はる風かわら版

たかぎはるみつ の ぼやき・意見・主張・勝手コメント・コラム、投稿、原稿などの綴り箱です。・・・

寿都の海に生きる

2014-04-30 17:25:31 | ツーリズム
BayWay後志原稿 2013夏

寿都の海に生きる。  川地純夫さん
                   黒松内ぶなの森自然学校・NPOねおす
                             浦西茉耶  高木晴光

寿都湾に面した横澗の磯から見える海は、昼下がりの光を受けてきらきらひかり、ゆったり広がっていた。日本海に面した国道229号線沿いに「よってけ!日本海」という大きな看板が見える。傍らのこじんまりとした漁港に川地純夫さんの船、「海生丸」と「正栄丸」が休んでいた。

はじめて川地さんに出会った時、「漁師」という空気の中に「面倒見の良い親分」の顔と、さらにそれだけではない「強い意志」を持つ目を見て、寿都と海を愛する漁師の新たな心意気を感じ心地よい衝撃を受けた。どこかからやってきた旅の若者の面倒をみ、漁業や釣り船等を体験させるなど寿都の水産業漁業のことを色んな人に伝えたいという熱い想いをもった人だ。

「海に行く」ことは「獲る」ことだった
昭和37年生まれの51歳。ナマコ漁師、遊魚船の船頭、日本海食堂(お連れ合いのさつきさん経営)、さらにライダーハウスのオーナーという顔を持つ川地さん。川地一族はその昔、石川県からニシンを追いかけて寿都へやってきた、かなり大きな網元で、川地さんは4代目になる。といっても、もともと漁師であったわけではない。お父さんは次男だったが、川地さんが小学校6年生の時に漁師の仕事をはじめ、春は定置網でサクラマス、ホッケ、ヤリイカなどを漁獲し、秋には厚岸のサケマス孵化場に出稼ぎに出ていた。川地さんも小学校6年生の時から、学校に行く前に定置網の手伝いをし、お父さんの遊漁船に一緒にのせてもらうこともあったが、どんなにがんばっても1時間で酔ってしまい、船にはいい思い出がなかった。そのため自分が漁師になるとは思わなかったそうだ。
今のように車があるわけではない、父親が子どもをかまうような時代ではない。6月の中旬になれば、子供同士で誘い合わせて海に行くのが日課だった。おにぎりと、切った芋、玉ねぎ、豆腐などをいれた鍋だけを持って海に行くと、暗くなるまで海にいた。潜って捕まえたウニ、アワビ、ヒルガイ、ツブなどを焚き火で焼き、たらし釣りでガヤやアブラコを獲って持参した鍋に入れて食べていた。もちろん、当時もそれは密漁にあたるが、子どもが海で遊ぶことにとやかくいう大人はいなかった。海は豊かだったし、「食べるくらいはいいべ」という暗黙の理解があったという。それどころか、密漁監視の大人が、「俺が見てるから大丈夫だ」と子どもたちを遊ばせてくれる大らかさがあった時代だった。
川地さんは、「それは子どもに必要な体験」だという。今から30年前ごろから、密漁が組織化すると同時に監視が厳しくなったそうだ。地域の人からでさえ「あそこの家の子、また潜ってるべ!」と言われるため、親も子どもを海から遠ざけるようになった。さらに「海は危険な場所」という指導が広まり海離れを助長した。だから、「今は漁師の子どもでも海に入ったことがない。若い漁師で海を知らないやつが多い。漁師が海がどんな所か知らないってのは問題だ」と川地さんは言う。

建築の世界にいた10年
とはいえ、川地さんが寿都へ帰ってきたのは37歳の時。建築の専門学校をでた後、大手のゼネコンに勤め、学校やマンションを作る仕事をしていた。27歳の時には独立して自分の工務店を持った。それから会社をたたむまでの10年間について、「大変だった」と川地さんはぽつりといった。バブルがはじけた後に起業してがんばっていた矢先、手形の事故にあい、借金を負った。引きつづいて離婚。ようやく手形の返済したころ、追い討ちをかけるように手に怪我を負ってしまう。それを機に、川地さんは寿都に帰ってきた。

釣り船「正栄丸」
 寿都に帰ってきても、川地さんはホタテの作業などの仕事を続けたが、無理をすると怪我を負った親指が疲労骨折してしまう。それでも仕事しなければと無理を重ね、指が治るのには8ヶ月を要した。建築も駄目、かといって漁師もできない。がんばらなきゃならないと思い、がんばっているのに空回りしてしまう。親との葛藤もあり、「ひきこもり」になったと言う。「なぜ自分だけこんな悪いことばかりおきるかな・・・」と思った。
 そんな期間が1年半くらい続いたある日、青森で大工をしていた母方のおじさんに「出てこい」と呼び出され、「何がやりたい?」と聞かれた。札幌に戻って、建築の現場はできなくても営業はできるかもしれない、でも何をやっていいのかわからない・・・そんな川地さんに、おじさんは「漁師はやらないのか?」ときいた。親父と肩を並べて漁にでることはできない、でもずっと好きでやっていた釣りは仕事にできるかもしれない。「釣りの仕事なら」と答えると、おじさんは「船を持てばいいんじゃないか?」と提案した。これがきっかけとなり、釣り船「正栄丸」を手に入れる決心となった。寿都の海で遊んだ子ども時代の思い出が蘇り、川地さんの人生の流れが大きく変わったのはそれからだった。

漁師・食堂・釣り船
 釣り船を持った川地さんのことを、たまたま縁のあった北海道新聞の記者さんが釣り新聞に紹介してくれた。そのこともあり、釣り船のお客さんは一気に上がり調子となった。
日本海食堂はお母さんが切り盛りして、春から秋の半年のみ営業していた。お父さんは漁師で、ナマコ漁とホタテの養殖をしていた。ナマコは当時でキロ380円と、現在よりはかなり安かったが、釣り船と食堂とナマコ漁で1年間充分食べられるくらいだった。このころ川地さんは、当時70歳で現役だったお父さんと大喧嘩をして、お父さんにホタテ業をやめさせたという。何十年も続けてきたホタテ養殖だったが、会社経営を経験した川地さんは「自分も含めて生計を立てるには、ホタテだけでは無理だ」と考えて、「申し訳ないけど経営方針をかえたい」と説得した。
川地さんとお父さんは、一緒に船に乗って仕事することができない。いわゆる「船頭多くして・・・」の状態になり喧嘩が絶えなかったそうだ。考え方が違う。お父さんは自然の中で長年培った勘を頼りにする漁をするが、川地さんは魚群探知機やGPS等の機械も使って漁船を動かし釣果につなげる。さらに、決められた漁獲量があればお父さんはその量をきちっととろうとする一方で、川地さんは、量は少なくても生産性を挙げるため付加価値をつけるのにどうするか、ということを考えていた。「量をとる人は薄利多売を覚悟でやらないといけないところがある。かといって小口単位は漁連では扱えない。そこを、自分のところで加工、売り方も工夫してブランド化し、お客さんに納得して買ってもらうことができればいい。獲るだけではなく、自分のところで出来るように考え、それに必要な経費がまかなえればいい。」と考えている。
一見、昔と変わらぬ寿都湾が広がってはいるが、水産資源は減っている。漁師業にも商売感覚が必要な時代なのかもしれない。

人と人、人と海をつなぐライダーハウス
 横澗漁港の日本海食堂から一段上がった高台に川地さんが作ったライダーハウスがある。もともとは、川地さんの釣り船のお客さんを泊めるための場所だった。日本海食堂は民宿も経営している。だが、お母さんが経営していた時代は川地さんの釣りのお客さんに泊まってもらうことができなかった。そこで、建築の世界にいた時の技を駆使してプレハブやトレーラーを早朝の釣り客の簡易宿泊所に改装し、展望風呂や洗濯場も作り2年前にはライダーハウスにした。「生産者であり、食堂もあり、ライダーハウスもある。人と、海の仕事をつなぐことが出来る」という。
川地さんの「弟子」の潤さんは、縁あって川地さんに漁を教わっているが、3年前の春、突然川地さんを訪ねてきたという海に興味のある若者だ。「仕事ないですか?何でもいいんだけど」と川地さんの扉をたたいた。
漁業を目指す人の受け入れに補助が出る研修制度もあるが、川地さんはそれだけでは、自分も若者も成長できないと、その補助制度を利用しない。すべて自腹で若者を預かり、若者が様々な体験を積める育て方をしている。「海に関わる仕事をたくさん体験させ、どの部分をがんばれば自分が伸びられるのか、背中で見せなければならない」と考えている。
川地さんは潤さんに漁業を教えるだけではなく、地域の人に手を貸して、といわれれば手を貸せる人に、地域の中で人と信頼関係を築くことが出来るようになって欲しいと考えている。「今の若い人は、すぐになんとなく他人に同調してしまう。『人は人!自分は自分!』という気迫が足りない。うわべだけの付き合いではなく、一歩踏み込んで痛い思いをしても、人ときちっと信頼関係を作れなければならない」と若い人への支援にも熱い思いを持っている。

「明るくなったら起きて、暗くなったら寝る。」
 川地さんの朝は早い。4時半に起きると、船を出すための段取りをして、6時に出港する。ナマコ漁の場合も釣り船でお客さんと出る場合も同じだ。釣り船の場合、12時には帰ってくる。ナマコ漁の場合ならば14時頃に戻り、ナマコを出荷して15時半には仕事を終える。晩ご飯は17時過ぎ、21時には就寝。明るくなって起き、暗くなったら寝るという生活だ。一方、同じ寿都の漁師さんでも、会社員と同じように、漁から帰ってきても17時まで仕事という人たちもいるが、「その必要はない」と川地さんはきっぱり言う。春は4月1日から5月いっぱいタコ漁。ナマコ漁は6月16日にはじまり、お盆過ぎまで。後は遊漁船のみだが、それも海が荒れる冬場はできないので12月いっぱいで終わる。冬は全く海にはでない。
日本海食堂は、31年前からやってきたお母さんから昨年、代替わりして今はさつきさんが受け持っている。川地さんにとって「あ・うん」の呼吸の人だ。日本海食堂も営業は春から秋で、船が海に出ない冬はお店を閉じる。
 「都会の仕事をやめて、海に戻ってきて仕事をしているので、自然に癒されている。建築の仕事は月末に追われていたが、今は自然のリズムに合わせて生活も仕事もできる。ストレスがなくなった」と川地さんは笑う。

水産資源が減少し、船の燃料代も上がり、輸入品も増え国内水産物の浜値も下落している時代となり、水産業の未来の展望は決して明るいものではない。しかし、川地さんのように海を愛し、海で働く若者を育てようとする浜の人がいる。

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日本海食堂
寿都郡寿都町字磯谷町横澗  tel 0136-65-6351
http://www.aurens.or.jp/~nihonkai/