011年3月11日14時46分、地震発生。1年前のことだが随分と昔のように感じる。
翌日、高木、星山、柏崎の3名が再開第1便のフェリーに乗り現地入りした。車で走る東北内陸には被災個所は全くと言っていいほど見当たらなかった。しかし沿岸に近づき津波の最終到達地点からは線を引くように風景が一変した。「天国と地獄」を跨いで見た気がした。被災者の多くはすでに避難所に入っていたが物資はなく、地域総出で支援にあたっていた。農家の庭先にテントを張り支援を開始し、現在は釜石市北部、鵜住居川上流の栗橋を拠点に活動を継続している。
◆今できることは何か ・・・
小さな避難所一か所だけで持ち込んだ物資はあっという間になくなった。衣類を替えていない、毛布がない人がほとんどだった。想像を絶する破壊された市街地を前にして、携帯電話、ラジオも入らない。物資を運びこんだあとは正直言って成す術(すべ)がなかった。「できることは何か」、考えるしかなかった。被災者と一緒に行方不明者を探し、運び込んだジャガイモを茹でて避難者に、車両燃料を消防団や商店に提供した。情報が途絶えていたので現状を伝えに内陸の町へ行き、大量の下着も手にいれた。目の前に広がる悲惨な現状は被災地の真っただ中にいても、いったい何が起こったのか、その現実に着いてゆけない。被災地の状況を被災地外に伝えることは難しい。今、目前の事態に対処してゆくことが求められた。私達の合言葉はいつの間にか、「できることをしよう」となりスタッフに浸透した。
◆役割は待っていてもやってこない。
支援活動は、被災者だけではなく被災者を受け入れる地域とも交流を重ね、外から支援に来た我々が何者であるかをわかってもらい「信用」を得ることが大切である。一方的な支援は長続きしない。役割は与えられることを待つのではなく、役割を見つけ出す・創り出すという姿勢と態度が必要である。
本報告は、発災から約7ヶ月の支援活動を記している。手がつけられない壊滅的状況の中で始まった支援から、巨大な瓦礫の山々や大きな建物の惨状は残るが、被災者は仮設住宅に入居し、それまでの復旧活動に復興の色合いが付き始めた10月末までの記録である。その日々はまるで4年も5年分もあったかのごとく密度濃い時間の積み重ねであった。しかし、復興の道のりはまだまだ長く厳しいだろう。その中にあって私達に「できることは何か」を今一度考えるためにも、これまでの活動を総括した。
NPO法人ねおす 理事長 高木晴光
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