験により培われた深い存在感があるものです。それは、決して、単に知識や技術として習得できる力ではなく、来訪者に身体感覚を持って体感させ、それまでに知らなかった、わからなかったような、何か「新しいこと」を感じ取らせます。
自然学校の役割の第一は、地域に住み暮らす人達の協力を得て、来訪者を、地域に本来ある懐深い事象や人(農作業、農村風景、農業者など)に出会わせる、触れさせる、体験させることにあると考えています。 そのためには、まず、その仲介役となる私たちが地域の仕事を体験する必要があります。そして、あるときは地域の代弁者として来訪者に語り、今、目の前にありながら気づかないことに気づいてもらい、あるいは、目の前には見えないのですが、風景にある物語を感じさせる(見えないものをみせること)で、その地域のファン作りを進めます。
そのためには、単に「楽しみ」だけに終わらない活動を企画する事が必要です。つまり、体験する事によって、人生(生き暮らす事)にとって大切なことや自然の営み、動植物や作物についての新しい発見や気づきを促すようなプログラムを構成するのです。そして、役割の三つ目は、この活動を展開するための人材育成にあります。プログラムを企画・実施できるだけでなく、地域との関係性を築き上げることができる人材を育成することが大事です。
  
◆農山村漁村の社会的価値を高める
 現代社会の都市生活者は、自らの生活の基盤に農山漁村地域があることを普段はほとんど意識していません。生鮮食品は、物流の進歩で自宅からわずか数分の距離にあるスーパーの棚に並んでいるので、私達の命の源となるエネルギーが、途方も無い時間と手間をかけて収穫され供給されていることを忘れがちです。食料の供給地として、農山漁村地域が存在することの意義を都市の人達に改めて見直してもらい、その社会的価値(存在価値)を高めてゆくことが必要です。そして、そのプロセス自体が、過疎地=農山漁村地域の活力再生につながると考えています。 都市からの来訪者に、日本海寿都(すっつ)湾で捕れた魚、地域の農家の協力を得て作った畑の野菜など、地域内で生産された新鮮な食材をつかった食事を提供する、ちょっとした見学だけでもいいですから、農家と一緒に過ごす、そういった、直接的に生産者、生産地に消費者が触れ合い、体験することが、農山漁村の社会的価値に気がつく、まず第一歩だと思います。

◆ 多様性の原則 
 ぶなの森自然学校は、自然豊かな地域に立脚した自然体験・地域産業体験型プログラムを開発実行することにより、それらに関わる人々(プログラムの参加者、実施者、地域住民)が相互に影響を与え合いながら自ら育つ「相互学習」を促進する「交流拠点」と「交流の仕組み」を創り続けています。そして、交流の拠点と仕組みを整備することにより、より多様な人々が、その拠点に継続的に関わり続けることができるようになります。
現在、自然学校のプログラムの参加者は、幼児から大人まで幅広く、学生、社会人、外国人もスタッフとして活躍しています。訪れる人を多様化することにより、新たな人のつながりが生まれ、また新たな人が訪れるようになるのです。 多様な人が集うと、複合的かつ交錯的な「交流」が広がり、プログラム開発の更なる構造的な発展が期待できると考えています。
同じ価値観や生活圏の人ばかりでは、均一で同質でしかありません。異質な考え方、生活をしている人達が集まってこそ、新しい気づきや発見がなされ、新しいものが生まれる「可能性」があります。
過日、札幌で「田舎と都会を考える」若者が多く集まる場に参加しました。その折に、「都会の方が田舎に比べて多様である」という意見が強くありました。果たして本当にそうでしょうか? 確かに都会には娯楽施設も多種あれば、飲食店やファッション店舗も多い。しかし、それは消費活動を喚起させる仕掛けでしかない、お金があることによって「できること・手に入れること」ばかりではないでしょうか。目的性においては同質なのです。それに比べて田舎は、川ひとつとっても流れも姿も一本の川でも変化があり、そこに生息している生き物も多様です。それさえわかれば、付き合い方は無限です。

◆ モデルとする、「繁栄ある地域」とは何か
現代社会は、さまざまな社会問題を未来へと先送りをしています。しかし、その未来を生きるのは、今の若者や子ども達です。少子高齢化社会、経済の仕組みの変化、それに伴う雇用形態の変容。社会全体が大きく変化しない限りは、抱える社会問題も解決してゆかないでしょう。つまり、人々、特に今の若者や子ども達には、その変化に対応する新しい生き方、暮らし方が求められています。
人が生きるためには、さまざまな能力が必要です。その力は、「体験」の積み重ねに「知識」が付加されて身につくものです。 しかし、現代の若者や子ども達は、日常生活の中で、多様な人に関わることや、多様な生き物や環境に出会う「体験」の場はとても少なく、限られた狭い環境の中で生活をしています。彼等の交友関係や活動範囲は極端に狭められ、特に子どもの姿自体が街から見えなくなってきています。これは社会全体に起きている現象です。このことに、大人たちはもっと注視すべきです。
子どもの歓声や笑顔がある地域は、活気があります。それは、大人達が相互に関わり合っている地域でもあるはずです。つまり、子ども達を安心して養育・教育できる地域こそが、今後「繁栄」してゆく地域であると思います。
これは、若者にも言えることです。自らの成長、自らの未来の生き方に大いに参考になる「体験」ができる場所を若者に提供することは、大人の役割です。一生懸命に大地や海や森と格闘しながら働く人達、心を癒す美しい自然、それらに若者が出会うことにより気づかされることはとても大きいのです。 心やすらぐ地域、新しい自分を発見できるような体験ができる場所を若者は欲しています。繁栄する地域とは、子ども達の笑顔と歓声に満ち溢れ、未来を築く若者達が自らに磨きをかけることがある生活力がある地域だと思います。

◆ 自然が先生、農村が先生 
都会に住んでいると、社会の仕組みは若者や子どもたちには分かりにくいものです。小さな農山漁村に住むことにより、見えてくる社会の仕組みは実はたくさんあります。「この畑でAさんが作ったものが、ここでBさんにより加工され、あそこでCさんによって売られている」ということが、いとも簡単に目の前の現実として体験的に理解することが、小さな社会では可能です。 黒松内は、人口3000人の小さな町ですが、「町」が構成できるということは、人が暮らすために必要なさまざまな社会的機能(例えば、議会や役場があり、福祉施設や商店、さまざまな職業人がいる)を有するということでもあります。ですから、体験プログラムを企画する時に協力をしてもらえる人が、相手の顔が見える中で身近に存在するというメリットがあります。自然ばかりでなく、社会(環境、環境、産業構造など)をしっかりと体験的に知ることも可能なのです。

環境運動に、「地球規模的に考え、足元から行動する」という有名なスローガンがありますが、小さな地域住むと、逆の考え方のほうが、分かりやすいことに気づきました。つまり、地域社会に住み・暮らしながら、「地域のことをしっかりと考え、地球規模的な行動ができる人づくり - We Think Locally, Act Globally !」という態度の方が、実は重要なのです。 人が健全で心豊かな暮らしを営むためには、まず、自らの地域社会でのあり方を問い、自らが地域社会で、相互扶助の役割を担えるようになることが基本です。 そのうえで、はじめて、全体として持続可能な地球社会への貢献が、身近なこととして、捉ええられるようになると考えます。 この考え方は、まさしく農山漁村の暮らし方にあてはまる、原理原則です。

このような視点に立ち、自然学校は、次のような基本姿勢で体験的な学びの場づくりを目指しています。
① 人は、個々が相互に影響を与えながら「自ら育つ」 (相互交流学習)
② そのために、地域内外の様々な人々が交流する、多様な仕組みを作り続ける 

◆ 自然学校の生徒達
自然学校は、学校と言っても、子ども達や学生が毎日通ってくるわけではありません。定期開催の自然体験活動「イエティくらぶ」の子ども達、春夏冬休みに1から3週間にわたって実施する長期体験村に全国からやってくる子ども達、実習研修で長期滞在する若者達や農村体験のスローツアーや森歩きのエコツアーにやってくる大人が、自然学校の生徒です。しかし、これだけでなく、自然学校が大切にする生徒は、実はまだたくさんいます。
 それは、プログラムを企画し、実施する私達を含めたプログラムを支えてくれるスタッフ、カウンセラーと呼ばれる子どもを相手するボランティアの若者達です。 「相互交流学習」という考え方に立っていますから、実は、私達も自然学校で学ばせてもらっているわけです。
研修生は、NPO法人ねおす(北海道自然体験学校NEOS)に在籍し、プログラムを企画・実施進行するディレクターを目指して、毎年2-3名程度が、1年単位に自然学校で研鑽を積んでいます。また、他の団体から、指導者養成の実習の先として1ヶ月から半年程度の期間、滞在する人も毎年3-4名ほどいます。卒業生はすでに30名を越え、各地で活躍をしています。ITさんは、道北で独立、養鶏と自然学校を経営、三重県大杉谷自然学校を立ち上げたOKさん、アウトドアガイドのKさん、栃木で児童福祉の仕事をしているKSさんもぶなの森自然学校で研修を積みました。このほか、札幌や台湾の大学から単位を重ねた実習として参加する人、教員の長期研修者(最長6ヶ月)の受け入れ、国際ボランティア組織を介して長期滞在するアジアやヨーロッパ人も毎年3~5名ほどいます。

◆新幹線がやってくる
 2016年3月に新幹線が道南に到達し、その後、札幌への伸張工事が進むようです。新幹線は、果たして言われているように地域活性に寄与する存在なのでしょうか。来道する旅行者は増えるでしょうが、東京方面へでかける道民も増えることでしょう。経済収支からみれば、経済の持ちだし・ストロー効果が強く現れると思えます。 ましてや後志圏においては在来線の函館線が廃止となります。地域交通体系の見直しと確実な計画実行をしないと、ますます地方は疲弊する危険性をはらんでいます。 地域間が連携されたコミュニティバスを中心とした交通体系は地域生活の基盤を支えるために必須なものとなるでしょう。この組立が観光とも結びつくような論議が早急に必要だと思います。

◆ エピローグ
事務所の窓を見ると、真っ暗闇が張り付いています。でも、外に出て、夜空を仰ぐとオリオン座が東の空に上っています。散りばめられた星達の間隙を埋める暗闇を見つめていると、宇宙空間の途方もない奥行きも感じられます。
大都市は、高層ビルの窓の明かりとネオン照らされて、夜空は薄明るくなり、星はまるで見当たりません。同じ空を見ているとはとても思えません。そんな東京が夕暮れを迎える頃、満員電車に乗り空港へ、そして黒松内まで帰ることがありました。すると、夜10時頃には、半径2km以内でも人影が見えない我地に到着することができました。つい、4,5時間前には、私の周り半径2m以内に折り重なるように、ずっしりと人がいたのに、我が地には、東京とは比べものにならない大きな空間が広がっていることに今更ながら気がつきました。
夜空は満天の星です。そして、ゆるやかなに時間が流れ、酸素をいっぱい含んだ新鮮な大気に包まれているのが、黒松内という田舎です。
 私達は、田舎と都会という、とても環境が異なる2つの世界の中で生きています。人間が作り出したお金と物を消費することにおいては多様な世界である都会、自然界という多様性が高い田舎。そのどちらが住みやすいかは、人それぞれでしょう。しかし、どちらか一方の世界だけでは、こんなにも多種多様化した人間達を養いきれないでしょう。 また、どちらか一方の環境だけに身を置くのでは、社会全体のあり方に対して、バランスの取れた感覚を持った「人」は育たないと思います。
 ぶなの森自然学校は、田舎に存在していますが、「2つの世界」観から考えると、両者の波打ち際に立つ存在でもあります。二つの世界を知りながら、バランス良く未来を見据え、バランスがとれた未来を創造する人達が、後志地域から輩出されれば、嬉しいかぎりです。

寿都の海に生きる

2014-04-30 17:25:31 | ツーリズム
BayWay後志原稿 2013夏

寿都の海に生きる。  川地純夫さん
                   黒松内ぶなの森自然学校・NPOねおす
                             浦西茉耶  高木晴光

寿都湾に面した横澗の磯から見える海は、昼下がりの光を受けてきらきらひかり、ゆったり広がっていた。日本海に面した国道229号線沿いに「よってけ!日本海」という大きな看板が見える。傍らのこじんまりとした漁港に川地純夫さんの船、「海生丸」と「正栄丸」が休んでいた。

はじめて川地さんに出会った時、「漁師」という空気の中に「面倒見の良い親分」の顔と、さらにそれだけではない「強い意志」を持つ目を見て、寿都と海を愛する漁師の新たな心意気を感じ心地よい衝撃を受けた。どこかからやってきた旅の若者の面倒をみ、漁業や釣り船等を体験させるなど寿都の水産業漁業のことを色んな人に伝えたいという熱い想いをもった人だ。

「海に行く」ことは「獲る」ことだった
昭和37年生まれの51歳。ナマコ漁師、遊魚船の船頭、日本海食堂(お連れ合いのさつきさん経営)、さらにライダーハウスのオーナーという顔を持つ川地さん。川地一族はその昔、石川県からニシンを追いかけて寿都へやってきた、かなり大きな網元で、川地さんは4代目になる。といっても、もともと漁師であったわけではない。お父さんは次男だったが、川地さんが小学校6年生の時に漁師の仕事をはじめ、春は定置網でサクラマス、ホッケ、ヤリイカなどを漁獲し、秋には厚岸のサケマス孵化場に出稼ぎに出ていた。川地さんも小学校6年生の時から、学校に行く前に定置網の手伝いをし、お父さんの遊漁船に一緒にのせてもらうこともあったが、どんなにがんばっても1時間で酔ってしまい、船にはいい思い出がなかった。そのため自分が漁師になるとは思わなかったそうだ。
今のように車があるわけではない、父親が子どもをかまうような時代ではない。6月の中旬になれば、子供同士で誘い合わせて海に行くのが日課だった。おにぎりと、切った芋、玉ねぎ、豆腐などをいれた鍋だけを持って海に行くと、暗くなるまで海にいた。潜って捕まえたウニ、アワビ、ヒルガイ、ツブなどを焚き火で焼き、たらし釣りでガヤやアブラコを獲って持参した鍋に入れて食べていた。もちろん、当時もそれは密漁にあたるが、子どもが海で遊ぶことにとやかくいう大人はいなかった。海は豊かだったし、「食べるくらいはいいべ」という暗黙の理解があったという。それどころか、密漁監視の大人が、「俺が見てるから大丈夫だ」と子どもたちを遊ばせてくれる大らかさがあった時代だった。
川地さんは、「それは子どもに必要な体験」だという。今から30年前ごろから、密漁が組織化すると同時に監視が厳しくなったそうだ。地域の人からでさえ「あそこの家の子、また潜ってるべ!」と言われるため、親も子どもを海から遠ざけるようになった。さらに「海は危険な場所」という指導が広まり海離れを助長した。だから、「今は漁師の子どもでも海に入ったことがない。若い漁師で海を知らないやつが多い。漁師が海がどんな所か知らないってのは問題だ」と川地さんは言う。

建築の世界にいた10年
とはいえ、川地さんが寿都へ帰ってきたのは37歳の時。建築の専門学校をでた後、大手のゼネコンに勤め、学校やマンションを作る仕事をしていた。27歳の時には独立して自分の工務店を持った。それから会社をたたむまでの10年間について、「大変だった」と川地さんはぽつりといった。バブルがはじけた後に起業してがんばっていた矢先、手形の事故にあい、借金を負った。引きつづいて離婚。ようやく手形の返済したころ、追い討ちをかけるように手に怪我を負ってしまう。それを機に、川地さんは寿都に帰ってきた。

釣り船「正栄丸」
 寿都に帰ってきても、川地さんはホタテの作業などの仕事を続けたが、無理をすると怪我を負った親指が疲労骨折してしまう。それでも仕事しなければと無理を重ね、指が治るのには8ヶ月を要した。建築も駄目、かといって漁師もできない。がんばらなきゃならないと思い、がんばっているのに空回りしてしまう。親との葛藤もあり、「ひきこもり」になったと言う。「なぜ自分だけこんな悪いことばかりおきるかな・・・」と思った。
 そんな期間が1年半くらい続いたある日、青森で大工をしていた母方のおじさんに「出てこい」と呼び出され、「何がやりたい?」と聞かれた。札幌に戻って、建築の現場はできなくても営業はできるかもしれない、でも何をやっていいのかわからない・・・そんな川地さんに、おじさんは「漁師はやらないのか?」ときいた。親父と肩を並べて漁にでることはできない、でもずっと好きでやっていた釣りは仕事にできるかもしれない。「釣りの仕事なら」と答えると、おじさんは「船を持てばいいんじゃないか?」と提案した。これがきっかけとなり、釣り船「正栄丸」を手に入れる決心となった。寿都の海で遊んだ子ども時代の思い出が蘇り、川地さんの人生の流れが大きく変わったのはそれからだった。

漁師・食堂・釣り船
 釣り船を持った川地さんのことを、たまたま縁のあった北海道新聞の記者さんが釣り新聞に紹介してくれた。そのこともあり、釣り船のお客さんは一気に上がり調子となった。
日本海食堂はお母さんが切り盛りして、春から秋の半年のみ営業していた。お父さんは漁師で、ナマコ漁とホタテの養殖をしていた。ナマコは当時でキロ380円と、現在よりはかなり安かったが、釣り船と食堂とナマコ漁で1年間充分食べられるくらいだった。このころ川地さんは、当時70歳で現役だったお父さんと大喧嘩をして、お父さんにホタテ業をやめさせたという。何十年も続けてきたホタテ養殖だったが、会社経営を経験した川地さんは「自分も含めて生計を立てるには、ホタテだけでは無理だ」と考えて、「申し訳ないけど経営方針をかえたい」と説得した。
川地さんとお父さんは、一緒に船に乗って仕事することができない。いわゆる「船頭多くして・・・」の状態になり喧嘩が絶えなかったそうだ。考え方が違う。お父さんは自然の中で長年培った勘を頼りにする漁をするが、川地さんは魚群探知機やGPS等の機械も使って漁船を動かし釣果につなげる。さらに、決められた漁獲量があればお父さんはその量をきちっととろうとする一方で、川地さんは、量は少なくても生産性を挙げるため付加価値をつけるのにどうするか、ということを考えていた。「量をとる人は薄利多売を覚悟でやらないといけないところがある。かといって小口単位は漁連では扱えない。そこを、自分のところで加工、売り方も工夫してブランド化し、お客さんに納得して買ってもらうことができればいい。獲るだけではなく、自分のところで出来るように考え、それに必要な経費がまかなえればいい。」と考えている。
一見、昔と変わらぬ寿都湾が広がってはいるが、水産資源は減っている。漁師業にも商売感覚が必要な時代なのかもしれない。

人と人、人と海をつなぐライダーハウス
 横澗漁港の日本海食堂から一段上がった高台に川地さんが作ったライダーハウスがある。もともとは、川地さんの釣り船のお客さんを泊めるための場所だった。日本海食堂は民宿も経営している。だが、お母さんが経営していた時代は川地さんの釣りのお客さんに泊まってもらうことができなかった。そこで、建築の世界にいた時の技を駆使してプレハブやトレーラーを早朝の釣り客の簡易宿泊所に改装し、展望風呂や洗濯場も作り2年前にはライダーハウスにした。「生産者であり、食堂もあり、ライダーハウスもある。人と、海の仕事をつなぐことが出来る」という。
川地さんの「弟子」の潤さんは、縁あって川地さんに漁を教わっているが、3年前の春、突然川地さんを訪ねてきたという海に興味のある若者だ。「仕事ないですか?何でもいいんだけど」と川地さんの扉をたたいた。
漁業を目指す人の受け入れに補助が出る研修制度もあるが、川地さんはそれだけでは、自分も若者も成長できないと、その補助制度を利用しない。すべて自腹で若者を預かり、若者が様々な体験を積める育て方をしている。「海に関わる仕事をたくさん体験させ、どの部分をがんばれば自分が伸びられるのか、背中で見せなければならない」と考えている。
川地さんは潤さんに漁業を教えるだけではなく、地域の人に手を貸して、といわれれば手を貸せる人に、地域の中で人と信頼関係を築くことが出来るようになって欲しいと考えている。「今の若い人は、すぐになんとなく他人に同調してしまう。『人は人!自分は自分!』という気迫が足りない。うわべだけの付き合いではなく、一歩踏み込んで痛い思いをしても、人ときちっと信頼関係を作れなければならない」と若い人への支援にも熱い思いを持っている。

「明るくなったら起きて、暗くなったら寝る。」
 川地さんの朝は早い。4時半に起きると、船を出すための段取りをして、6時に出港する。ナマコ漁の場合も釣り船でお客さんと出る場合も同じだ。釣り船の場合、12時には帰ってくる。ナマコ漁の場合ならば14時頃に戻り、ナマコを出荷して15時半には仕事を終える。晩ご飯は17時過ぎ、21時には就寝。明るくなって起き、暗くなったら寝るという生活だ。一方、同じ寿都の漁師さんでも、会社員と同じように、漁から帰ってきても17時まで仕事という人たちもいるが、「その必要はない」と川地さんはきっぱり言う。春は4月1日から5月いっぱいタコ漁。ナマコ漁は6月16日にはじまり、お盆過ぎまで。後は遊漁船のみだが、それも海が荒れる冬場はできないので12月いっぱいで終わる。冬は全く海にはでない。
日本海食堂は、31年前からやってきたお母さんから昨年、代替わりして今はさつきさんが受け持っている。川地さんにとって「あ・うん」の呼吸の人だ。日本海食堂も営業は春から秋で、船が海に出ない冬はお店を閉じる。
 「都会の仕事をやめて、海に戻ってきて仕事をしているので、自然に癒されている。建築の仕事は月末に追われていたが、今は自然のリズムに合わせて生活も仕事もできる。ストレスがなくなった」と川地さんは笑う。

水産資源が減少し、船の燃料代も上がり、輸入品も増え国内水産物の浜値も下落している時代となり、水産業の未来の展望は決して明るいものではない。しかし、川地さんのように海を愛し、海で働く若者を育てようとする浜の人がいる。

***
日本海食堂
寿都郡寿都町字磯谷町横澗  tel 0136-65-6351
http://www.aurens.or.jp/~nihonkai/

都会の非日常は私の日常

2009-05-21 16:24:30 | ツーリズム
 
ルーラル・スローツーリズム
都会の人にとっての非日常空間は、私達の日常

ぶなの森自然学校は、黒松内町の日本海側、朱太川をはさんで寿都町に向かい合った場所に立地しています。そして、子どもから大人まで都市住民が訪れる交流拠点として、年間交流人口1万人を創出しています。年に6~7人、海外の大都市からも、この北海道の片田舎で一ヶ月滞在する若者もいます。都会の人にとっては、まさに異次元のような緑に囲まれた空間であり、ここでの滞在はまさに「非日常性」を体感することになります。しかし、私達にとっては「日常の生活空間」なのです。

雪が消え春になり、日が昇るのが早くなると、目覚めも早くなります。我が家の子ども達は五時起きです。食卓にお皿を並べる音が、まだ冷たい空気の中で響くので、私まで目を覚ましてしまいます。そして、外で飼っているウサギの世話、というよりウサギと一緒に遊びにゆきます。夕方学校から帰ってからの外遊びより、朝の方が長いくらいです。新鮮な大気をいっぱい吸った後にゆったりと朝食。子ども達は神戸や東京からやって来て山村留学生する三人の小学生。すっかりと田舎生活になじんで、以前は非日常だった世界を、彼女らの日常として過ごしています。

実の子ども達がそれぞれ独立しているので、この三人(なっつ、れいこ、はるか)と私の連れ合いの「まり子さん」そして、スタッフでもある、まむ、じょい、いなり、ほっしーの小学6年生から50代半ばの私まで合計9名、さらには、犬のグラッチェ、ヤギのドンとガラ、ウサギのブチオとグレコ、四羽のニワトリ・コケッツが私の「今の家族」です。
農業をやっているわけではありませんが、農村地域に住んで小さな畑を作り、子ども達は中学と小学校に通う、動物(ヤギ、鶏、ウサギ、犬)を飼い、維持管理しなければならない建物がたくさんあると、生活に関わる仕事が山ほどあります。また、過疎地ですから、人が少ない分、いろいろな役回りもこなさなければなりません。PTA活動、地域の水道管理、地域行事、まちづくりの会議などさまざまな会合への参加、時には二日間お手伝いにでるお葬式もあります。とうてい一人ではできません。6人の大人達が協働して毎日を暮らしています。ですから、自然学校の生活は、仕事が暮らしの中にあり、暮らすことが仕事でもあるような毎日です。動物の世話にしろ、畑作業にしろ、ここで生きてゆくために必要なことを、できるだけお金をかけずに、それぞれの力を合わせてやっています。農家の仕事は家族全員が協力して成り立っていることを考えると、私達もかなり農業的な暮らし方をしています。

もちろん、夕食は家族全員揃って食べます。来訪者も多いので10人、20人の時もあります。料理の下ごしらえの大半はまり子さんが済ませ、食事の1時間前から調理のお手伝いが入ります。お皿を並べるのはもっぱら子ども達の役割。そして6時半に、皆一斉に「頂きます」と言ってから食事が始まります。何てことはないおしゃべりや今日の学校であったこと、時には政治・経済話題もあれば、行儀について叱られることもある「家族団欒」の時間です。このような家族が共有できる同じ時間を持つことは、都会生活では、今や難しくなっていると思います。大切にしたい「豊かな時間」です。

人と人との関わりが薄い社会となり「コミュニティの再生」がスローガンのように「町づくり活動」に掲げられています。しかし、そのコミュニティが何を指すのか、その形や質について考え直す時代に今あると思います。コミュニティの最小単位は「家族」です。そして、家族は人間が成長する、そして安心できる場として必要なものです。ところが、親子・血縁で形成される家族そのものが日常生活から姿を消しつつあります。 
グループホームという概念、実践が福祉にはありますが、この考え方は主に高齢者や障がい者、支援が必要な子ども達にケアも提供する共同住宅として一般には理解されているでしょう。しかし、「共に暮らす」ということは、生きている人間誰にでも必要なことだと思います。

自然学校というコミュニティづくり、グループホーム的な生活、そんな非日常性を日常にしたく、今日も黒松内の空の下で暮らしています。

(BY WAY 後志 第五号 コラム原稿 加筆)


ガイド業の登場とツーリズム

2008-11-06 15:42:52 | ツーリズム
「ガイド業の登場とツーリズム」

1980年代後半、世の中は好景気に沸いていた。その真っ只中、札幌市内で足掛け3年、複合レジャー施設の観光開発に携わった経験がある。設計段階のコンセプトメイキングから関わり、什器、調度品、設備機器の費用概算を行い、飲食、温泉、スポーツ、ゲーム、ランドリーなど全てのセクションの運営計画を練り、その立ち上げまで第一線で仕事をした。担当者3名で始めた仕事は、オープン時にはパートを加えると500人のスタッフに膨れ上がるものだった。

 開業直後はスポーツクラブの現場責任者となり、様々なスポーツ教室の展開を試行錯誤しながらも軌道に乗せ、来場者を対象に自然体験キャンプを「有料」で募集した。これが、私のエコツアー的な活動の始めである。
 その後も、保養研修施設や「健康」をテーマにした都市の複合ビル計画など「人が豊かに暮らす」場のハード・施設の事業開発、いわゆるディベロッパーが私の担当だった。しかし、後に「バブルの崩壊」と呼ばれる景気急落が訪れ、レジャー・スポーツ施設のリストラ計画と実施までも担当することになり、自ら立ち上げた教室の閉鎖、つい1年間前に採用した者の人員整理など、リゾート開発の山と谷(光と影)をまるでジェットコースターに乗ったように過ごした。

 リストラ実行後には、新たな観光開発の仕事はストップしてしまった。おかげで、移動させられた「暇を持て余す職場」は、「本当は何をやりたいのだろう」と私に考える時間を与えてくれる場となった。しかし、それまで真剣に悩み抜いて仕事をしていたので、「思い」を固めるまでにはそう時間は掛からなかった。「人々の心豊かな生活・生き方づくり」をサポートする仕事が続けたかったのだ。そして、他人が作ったジェットコースターに乗るように仕事をするのではなく、自然の中に時間をかけて身を置きたいのだと確認ができた。

 そして、1991年に「自然と人、人と人、社会と自然のつながりづくり」を経営コンセプトとした北海道自然体験学校NEOS(現NPO法人ねおす)を設立するにいたった。
 エコツアーの実施や山、カヌー、ネイチャーなどのガイドが、業務、職業として現れ定着してきた時期は、この時代の大きな転換期と重なるだろう。自然豊かな地にリゾート、観光施設を作ることにより集客を図るハード型観光から、自然の中へ人を連れ出す、自然体験ができる「仕組み」・ソフト型観光の登場である。そういった観点から見ると、1990年当初は、日本のエコツーリズムの胎動期と言ってよいだろう。

 しかし、当時は「お金をとって自然を案内する輩は、自然破壊を助長しているのではないか」と新聞に投書が載るような時代であった。これはつまり、自然型観光には、まだツーリズムと呼べるような土台が薄く、自然の中での「有料の遊び」が登場したに過ぎなかったとも言える。
 私達にとってのエコツーリズムは、まずツアーの実践から始まり、その基盤となる考え方の必要性を感じ土台化されて来たものである。
 
 それから10数年を経た2002年、ねおすスタッフの研修会にて、次のような ねおすツーリズムの9か条が作られ、現在の活動の指針となっている。

第1条 ねおすツーリズムは「学びの場」を創り提供します。
    学ぶ人はツアーに関わる全ての人です。共に学び、気づきという知的なお土産をもちかえることをめざします。
    何らかの形で、気づきが日常生活に活かされることをめざします。

第2条 ねおすツーリズムは「つながり」を意識します。
    人と自然、自然と地域、人と暮らしのコミュニケーションを促進します。
    地域との関わりを意識し、第1次産業、教育活動、福祉、市民活動との連    携を視野に入れます。

第3条 ねおすツーリズムは「環境保全、持続可能な利用」を目指します。
    少人数の旅を提案し、自然、地域、文化への影響をすくなくするように配慮します。

第4条  ねおすツーリズムは、世界へ向けて「北海道らしさ」を発信するものです。
     北海道らしさの発信を通じて、北海道の持続的な発展に貢献できるように努めます。

第5条  ねおすツーリズムは、「訪問地への愛と責任」を持つものです。
     訪問地の自然、人にこだわり、その魅力を引き出し、自律を支援します。

第6条  ねおすツーリズムは、「新しい旅文化」を提案、実践します。
     北海道らしい旅のモデルの提案、実践を通じて、「旅文化の向上、旅文化の創造」をめざし、日本あるいは世界へメッセージを発信し続けます。

第7条 ねおすツーリズムは、NPO活動です。

第8条 ねおすツーリズムは、私達創り手のライフスタイルに反映されるものです。

第9条 ねおすツーリズムは以下のことを意識し実践します。

 ・創り手は、時空のデザイナーたるように努めます。
 ・メッセージを発信し続けます。
 ・多様かつ深さを持つ内容に心がけ、ゆとりあるプログラムを提供します。
 ・すてきな出会いを演出します。
 ・かかわりを持つ全ての人々が楽しめるように努めます。
 ・今を楽しみ、旬を味わいます。
 ・アットホームな居心地の良さを提供し、追及します。
 ・常に安全を十分に配慮して行動します。

 (2001.12.05 ねおすグループ研修会にて策定)


地域協働とおせっかい

2008-02-12 17:57:47 | ツーリズム
季刊ねおす 0802 MISSION コラム

地域協働とおせっかい

 ねおすの事業の柱のひとつに「地域協働」がある. それは1998年に、黒松内町からの委託事業「黒松内ぶなの森自然学校のビジョンづくり」から始まったと言ってよいだろう。翌年に開校は自然を案内するガイドの人材養成が大きなテーマとなり、外部の講師を招いたプログラムが多く、地域住民との関わりは少なかった。当時はまだ行政用語としても「協働」は登場しておらず、私達も「地域との連携」はおろか、自らの自己実現の域でしかなかったように思う。

 2003年、環境省の補助事業とも位置づけられていた養成事業が終わり、傍と立止まった時、地域とのつながりが薄かったことに気づかされた。そして、改めて「地域と共に」というキーワードを加え、「地域あってこその自然学校(地域立脚)」を目指し始めた。しかし、足元を良く見ると、それまでには気がつかなかった様々な社会問題が見えてきた。グローバル経済に飲み込まれる農業問題であり、漁業や林業が抱える社会構造的や環境に左右された問題、高齢、子育て等の福祉、行財政のひっ迫、雇用問題などである。

 これ等を知れば知るほど、「地域と共に」というキーワードは、生やさしいものではないことがわかってきた。自然学校そのものが地域に持続するためには、それ相応の「役割」を果たさなければならないことを日々痛感している。しかし、物を生産するのではなく、行政サービスを提供するのでもない私達が地域に果たせる「役割」は何か!? 

それは・・・
地域に嫌がれないように、「おせっかい」をすることだと思う。これがあったら、こうしたら、地域にとっても「いいんでないかい」「たのしいんでないかい」程度におせっかいを続ける事だと思う。
 「おまえらが、居てくれてよかったよ」という言葉が地域住民より聞えてくることを評価として、これからも、勝手に「地域協働」を提案し続けてゆきたい。

NPO法人ねおす 理事長 高木晴光

ガイド業の登場とツーリズム

2008-02-12 16:25:14 | ツーリズム

1980年代後半、世の中は好景気に沸いていた。その真っ只中、札幌市内で足掛け3年、複合レジャー施設の観光開発に携わった経験がある。設計段階のコンセプトメイキングから関わり、什器、調度品、設備機器の費用概算を行い、飲食、温泉、スポーツ、ゲーム、ランドリーなど全てのセクションの運営計画を練り、その立ち上げまで第一線で仕事をした。担当者3名で始めた仕事は、オープン時にはパートを加えると500人のスタッフに膨れ上がるものだった。

 開業直後はスポーツクラブの現場責任者となり、様々なスポーツ教室の展開を試行錯誤しながらも軌道に乗せ、来場者を対象に自然体験キャンプを「有料」で募集した。これが、私のエコツアー的な活動の始まりである。

 その後も、保養研修施設や「健康」をテーマにした都市の複合ビル計画など「人が豊かに暮らす」場のハード・施設の事業開発、いわゆるディベロッパーが私の担当だった。しかし、後に「バブルの崩壊」と呼ばれる景気急落が訪れ、レジャー・スポーツ施設のリストラ計画と実施までも担当することになり、自ら立ち上げた教室の閉鎖、つい1年間前に採用した者の人員整理など、リゾート開発の山と谷(光と影)をまるでジェットコースターに乗ったように過ごした。

 リストラ実行後には、新たな観光開発の仕事はストップしてしまった。おかげで、移動させられた「暇を持て余す職場」は、「本当は何をやりたいのだろう」と私に考える時間を与えてくれる場となった。しかし、それまで真剣に悩み抜いて仕事をしていたので、「思い」を固めるまでにはそう時間は掛からなかった。「人々の心豊かな生活・生き方づくり」をサポートする仕事が続けたかったのだ。そして、他人が作ったジェットコースターに乗るように仕事をするのではなく、自然の中に時間をかけて身を置きたいのだと確認ができた。

 そして、1991年に「自然と人、人と人、社会と自然のつながりづくり」を経営コンセプトとした北海道自然体験学校NEOS(現NPO法人ねおす)を設立するにいたった。

 エコツアーの実施や山、カヌー、ネイチャーなどのガイドが、業務、職業として現れ定着してきた時期は、この時代の大きな転換期と重なるだろう。自然豊かな地にリゾート、観光施設を作ることにより集客を図るハード型観光から、自然の中へ人を連れ出す、自然体験ができる「仕組み」・ソフト型観光の登場である。そういった観点から見ると、1990年当初は、日本のエコツーリズムの胎動期と言ってよいだろう。

 しかし、当時は「お金をとって自然を案内する輩は、自然破壊を助長しているのではないか」と新聞に投書が載るような時代であった。これはつまり、自然型観光には、まだツーリズムと呼べるような土台が薄く、自然の中での「有料の遊び」が登場したに過ぎなかったとも言える。

 私達にとってのエコツーリズムは、まずツアーの実践から始まり、その基盤となる考え方の必要性を感じ土台化されて来たものである。
 
 それから10数年を経た2002年、ねおすスタッフの研修会にて、次のような ねおすツーリズムの9か条が作られ、現在の活動の指針となっている。

◆第1条 ねおすツーリズムは「学びの場」を創り提供します。
学ぶ人はツアーに関わる全ての人です。共に学び、気づきという知的なお土産をもちかえることをめざします。何らかの形で、気づきが日常生活に活かされることをめざします。

◆第2条 ねおすツーリズムは「つながり」を意識します。
人と自然、自然と地域、人と暮らしのコミュニケーションを促進します。地域との関わりを意識し、第1次産業、教育活動、福祉、市民活動との連携を視野に入れます。

◆第3条 ねおすツーリズムは「環境保全、持続可能な利用」を目指します。
少人数の旅を提案し、自然、地域、文化への影響をすくなくするように配慮します。

◆第4条 ねおすツーリズムは、世界へ向けて「北海道らしさ」を発信するものです。
北海道らしさの発信を通じて、北海道の持続的な発展に貢献できるように努めます。

◆第5条 ねおすツーリズムは、「訪問地への愛と責任」を持つものです。
訪問地の自然、人にこだわり、その魅力を引き出し、自律を支援します。

◆第6条 ねおすツーリズムは、「新しい旅文化」を提案、実践します。
北海道らしい旅のモデルの提案、実践を通じて、「旅文化の向上、旅文化の創造」をめざし、日本あるいは世界へメッセージを発信し続けます。

◆第7条 ねおすツーリズムは、NPO活動です。

◆第8条 ねおすツーリズムは、私達創り手のライフスタイルに反映されるものです。

◆第9条 ねおすツーリズムは以下のことを意識し実践します。
 ・創り手は、時空のデザイナーたるように努めます。
 ・メッセージを発信し続けます。
 ・多様かつ深さを持つ内容に心がけ、ゆとりあるプログラムを提供します。
 ・すてきな出会いを演出します。
 ・かかわりを持つ全ての人々が楽しめるように努めます。
 ・今を楽しみ、旬を味わいます。
 ・アットホームな居心地の良さを提供し、追及します。
 ・常に安全を十分に配慮して行動します。
 (2001.12.05 ねおすグループ研修会にて策定)

(地域マネージメントとエコツーリズム 2008 出版予定本のコラム元原稿より)




夢に日付をつける

2007-03-09 12:18:54 | ツーリズム
昨日ラジオを車の中で聞いていると・・・

「夢に日付をつける」ということをどなたかが言っていました。夢を夢で終わらせないためには、夢に向かってゆこうということかと思いました・・・。

 今朝、朝の送迎をしている帰りに、突然と・・・それはやっとなのですが、「夢」が湧き上がりました・・。 最近自分の周りに起こっている、見聞きしたことが一気につながったようです。 (しかし、まだ・・・ようです、と言っているところが、描ききれていないという証しだなあ・・)

通年の人材養成コースをもう10年以上開催している
多方面にいろいろなネットワークができている
ぶなの森自然学校という大きなフィールドがある
黒松内にすんで4月から7年目を迎える
動物園に知り合いができた
大工さんの知り合いもできそうだ
ヨーロッパの地球温暖化防止プロジェクトが相当進んでいる
ヨーロッパに、本当に人が居住しているエコビレッジがたくさん出現している
町村の行財政の緊縮が進んでいる
元作開小学校や私の家の老朽化が進んでいる
地域の農家や漁師さんとつながりができてきた
HPでいろいろと発信をし始めた
山村留学生が滞在している
研修宿泊棟がある
簡易宿泊許可や飲食業の許可を取得した
設計屋さんの知り合いもできた (できそうだ・・・)
ヨーロッパのエコビレッジを研究している人にも出会えた

これだけの ポテンシャルがそろってきたら・・・

いよいよ 滞在型の専門学校型の自然学校へ・・・



九州自然学校フォーラム

2006-12-23 17:27:11 | ツーリズム
九州自然学校フォーラム 報告書原稿  061223

第一分科会 「体験活動と市場拡大への自然学校を考える」

◆ 自治体の破綻 ~北海道で起きていること~
 北海道夕張市が財政破綻を来たし、財政再建団体となることが決まりました。第三セクターの大型観光施設群の閉鎖ばかりでなく、再建計画によると、図書館などの公共サービス施設も閉鎖され、市民も公共サービスの負担増を強いられることになりました。また、市職員の退職希望者は4割を越え、市長の月給はなんと26万円となると報道されています。 これでは、次期市長の成り手もいないでしょう。市外へ職や住居を移す市民は後を絶たず、町を支えていた行政職員ですら、転職のため市外へ住居を移すことが予想されています。これでは、残されるのは、高齢者をはじめとする「弱者」と称される人達だけとなりかねません。地域生活の崩壊は、現実のものとなり、大型の公共投資を続けた悲惨な結果をまざまざと見せ付けられる事態が、北海道に今、起こっています。 地方交付金の大削減のために、同様の状態直前の地方自治体は数多くあります。

◆ では、九州は?
 九州の各自治体の財政状況は、詳しいわけではないのですが、この苦しみには大差はないはずです。それでも、ここ何度か訪れている九州の各地で、民間でありながら「地域経営」に果敢にコミットメントしてゆく人達に出会え、私は元気を頂いています。ともかくも、九州の田舎には、「明るい」雰囲気が漂っています。

 北海道と九州の間に、市民の地方財政への危機感の差がここ5年で如実に現れ、危機感があるからこそ、その対処に様々な工夫が施されて来たのだと感じています。北海道は、地域再生に遅れを取っていると、今回のフォーラムの参加を通じて実感しました。

◆ 自然学校の役割
 そのひとつの表われが、「自然学校」であると思います。主催者に聞くと、「九州には百校余り」の自然学校があるといいます。北海道にも体験観光をキーワードにした業者が数多くいます。自然ウォッチングであったり、カヌー、ラフティング、登山、ホーストレッキングとその数は、百どころか、今や数百以上だと思います。業者の数としては、日本一かもしれません。しかし、自然学校と体験観光業者との違いには大きなものがあります。
それは、今回の「九州自然学校宣言」に書かれているキーワードを見てもわかります。 宣言には、連携・協働、地域に根ざした、地域の課題解決、コミュニティビジネス、公益ビジネス、国民総幸福量、環境地域づくりとった、資本主義型の組織経営では、現れないような言葉が散りばめられています。

◆ どのように市場を拡大するのか
観光は、人がたくさん住む大都市からの発地型スタイルで発展して来ました。都会の人が好むものを提供しすることが、田舎には求められて来ました。マスツアーに対応するために、小さな地域に大きな受け入れの仕組みを作ることを求められて来ました。 しかし、自然学校の戦略は、それだけでは駄目だと思います。大量の人が訪れることによる経済効果だけを指標としていては、全国津々浦々同じような体験活動になってしまいます。自然学校には、地域ならではの「個性」が必要です。その最も重要な個性とは、自然学校が地域の人々にも利用されている、あるいは、その存在そのものが、地域の「宝」になっているか、ということです。
もちろん、マスツアー対象の自然学校があってもかまいません。しかし、小さな町村に立地する多くの自然学校は、マスツアーを大量に受け入れること目指すと、地域の構造そのものを変えることも目標にしなけばならなくなります。それは、個性を没化させることにもつながります。

小さな自然学校が、小さな個性ある地域の交流を起こす役割を担うとき、大切なのは、「その地に住む人が、楽しげに幸せに生きていること」を見せることだと考えています。個人やグループで旅をするツーリストは、
 その地の「人」に出会いにゆくのです。その出会いを時には演出し、時には舞台にも立って行くのが、自然学校だと思います。
 地域の個性を磨き、自らも地域の「宝」となるような自然学校が、たくさん増える事により、相乗効果的に人の流れが生まれてくるのではないでしょうか。

 九州に、日本中に地域立脚型の自然学校が立ち上がってくることに、大きな期待を持つと共に、九州の皆さんのように、「明るい」自然学校を北海道でも作ってゆきます。


自然学校の役割

2006-11-25 19:06:14 | ツーリズム
自然や農村が先生、スタッフも生徒達    
~ 自然・産業体験型、生活体験型 地域教育の場づくり ~
(自然学校の役割 2006年度版 農文教原稿改)

◆ プロローグ  黒松内ぶなの森自然学校の活動とその背景
 黒松内ぶなの森自然学校は、1999年4月、落葉広葉樹・ブナの北限の町、北海道の南・渡島半島の付け根に位置する黒松内町に、国(当時の環境庁)、町、(社)日本環境教育フォーラム、特定非営利活動法人(NPO)ねおすの支援のもとに開校しました。 純酪農地帯にある生涯学習館(元作開小学校)を拠点に、「自然体験型、地域産業体験型学習プログラム事業」の推進、「自主・自律した次代を担う人材の育成」、「子どもを中核とした地域交流促進事業」の展開を3つの主要事業とし着実な運営を続けています。

 設立当初から、「自然・環境」「教育」をキーワードに、田舎と都市の人々の交流を進めるために、地域資源(自然、産業、地域に住む人々)を活かしたエコツアーの実践、子ども達の自然・生活体験活動、教育旅行の実施、実務体験を中心とした独自の人材養成の仕組みづくりを進め、上記の事業に関わるプログラム開発能力やその実行ノウハウの蓄積をしてきました。

 2002年度からは、これまでの運営目的に、「地域と共に・・・」、いう大きなコンセプトを加えました。田舎(過疎地)が行う、都市との交流事業(受け入れプログラム)は、これまで都市のニーズに合わせた、外発的な作用により、企画・実施されて来たと思います。 行政予算で補助された、参加費が安いイベントが開催され、集客を図るという構図です。しかし、これだけでは、年に何回も田舎に訪れ、地域に多少なりともお金を落とし続けるリピーターを創出することには、難しいと思えます。また、地方財政はひっ迫し、イベントが開催できない事態も現実化しています。

 これからは、田舎自らが、その地の固有の良さ(地域のお宝)を探し出し、あるいは創りあげて、それらを自らが発信してゆくという、内発的なエネルギーの醸造が求められています。
ぶなの森自然学校も、地域の繁栄を築く一翼を担える事業体としての成長を図ろうと、今、もがいています。そのために、小さな地域社会の人間関係性を活かし、1次産業との連携・協働を進めながら、自然豊かな農山漁村全体を学びのフィールドとし、「教育」と「交流」が連動した、自然体験・産業体験・生活体験の仕組みづくり = 地域・ツーリズムづくりを手がけています。 

◆ 地域の教育力と自然学校の役割
「地域の教育力とは何か?」という論議がよくされます。難しそうに聞こえますが、その教育力を、地域外からの来訪者に向けて発揮されるものだと限定すると、農山漁村地域に住み暮らす人々が、案外気がついていないことがたくさんあります。 実は、自らの日常生活、仕事それ自体が、都市からの来訪者に対して、大きな学びを促す教育力を持っているのです。

自然学校に地域外からやってくる大人も子どもも、トラクターや大きな農業機械が大地を耕す、牧草を梱包して大きなロールを作る作業を見たことがありません。 牛の大きさも実感したことがありません。ですから、それらに風景として出会う、そして触れるという行為だけからでも、感じとることは、とても大きいものがあります。広い大地の中で作業をする農業者から声をかけられた時にも、実は大きな感動を味わい、「農業」の存在そのものを、体全体で感じ取っているのです。 農山漁村地域の教育力というのは、積み重なる体験により培われた深い存在感があるものです。それは、決して、単に知識として習得させる力ではなく、来訪者に体感させ、それまでに知らなかった、わからなかったような、何か「新しいこと」を感じ取らせることなのです。

自然学校の役割の第一は、地域に住み暮らす人達の協力を得て、来訪者を、地域に本来ある懐深い事象や人(農作業、農村風景、農業者など)に出会わせる、触れさせる、体験させることにあります。 そのことにより、まずは、田舎のファン作りを進めます。

役割の二つ目は、単に「楽しみ」だけに終わらない活動を企画する事にあります。つまり、体験する事によって、人生(生き暮らす事)にとって大切なことや自然の営み、動植物や作物についての新しい発見や気づきを促すような、流れのあるプログラムを構成するのです。自然学校は、プログラムを企画し、それを実施する場でもあるわけです。

役割の三つ目は、この活動を展開するための人材の育成にあります。プログラムを企画・実施できるだけでなく、地域との関係性を築き上げることができる人材を育成することにも役割を果たしたいと考えています。
  
◆農山村漁村の社会的価値を高める
 都市生活者は、自らの生活の基盤に農山漁村地域があることを普段はほとんど認識していません。食料品は、自宅からわずか数分の距離にあるスーパーの棚に並んでいるので、私達の命の源となるエネルギーが、田舎から供給されていることを忘れがちです。食料の供給地として、農山漁村地域が存在することの意義を都市の人達に改めて見直してもらい、その社会的価値(存在価値)を高めてゆくことが必要です。そして、そのプロセス自体が、過疎地=農山漁村地域の活力再生につながると考えています。

 都市からの来訪者に、すぐ近くの日本海寿都(すっつ)湾で捕れた魚、地域の農家の協力を得て作った畑の野菜など、地域内で生産された新鮮な食材をつかった食事を提供する、ちょっとした農作業でいいですから、農家と一緒に農作業を体験する、そういった、接生産者、生産地に消費者が直接触れ合い、体験することが、農山漁村の社会的価値に気がつく、まず第一歩だと思います。

◆ 多様性の原則 
 ぶなの森自然学校は、自然豊かな第1次産業地域に立脚した自然体験・地域産業体験型学習プログラムを開発、実行することにより、それらに関わる人々(プログラムの参加者、実施者、地域住民)が相互に影響を与え合いながら自ら育つ「相互学習」を促進する「交流拠点」と「交流の仕組み」を創り続けています。そして、交流の拠点と仕組みを整備することにより、より多様な人々が、自然学校に関わりを持つことができるようになります。

現在、自然学校のプログラムの参加者は、幼児から大人まで幅広く、学生、社会人、外国人もスタッフとして活躍しています。訪れる人を多様化することにより、新たな人のつながりが生まれ、また新たな人が訪れるようになるのです。 多様な人が集うと、複合的かつ交錯的な「交流」が広がり、プログラム開発の更なるシステム的な発展が期待できると考えています。
同じ価値観や生活圏の人ばかりでは、均一で同質でしかありません。異質な考え方、生活をしている人達が集まってこそ、新しい気づきや発見がなされ、新しいものが生まれる「可能性」があります。

◆ モデルとする、「繁栄ある地域」とは何か
現代社会は、さまざまな社会問題を未来へと先送りをしているかのように感じます。そして、その未来を生きるのは、今の若者や子ども達です。少子高齢化社会、経済の仕組みの変化、それに伴う雇用形態の変容、政治までも変わりつつあります。社会全体が大きく変化しない限りは、抱える社会問題も解決してゆかないでしょう。つまり、人々、特に今の若者や子ども達には、その変化に対応する新しい生き方、暮らし方が求められているとも言えます。

人が生きるためには、さまざまな能力が必要です。その力は、「体験」の積み重ねに「知識」が付加されて身につくものです。 しかし、現代の若者や子ども達は、日常生活の中で、多様な人に関わることや、多様な生き物や環境に出会う「体験」の場はとても少なく、限られた狭い環境の中で生活をしています。彼等の交友関係や活動範囲は極端に狭められ、特に子どもの姿自体が街から見えなくなってきています。これは、都市だけの問題ではなく、農山漁村地域を含めた社会全体で、起きている現象です。このことに、大人たちはもっと注視すべきです。

子どもの歓声や笑顔がある地域は、活気があります。それは、大人達が相互に関わり合っている地域でもあるはずです。つまり、子ども達を安心して養育・教育できる地域こそが、今後「繁栄」してゆく地域でもあると思います。
これは、若者にも言えることです。自らの成長、自らの未来の生き方に大いに参考になる「体験」ができる場所を若者に提供することは、大人の役割です。一生懸命に大地や海や森と格闘しながら働く人達、心を癒す美しい自然、それらに若者が出会うことにより気づかされることはとても大きいのです。 心やすらぐ地域、新しい自分を発見できるような体験ができる場所を若者は欲しています。 繁栄する地域とは、子ども達の笑顔と歓声に満ち溢れ、未来を築く若者達が自らに磨きをかけようと暮らしている地域だと考えています。

◆自然が先生、農村が先生 
都会に住んでいると、社会の仕組みは若者や子どもたちには分かりにくいものです。小さな農山漁村に住むことにより、見えてくる社会の仕組みは実はたくさんあります。「この畑でAさんが作ったものが、ここでBさんにより加工され、あそこでCさんによって売られている」ということが、いとも簡単に目の前の現実として体験的に理解することが、小さな社会では可能です。

 黒松内は、人口3400人の小さな町ですが、「町」が構成できるということは、人が暮らすために必要なのさまざまな社会的機能(例えば、議会や役場があり、福祉施設や商店、さまざまな職業人がいる)を有するということでもあります。ですから、体験プログラムを企画する時に協力をしてもらえる人が、相手の顔が見える中で身近に存在するというメリットがあります。自然ばかりでなく、社会(環境、環境、産業構造など)をしっかりと体験的に知ることも可能なのです。

環境運動に、「地球規模的に考え、足元から行動する」という有名なスローガンがありますが、小さな地域住むと、逆の考え方のほうが、分かりやすいことに気づきました。つまり、地域社会に住み・暮らしながら、「地域のことをしっかりと考え、地球規模的な行動ができる人づくり - We Think Locally, Act Globally !」という姿勢の方が、実は重要なのです。 人が健全で心豊かな暮らしを営むためには、まず、自らの地域社会でのあり方を問い、自らが地域社会で、相互扶助の役割を担えるようになることが基本です。 そのうえで、はじめて、全体として持続可能な地球社会への貢献が、身近なこととして、捉ええられるようになると考えます。 この考え方は、まさしく農山漁村の暮らし方にあてはまる、原理原則です。

このような視点に立ち、自然学校は、次のような基本姿勢で体験的な学びの場づくりを目指しています。
①人は、個々が相互に影響を与えながら「自ら育つ」 (相互交流学習)
②そのために、地域内外の様々な人々が交流する、多様な仕組みを作り続ける 

◆ 自然学校の生徒達
自然学校は、学校と言っても、たくさんの子ども達や学生が毎日通ってくるわけではありません。毎月1回金曜日の夜から日曜まで実施する子ども自然体験活動「イエティくらぶ」の子ども達、春夏冬休みに1週間から3週間にわたって実施する長期体験村に全国からやってくる子ども達、児童生徒数が10名という小さな学校に自然学校から通う山村留学生(06年度は2名在籍)や農村体験のスローツアーや森歩きのエコツアーにやってくる大人が、自然学校の生徒です。しかし、これだけでなく、自然学校が大切にする生徒は、実はまだたくさんいます。

 それは、プログラムを企画し、実施する私達を含めたスタッフ、プログラムを支えてくれる研修生や実習生、カウンセラーと呼ばれる子どもを相手するボランティアの若者達です。 「相互交流学習」という考え方に立っていますから、実は、私達も自然学校で学ばせてもらっているわけです。

研修生は、NPO法人ねおす(北海道自然体験学校NEOS)に在籍し、プログラムを企画・実施進行するディレクターを目指して、毎年2-3名程度が、1年単位に自然学校で研鑽を積んでいます。また、他の団体から、指導者養成の実習の先として1ヶ月から8ヶ月程度の期間、滞在する人も毎年3-4名ほどいます。卒業生はすでに20名となり、各地で活躍をしています。卒業生のITさんは、ねおすの事務局長として屋台骨を背負ってもらっています。三重県大杉谷自然学校を立ち上げたOKさん、アウトドアガイドのKさん、福島で自然学校を開設準備しているKSさんもぶなの森自然学校で研修を積みました。
このほか、札幌や台湾の大学から単位を重ねた実習として参加する人、教員の長期研修者(最長6ヶ月)の受け入れ、国際ボランティア組織を介して長期滞在するアジアやヨーロッパ人も毎年3名ほどいます。

◆エピローグ
事務所の窓を見ると、真っ暗闇が張り付いています。でも、外に出て、夜空を仰ぐとオリオン座が東の空に上っています。すると、サソリ座は空から姿を消してしまったなと、西の山陰に思いをはせました。実に壮大な物語が天空に展開されています。自然学校の夜空は四方八方に深く大きく広がっています。散りばめられた星達の間隙を埋める暗闇を見つめていると、宇宙空間の途方もない奥行きも感じられます。

大都市は、高層ビルの窓の明かりとネオン照らされて、夜空は薄明るくなり、星はまるで見当たりません。同じ空を見ているとはとても思えません。そんな東京が夕暮れを迎える頃、満員電車に乗り空港へ、そして黒松内まで帰ることがありました。すると、夜10時頃には、半径2km以内でも人影が見えない我地に到着することができました。つい、4,5時間前には、私の周り半径2m以内に折り重なるように、ずっしりと人がいたのに、我が地には、東京とは比べものにならない大きな空間が広がっていることに今更ながら気がつきました。

夜空は満天の星です。そして、ゆるやかなに時間が流れ、酸素をいっぱい含んだ新鮮な大気に包まれているのが、黒松内という田舎です。

 私達は、田舎と都会という、とても環境が異なる2つの世界の中で生きています。人間が作り出した多様な世界である都会、自然界という多様性が高い田舎。そのどちらが住みやすいかは、人それぞれでしょう。しかし、どちらか一方の世界だけでは、こんなにも増加し多種多様化した人間達を養いきれないでしょう。 また、どちらか一方の環境だけに身を置くのでは、社会全体のあり方に対して、バランスの取れた感覚を持った「人」は育たないと思います。

 ぶなの森自然学校は、田舎に存在していますが、「2つの世界」観から考えると、両者の波打ち際に立つ存在でもあります。二つの世界を知りながら、バランス良く未来を見据え、バランスがとれた未来を創造する人達が、自然学校から輩出されれば、嬉しいかぎりです。






WHYの5乗

2006-09-01 12:22:05 | ツーリズム
というわけで、小さな地域の情報発信サイトを作るわけですが、それがなぜ必要なの?

①人の交流を起こしてゆく時、現在の自然学校からの情報発信では限界がある。
 → なぜ、限界なのか?
  → 自然学校の性格から発信情報が「自然体験活動」にかたよる。
   → 自然に興味ある人だけに限られる
    → より広く人が集う黒松内の仕掛けづくり
     → より広い地域情報を集め、発信する
    
②交流は地域の活性につながる。
 → なぜ、地域の活性につながるのか?
  → 新しい人との出会いは、新しい気づきや発見をもたらす。
   → なぜ、それが活性化なのか?
    → そのエンパワーメント性が、明日への活力や想像力を育む

③どのくらいの人数の交流なのか?
 → 自然学校は年間5000人の交流を創出した。
  → 地域全体の交流人口が増えることにともない、自然学校の目標2倍。
   → なぜ? 持続可能な経営が可能な数字として、当面の目標。

こんなことを 午後の全体会議で議論します。
それから 内容だな・・・。



エコツアープランニング

2006-06-16 17:59:49 | ツーリズム
エコツアーのプランニング
~自然と地域を来訪者に楽しんでいただく旅づくり~
Planning The Eco-tour for enjoying Visitors to Nature&Rural
                          (市民講座 講演要旨)
 
◆私達のエコツアーのコンセプト
北海道に観光に訪れる観光客は、広く雄大な景色を求める。そして、展望台から釧路湿原やオホーツクに広がる風景を眺め、「広いねぇ」という感想を発し、次々と記念写真を撮り、通り過ぎていく。そのほとんどは、「そこへ行く」ことが目的の「目的地到達型」の旅でしかない。

しかし、「雄大な風景」と形容される道東を始めとする北海道の自然、その中には実はさまざまな野生生物が複雑なバランスを保って生活している。 一方、北海道は、600万人に近い人々が暮らしている巨大な島でもある。野生と人間の暮らしがまさしく隣り合わせに存在し、その保護と開発の問題のまさに波打ち際にあるのが北海道である。つまり、人と自然との関わり合い方を学ぶことができる絶好の「環境」にあると言える。

通過型の旅では、風景は単に脳裏を流れ去るだけで、風景の中にある事象(生態、地誌、歴史、人々の暮らし、時間・季節での微細な変化など)を認識できない。自然のペースにあわせ、また、そこに生活する人々の視点など、いろいろな角度から北海道を見て、体感する旅をする事で、風景はより「現実」のものとなり、私達を取り巻く「環境」について関心を寄せるようになる。

旅人が、美しい自然にふれあい、北海道を愛するたくさんの人に出会うことで、感動をより深いものとし、自然を愛する心を育み、その「かけがえのなさ」に想いをよせ、ひとりでも多くが、保護・保存に協力してもらえるような意識を少しでも高めるツアーを作り出したい。

◆ツアーのフローラーニングを重視する
 北海道の自然豊かな地には、さまざまな地域資源(風景、生物、開拓の歴史、産業、人など)が存在している。まずは、旅のテーマ(ねらい)を明確にして、これらを組み合わせて、流れのあるストーリーを横軸にし、本物の体験、はかないもの体験、人やおいしい物との出会いなどを横軸に配置したプランニングを行う(フローラーニング)。 プランニングでは、例えば、次のような事項を演出すると参加者の満足度が高くなる。

 ・じっくりと時間をかけて滞在する。
 ・目線をかえる。(水鳥のようにカヌーに乗る、シカのように草原
  を歩く、馬に乗ってもっと高い視線から風にふかれる、同じ
  場所をいろいろな方向から見る。
 ・その地域に住み地域について詳しい人と出会い、言葉を交わす機会を作る。   それは、地元のインタープリター(案内人)ばかりではなく、宿の主人、
  商店  のおかみさん、港の漁師さん、露天風呂につかる地元のお年寄り
  であったりする。
 ・おいしく、楽しい食事 の時間を過ごす
 ・仲間(同行者)と感動を共有する

◆ツアー組み立てでの留意点
 上記のようなプログラムを展開し、参加者の満足度を高めるには、次の点を留意すべきである。

①定員は少人数。
10名前後を基本。自然への一度におけるインパクトの低減も考慮に入れているが、インタープリター(参加者にわかり易く情報を伝える解説者)の情報が行き届き、安全管理もしやすく、参加者内の意思疎通をはかれる。また、参加者の好みや要望に配慮でき、他の参加者との調整を計れる適度の人数である。

②機動力を確保する
エコツアーの対象素材は、そこへ行くと必ず見れる、出会えるという確実性の高い事象ばかりではない、「その時だけ」という、天候や時間に影響を受けるような「はかないもの」、不確実性なものも対象物となる。いろいろな角度から見せるという事は、場所を移動するし「比較」するということである。そのためには、臨機応変にツアーを展開させる必要があり、少人数で動けるワゴン車を利用した、小回りができる機動力性が求められる。

③インタープリターを配置する
自然や地域を案内する役割・インタープリターは、乗馬やカヌーなどのソフトも含め、積極的に地元の業者を活用する。これには、利益が地元に還元されるべきというエコツアーの原則もあるが、ガイドラインや資源管理調査が設定されていない現状では、地元の地域の自然をよく知る人をガイドラインの設定者として同行すると良い。例えば、「この近くにタンチョウの営巣があるので、今回は近づかないようにしよう」というような、具体的な情報を得ることができるという利点がある。

④コーディネイターを同行させる
地域に豊かな自然、資源やアクティビィティ(活動内容、現地インタープリターも資源である)があったとしても、それを有機的に結びトータル的なプログラムデザインをする人間がいなければ、エコツアーの目的は果たせない。またツアーの人数が少人数になればなるほど、インタープリターや地元の人と参加者、参加者同士のコミュニケーションは密になるので、それらを仲介するコミュニケーション能力にたけたコーディネーターの存在の有無が、満足度の高いエコツアーの成立に欠かせなくなる。

両者は、「インタープリターは人と自然の関係性づくりに、コーディネーターは人と人との関係性の加減調整」が役割となり、エコツアー進行展開してゆくことになる。コーディネイターは、インタープリターの話が参加者の興味や意識とずれていたとき、参加者にインタープリターのメッセージが届いていない時なども間に入ることになる。

またアクティビィティソフトを多めに用意し、そのときの自然の状況、ビジターの構成や希望に合わせ、自然には、インパクトが少なく、参加者には大きなインパクトを与えられるように、コーディネーターには臨機応変なツアーの進行展開が求めれる。 旅程管理を中心業務とするツアーコンダクターとの大きな違いはここにある。


◆環境教育とエコツアー
1975年にベオグラードで開催された環境教育の専門家が集まった初の世界会議で作られた「ベオグラード憲章」は、環境教育の目標的段階(関心→知識→態度→技術→評価能力)を示しているが、エコツアーを環境教育的に当てはめると、現行は、「自然や環境について感心を持つようになり知識を得る、それを自らの生活態度に反映させる」までの段階である。
 環境教育的な視点からも、エコツアーは、環境や自然に関心のある人々を増やしてゆくために、効果的な手法である。



青年よ! 田舎へ来たれ!

2006-06-07 20:59:35 | ツーリズム
 北海道の南、渡島半島の付け根に位置する人口3400人あまりの小さな町、黒松内町に私自身の活動拠点を移して6年目となる。元小学校であった施設を利用し、黒松内ぶなの森自然学校を運営し、地域に根ざした自然体験活動を展開している。
 私達は、都市と自然豊かな地との交流と教育活動=エコツーリズムを旗印にし、道東・弟子屈町川湯温泉、道央・大雪山の麓の東川町、道南の登別、そして黒松内にスタッフが居住する拠点活動に力を入れている。都市から人々を送り出し、エコツアーを実施するだけはなく、ツアーの受け地(エコサイト)づくりにエコツーリズムの実践を試みている。

◆自然体験活動は地域づくりに貢献できるか
 北海道ばかりではなく、日本の各地の田舎は過疎化が進んでいる。一見のどかでのんびりとした風景が広がっていても、そこに生活する人々の暮らしは厳しい。しかし、豊かさとは何かと考えたとき、お金では買えない都会にないものが田舎にはたくさんある。例えば、それは人と人との密な関係性であったり、自然の移ろいの中で身をおける安らぎであったりする。ところが、高齢、少子は都会に比してかなりの高率であり、三人に一人は高齢者、子ども達も一学年20名ほどしかいない地域は少なくない。地方交付税も激減し、町村財政は逼迫している。このままでは、田舎から人はますます減ってゆくだろう。過疎化の先にあるものは、国力の基盤である自然豊かな地、第一次産業地域の崩壊である。 
 その解決の方向は、地域内外の人々の交流を生み出すことにある。新しい出会いこそが、新しい関係性を生み、新しい地域創造のきっかけになると思う。そのとき、その出会いを演出できる手段となるのが、誰でも参加しやすい中身のある自然体験活動である。

◆青年よ! 田舎に来たれ!
◆ 何でもある都会に比べると田舎暮らしは不便かもしれない。しかし、何が不便かと言った所で
映画が見られない、可愛い服が買えない・・、所詮そんなものだろう。要はライフスタイルの問題でしかない。どちらのライフスタイルが格好いいのかに過ぎない。
 時代は、そろそろ、ルーラルライフ(田舎暮らし)の方が、ヤバクナイ?

(NPO法人自然体験活動推進協議会への コラム寄稿)

おじさんのマーケティング

2006-04-05 19:37:06 | ツーリズム
おじさんがおじさんのマーケッティング

ここのところ・・頭を悩ましていることがある。けっこういつも考え続けているのだが、考えるほどわからなくなる・・・
 それは、おじさん達へ向けた体験型プログラムづくり。

 これからリタイアするシニア層への滞在型プログラムを作ってゆきたいのだが、我事のようであっても本心に迫るのは・・・。  高齢社会を研究するシンクタンクともやりとりをして、そのニーズを探っているのだが、本当に彼等(私ら)は、何を求めているのだろうか?

 団塊の世代が60歳の定年を迎え始める2007年。彼等は時には社会と闘い、時には高度成長を生み出し、熱く過ごした世代。 私は、「断層世代」と呼ばれることもある、新人類と呼ばれた世代とのはざまにいる世代。 といっても、もう50歳。
この3代の60代からの暮らし方というのは、その生活スタイルが少しずつ異なるかもしれない・・とぼんやりと考えている。

まだまだ年金を保証されながらシニアライフを過ごすのと、年金はあてにできない世代とのギャップは大きい。 団塊の世代は、本当にお金を使うだろうか?? 余暇を楽しむのだろうか?
現在の70前後の元気なお年寄りのように、旅を楽しみ、おいしい食事にお金を使い、生活をするのだろうか?
 むしろ 新しい仕事を作ろうとするのではないだろうか・・・
案外、再び働くために、手に職をつけようとするのかもしれない・・・

 考えてみると、私自身がこの年代の男性とざっくばらんに、自分の持つ価値観に関わるような・・、雑談交じりの話していないことに気ついた。 話しているとしても、我業界の同じにおいのする人間ばかりかもしれない。
もっと 生身のマーケティングが必要だな。